狼獣人と偽りの恋人

一条珠綾 マジカルラブリー

第1話

「ホンマくん、これも処理しておいて」

 灰色の毛皮に包まれた他部署の同僚から一枚の領収書を手渡され、欄に記載してある金額を確認して受け取る。僕より頭一つ分ほど背が高い同僚は、僕が領収書を受け取ってからも、頭上から僕を見つめているのが分かる。

「た、確かに受け取りました」

その不躾な視線に、何か失礼なことをしてしまったのかと不安になってしまう。その不安から喉が塞がり、思わず声が裏返ってしまった。相手はそんな僕の様子を見て、「よろしく」と言ってフロアを出て行った。僕はほっと息をついて、自分のデスクで受け取ったばかりの領収書の処理を始めた。

 ここは、「ウルフワム・日本共同防衛省」、通称「共同防衛省」の経理部があるフロアだ。本日、四月三十日は省の下半期の経費清算の締め日である。フロアにいる経理部の職員は全員忙しない様子で、手元の紙を見つめながら、目の前のパソコンに数字を打ち込んでいる。

 先程、僕に領収書を手渡した同僚は、灰色の毛と鋭い牙を持つ狼獣人だ。彼らの背丈は僕より頭一つ分は高く、服の上からでも肩幅や足腰の頑強さが分かる。それに対して、僕は黒目黒髪という一般的な日本人の見た目をしている。人より大きく垂れがちな目はよく「眠そう」と言われるくらいで、特に目立つ点はない。身長は百六十五センチメートルで筋肉がつきにくい体質のため、狼獣人に小突かれただけでよろめいてしまうだろう。

 東京湾の真ん中に浮かぶ共同防衛省には、狼獣人と日本人という二つの種族が働いている。その理由は、僕の故郷である日本が二千百年頃に、狼獣人の国である「ウルフワム」という国に統合されたからだ。ウルフワムは最新の叡智を持った狼獣人達が治めており、古来より太平洋の真ん中にあったのだという。しかし、狼の見た目を持つ彼らが、他の種から迫害されるのを防ぐため、彼らは高度な技術で国全体を隠し、他国のレーダーや航空写真に映らないようにして、ずっとその存在を秘してきた。

 そんなウルフワムがある日、日本に使者を送って来た。その使者は、「ウルフワムは日本と和平条約を結びたい」と言った。しかし、提示された和平条約の内容はどう見ても日本側に不利なものが多く、対等な関係での条約ではなかった。

しかし、その頃の日本は既に先進国としての地位を失い、国力を欠いていたため、その要望を一蹴することができなかった。資源がない上に、世界各国の技術レベルが上がったので、日本で加工して売れるものが無くなってしまったのだ。財政は赤字が続いており、国が破綻する可能性もあったほどで、とてもじゃないが戦争なんていう手段は取れなかったと聞いている。

 ウルフワムの要求を聞いて、当時の日本政府は、最初は突然のことに驚き、慌てふためいたものの、ウルフワムの技術力の高さと和平条約の見返りとしてもらえる和平協力金の金額を見て、直ぐにその要求を受け入れた。ウルフワムでは金と石油が大量に採れるので、財政的には当時から非常に潤った国だったのだ。こうして、ウルフワムは、日本政府に対して多額の和平協力金を支払い、日本の国土の一部割譲と政府のコントロール権、そしてありとあらゆる場面で日本国民と同等の権利を得たのだ。ウルフワムの豊富な資源と技術力の高さを目の当たりにした国々は、日本だけを属国にして他の国に手を出さないのであればそれでよいと考え、ウルフワムはあっさりと国際社会での地位を認められた。それが今の二千二百三年から約百年前のことだ

「この領収書も処理しておいて。って、えーと、あー、そこの黒髪くん」

「は、はい」

 和平条約が結ばれてから、日本人とウルフワムは同等の国民であるという建前ではあるものの、実際は肉体的にも頭脳的にも優れた狼獣人に頭が上がらない日本人の方が多い。現に、今やってきた他部署の日本人は、出入り口に一番近い場所に座る狼獣人の同僚ではなく、少し離れた場所にいる僕を呼びつけた。

 そんな豊かな資源と優れた技術を持つ彼らが、二千百年になって存在を明らかにした理由は、ウルフワム内で原因不明の熱病が流行り、狼獣人の女性が少なくなったからだと聞いたことがある。そもそも性別に関係なく狼獣人は妊孕力が低く、狼獣人同士だと子を成すことが難しいらしい。子を成しづらいことに加えて、狼獣人の女性もいなくなってしまったために、開国することに決めたのだという。そして、人間の生殖能力の高さと日本人の見た目に目をつけたのだそうだ。狼獣人は総じて小さいものに愛欲を感じ、また黒色の毛皮は高貴さを感じさせるそうで、狼獣人よりはるかに体格が劣り、黒髪を持つ日本人は彼らのお眼鏡に叶ったらしい。ちなみに、狼獣人の男性は、交配する人間の性別に関係なく子を成す力がある。彼等の精子は男性の腹に仮腹を作る効用があるらしい。

 ウルフワムの人々の最大の特徴は、狼の姿形をしていることだ。ウルフワムの人々を指して、狼獣人と呼んでいる。狼獣人は、男性は平均して百八十センチメートル、数少ない女性も百七十センチメートルはあり、男女ともに筋肉質な身体つきをしていて、顔は狼特有の凛々しさを持っている。そして、狼獣人の多くが想像できないくらいに理知的な性格をしており、全ての狼獣人は日本語を話せる。それに対して、日本人でウルフワムの言語を話せる人はいない。そんな賢い彼らだが、読み方が何通りもある漢字は読めないことはないが、すこぶる苦手なようだった。なので、ウルフワムと和平条約を結んでからは、日本人はカタカナの名前を用いているようになった。僕の名前はヒビキ・ホンマで、ホンマがファミリーネームだ。約百年前、つまりウルフワムとの統合前は、日本人はファミリーネームの後に名前があったらしいけど、今ではすっかり馴染みのない文化になってしまった。

 そんな風に日本の文化と社会をがらりと変えたウルフワムとの和平条約により、僕が働くウルフワム・日本共同防衛省も設立された。名目上は二国の和平の証ということで設立された政府組織で、日本の各地に支部があり、本部は東京湾の埋め立て地に建てられている。共同防衛省は両国の軍事面のことを管轄していて、主な仕事内容は、両国間の防衛面に関する監視・威嚇や、共同して行う軍事演習の指揮監督などだ。もちろん有事の際には兵を出す役割も担っている。そして、そういう役割を持つ共同防衛省はいわゆる内勤と実働部隊で構成されている。内勤は経理部や総務部、法務部で日本人が多く働いている。実働部隊は陸上部隊、海上部隊、航空部隊に分かれており、それぞれのフィールドに特化した訓練を行っている。実働部隊は大半が狼獣人だ。狼獣人は身体能力に優れており、戦闘に関しては向かうところ敵なしであるからだ。

 その共同防衛省の中で僕がいる部署は経理部で、共同防衛省の運営に関わる様々なお金を扱うところだ。各省庁との予算折衝や給与の支払いなどをやっている。経理部は手先が器用で細かな作業が得意な日本人が多く配属されており、僕はその中でも若手だ。僕はこの共同防衛省に二十歳で入省して、あっという間に二年が経ってしまった。まだまだ仕事のやり方は覚えきれていないが、上司や先輩は新人にかかりきりなので僕ばかりに時間を割いてもらうことは出来ない。ただ、毎日の仕事は待ってはくれないので、四苦八苦しながら仕事をしている日々だ。

 今日は皆忙しそうにしているため、誰かの足手纏いにはなるまいと、経費精算の書類を睨みつけていたら、頸にチリッとした視線を感じて、思わず顔を上げる。そうすると、フロアの入り口に一際大きな狼獣人が立っており、目が合った。

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