第5話 三角形
「鳥居が赤いのが、どういう感覚なのか?」
ということを考えたことがあったが、
「これは鳥居に限ったことではなく、
「色の違い」
というものを意識させられる時というのは、精神的なことが影響しているという時が結構多かったりするのだった。
例えば、光が違って見えるという場合、
「同じ色を見ていても、感覚的に違って感じられる」
ということが、往々にしてあったりする。
そのいい例として、
「信号機ではないか?」
と思うのだが、
「信号機というと、普通に、青、黄色、赤という形で表現されるだろう」
といえる。
青が、
「進め」
黄色が、
「気を付けて進め(ここが曖昧なのだが)」
赤が、
「とまれ」
ということであるというのが、ほぼ皆さん共通の認識であろう。
慣れてくると、赤の部分を、
「一瞬であれば、気を付けて進め」
と思っている人もいて、危ない存在のやつもいたりするが、それを
「地域性」
ということで片付けようと考えている人もいたりするだろう。
ただ、ここでは、そういう理屈も問題ではなく、あくまでも、
「色の問題」
であった。
黄色に関しては、そこまでの意識がないが、青と赤に関しては、
「時間帯によって、見えている色の感覚が違っている」
ということであった。
というのも、前述の、
「時間帯によって、光の強さが違う」
ということからか、例えば、青信号の場合は、
「昼間などの時間帯のように、明るい時間帯の時は、緑色に見えるのに、夕方であったりの、ろうそくの炎が消える前であったり、魔物に出会うという、相馬が時と呼ばれるような時間帯であったりすれば、青が今度は、原色のように、くっきりと見えるのだ」
ということである。
特に夕方の、明かりというのは、いわゆる
「逢魔が時」
というのは、光の加減で、
「モノクロに見える」
ということで、余計に、原色を強く見せようとするものなのかも知れない。
それは、
「人間が、錯覚に負けないようにしようという意識が、潜在的に働いているからなのかも知れないが、それだけ、逆にいえば、見える範囲を狭めていて、ろうそくの炎のように、最後の抵抗という意識があるのかも知れない」
だから、昼間の、十分ば光の強さを受けることのできる時間は、無理に、原色でハッキリさせる必要などなく、明かりをコントロールするという意味で、
「緑に見える」
という力の調整を、兼ね備えているものなのかも知れない。
それを思うと、
「光の強さによって、目立たなければいけないものの調整が、人間の目に無理なく合わせるように、人間の構造はできている」
ということなのかも知れない。
だから、
「赤い色もしかり」
ということである。
昼は、ピンクっぽいいろでも大丈夫なのだが、
「夕方くらいからは、原色に近い形で光っているということになるのではないだろうか?」
といえるのだった。
これは、特に季節によっても変わってくる。
特に夏などは、夕方くらいまでが、ほぼ昼間といってもいいくらいで、
「夜のとばりが降りる」
という時間にならない限り、その原色というものが分からない場合が往々にしてあるということになるだろう。
それは、皆に言えることであるが、微妙な違いとして、
「夏に弱い人、強い人」
という個人差にも表れてくることであろう。
また、これが精神状態によっても変わってくる。
特に、
「精神疾患」
というものを持っている人であったり、その、
「予備軍」
と呼ばれる人であってもそうなのだろうが、
「躁状態と、うつ状態を持ち合わせている人は、特に感じることであろう」
と言われる。
もちろん、
「躁状態がない。うつ病だけしかない」
という人にも言えることで、
「躁鬱を定期的に繰り返している」
という、
「双極性障害」
と呼ばれる人にも言えることであろう。
子供の頃から、
「自分が何かの病気かも知れない」
と感じながらも、人には言えず、一人で、悶々と考えている人は、特に、この
「原色」
という考え方を、
「つながりがある」
ということを分かっているのかいないのか、考えさせられるということではないだろうか?
子供の頃というのは、
「大人になってから、なんでも分かってくる」
と思って、
「早く大人になりたい」
というのが、普通なのかも知れないが、大人になるということを、自分から拒否し、その理由として、
「病気だということが分かってしまうのが、自分で怖いからだ」
ということである。
これが、まわりが気づいて病院に、強引にでも連れていかれるということであれば、自分の中で、一縷の言い訳はできるのかも知れないが、まわりが何もしてくれないということで、
「すべての責任を自分で負わなければいけないんだ」
ということになると、
「病院に行く」
ということが、憚られられ、
「もし、病気じゃなかったら」
ということが、本当に、
「よかった」
ということで、納得できることなのか?
と考えさせられるのであった。
信号機というのは、基本的に3つの色がある。
「青、黄、赤」
であるが、
「それぞれの色が、どういう関係なのか?」
ということを考えたことがあるだろうか?
色というものの三原色というものがあり、それは、
「この三色を組み合わせることによって、人間が認識できるすべての色が票券可能だ」
と言われているようだ。
これを円盤のようなものにして、高速回転で回すと、色が混ざり合って、白い色になるという。その原理を使って、
「高速による、透明性」
ということで、
「透明人間」
というものを作ると考えた人もいたという。
「保護色のように、他の色にあたかも見えるかのような、カメレオンのような力が、保身ということで、備わっている」
と言ってもいいかも知れない。
また、保身として、
「石ころ」
というものと、同じ効果を示すものもある。
石ころというのは、河原などにたくさん転がっているが、
「そこに存在していても、見えているのに、その存在を意識するということはない」
というもので、相手のその存在を感じさせないという、これも、
「保身のための能力」
と言ってもいいだろう。
石ころは、その存在を知られようが知られまいが、人間や他の動物から、
「何かをされる」
ということはない。
実際に、動物の中には、気配を消して、その存在を分からなくすることで、
「外敵から身を守る」
ということが、往々にしてある。
というものだ。
砂の中にもぐって、姿を隠すものや、木の枝に化けるような形で、点滴に錯覚を起こさせることで、逃げるもの。
それぞれである。
ただ、これが人間であればどうであろう。
「動物は、逃げるために、保護色になったり、石ころのように存在を隠したりする」
ということであるが、人間は、戦争の時など、逃げたりすると、
「敵前逃亡」
とみなされて、
「銃殺刑」
だというではないか。
もちろん、兵隊さんなどは、
「国民を守る」
という使命から、
「逃げることを許されない」
というのは、
「一人が逃げてしまうということを許してしまうと、前例を作ってしまうということになる」
ということと、
「統制がとれなくなる」
ということで、
「士気が低下する」
ということになり。
「軍隊としての役割と、組織としての統制がとらない」
ということになり、それが、人間社会において、
「逃亡は許されない」
ということになるのではないだろうか?
考えてみれば、
「人間には、穂なの動物のような、保護色などと言った、身を守る本能のようなものが備わっているわけではない。あるとすれば、それは、
「他の動物にはない、高等動物としての、頭脳なのではないだろうか?」
しかし、人間は、
「自らを守るために、戦争をするわけではない。もちろん、侵略を受けて、防衛のための戦争であったり、安全保障の観点から、自分たちの生命瀨と思っている部分までを手に入れておかないと、いずれ、危険が降りかかってくる」
ということで、戦争を仕掛けることだってあるだろう。
戦国時代のような、
「群雄割拠」
の時代などは、いくら
「相手国を侵略する」
といっても、
「自衛のため」
ということだってあるだろう。
何氏を、まわりを敵国に囲まれていれば、当然、同盟を組んだり、それぞれの国の事情から、相手国を挟み撃ちにするというようなことだってあるに違いない。
よく、
「人間だけが、自分の損得のためだけに、人を殺す」
と言われるが、それは一部のことであり、実際には、侵略に見えても、
「自営のため」
と言ってもいいのかも知れない。
それを考えると、逃げることも攻めることも、相手あってのことであり、
「すべてを卑怯だというのは、筋違いだ」
ということではないだおうあ。
イソップ寓話の中にある、
「卑怯なコウモリ」
という話があり。
「鳥と獣が戦をしていて、撮りに向かっては、自分は鳥だといい。獣に向かっては。自分は獣だといって、逃げ回っている」
というコウモリの話であるが、
「結局、鳥と獣の戦争が終わると、コウモリは、卑怯者だと言われ、表に出てくることが許されず、夜の誰もいない時にだけ、表に出てくることができ。それ以外は、暗く陰湿な洞窟の中で、暮らしている」
ということになるというのだ。
これだけを聞くと、
「コウモリは、卑怯者扱いされて、他の動物から相手にされず、暗く陰湿な世界での生活を余儀なくされ、まるで、村八分にされているかのようで、気の毒な存在になってしまったのだ」
ということを感じるだろう。
しかし、果たしてそうなのだろうか?
暗く陰湿な場所で暮らしているが、それは、元々の、
「身体の特徴」
というものが、そういう世界で生きることを、
「コウモリの生態」
といことであり、
「人間であれば、耐えられるものではない」
ということから、逆に、そのような生態でいるコウモリが、
「どうして、そうなったのか?」
ということを、物語として考えた時、そのような、コウモリの話が、出来上がったのではないだろうか?
それを考えると、
「結局は、人間の傲慢さであり、勝手な思い込み」
というものではないのだろうか?
ということである。
「コウモリに限らず、動物がどこに住んでいようと、それは、動物自身が、望んでのことではないだろうか? そうでなければ、神様というものが存在し、その神様が、勝手に決めたことなのかも知れない」
と言えるのではないだろうか?
そう思えないのは、
「人間というものが、一番偉いもので、神様の存在というのは、そのことを証明するためのものではないのだろうか?」
と考えられるからである。
世界には、さまざまな、
「神話」
のようなものが存在する。
そのほとんどに、
「神様」
という存在があることから、
「神話」
と呼ばれるのだろうが、ほとんどのところは、
「神様というのは、人間を凌駕する存在」
と言ってもいいだろうが、しかし、神話によっては、
「神様というのが、一番人間臭い」
ともいえる神話もある。
それが、
「ギリシャ神話」
というものであろう。
ギリシャ神話というと、
「オリンポスの神々」
というものが存在し、全知全能の神ということで、
「ゼウス」
が孫座している。
そこから、
「オリンポスの十二神」
というそれぞれに、
「美の神」
であったり、
「戦の神」
などと言われる役目のようなものを持った神が、控えているといっておいいだろう。
しかし、
「オリンポスの神々」
特に、
「全知全能の神」
というゼウスというものは、一種の
「欲の塊」
あるいは、
「嫉妬の塊」
と言ってもいいのではないだろうか?
人間のオンナを好きになり、その子を宿したことで、他の女神が嫉妬したりして、その子供に呪いをかけたり、その国を亡ぼすということもあったりするくらいである。
人間側は、
「神の嫉妬や猜疑心のために、放浪され、最後には、滅ぼされるという運命になる」
というのは、これほど理不尽なことではないだろうか?
それを思うと、
「神がすべて、人間を救ってくれる」
というのは、あくまでも、迷信ではないかと思える。
宗教的に言われることとして、
「人は生まれながらに平等だ」
と言われるかも知れないが、
「決してそんなことはない」
と言える。
何を根拠に、
「生まれながらに平等だ」
と言われるのであろうか?
世の中に差別などまったくなく、貧富の差がまったくない状態で、
「不幸な人が一人もいない」
という、まるで、パラダイスのような世界でもない限り、人間は、
「生まれながらに、平等だ」
などということはありえない。
民主主義のような世界は、
「自由、平等、博愛」
などと言われているが、実際には、
「自由か、平等か?」
の二者択一にしかならない。
民主主義は、
「自由」
というものを優先させるということで、
「平等」
というものを犠牲にするということになるのではないだろうか?
「経済においての、自由競争が、平等というものを阻害している」
と言ってもいいだろう。
そこで起こってくるのは、
「差別的な待遇」
であり、
「世の中においては、平等というものを重視するなら、社会主義にゆだねるしかなくなってしまう」
ということである。
社会主義という考え方は、
「民主主義の限界から生まれた」
ということであり、
「民主主義の限界に挑戦している」
と言ってもいいだろう。
ということは、
「自由を抑えて、平等を優先する」
というのが、社会主義の考え方であろう。
そこで一番考えられることとして、
「民主主義の考え方は、自由なので、国家が自由競争には、関与できない」
ということである。
「合法でさえあれば、見た目には、詐欺に見えるものであっても、政府も、警察や、司法も介入できない」
ということである。
だから、警察というものは、
「民事不介入だ」
と言われるのだ。
いくら、民事的に相手を追い詰めることで、相手が自殺をしたとしても、警察には、そのことに対して介入できない。
それが、刑事的に、
「詐欺である」
ということであれば、警察が堂々と入り込んでいけるのであるが、その最低が微妙なラインであれば、
「疑わしきは罰せず」
ということで、
「警察も、国家も、何もできない」
ということになるのだ。
しかし、社会主義というのは、基本的に、
「民主主義の限界」
というものへの挑戦なので、
「民主主義とは真逆の考え方」
と言ってもいいだろう。
それが、
「自由」
と
「平等」
の優先順位で決まるということだからである。
だから、社会主義は、
「自由というものを犠牲にして、平等を優先する」
ということである。
だから、
「民主主義が、政府は不介入」
ということであったが、社会主義は逆で、
「平等のために、政府が介入することで、会社や個人の自由は制限される」
ということである。
「政府が介入するということは、まるで、戒厳令のようなものではないか?」
ということである。
戒厳令というものが、
「有事において、国民の自由を一部制限する」
ということである。
これは、
「大日本帝国」
と呼ばれる時代における、
「立憲君主国」
というものが置かれた立場で執行することができる法律であった。
しかし、
「日本が敗戦した」
ということで、諸外国から、
「押し付けられた体制」
というものが、
「日本式の民主主義」
と言ってもいい。
他の国に例のない民主国家として、作成された、
「日本国憲法」
というのは、その三原則に、
「国民主権」
「基本的人権の尊重」
「平和主義」
というものであった。
それまでの大日本帝国の主権者は、天皇だったのだが、それを、国民主権にしたということは、大きなことであり、さらに、
「天皇制」
というものは存続はさせるが、
「あくまでも天皇は、象徴でしかない」
ということになるのだ。
大日本帝国では、基本的には、人権というものは存在したが、
「戦時であったり、災害時など、国民の自由を制限できる」
という戒厳令を敷くことができるということで、政府や国家にて、国民の自由を制限することになるのであろう。
しかし、これが、日本国においての憲法では、
「基本的人権の尊重」
ということと、
「平和主義」
ということで、
「有事というものはない」
と言われることで、
「日本には、戒厳令はありえない」
ということになった。
だから、もし、
「何かの制限を認めなければいけないものができた」
として、他国であれば、
「罰則」
というもので、国民の自由を制限するということになるのだが、日本では、
「戒厳令というものはない」
ということで、国民の求めるものとして、
「要請」
という形にしかならないのだ。
だから、罰則というものは存在せず、あくまでも、
「要請」
ということなので、
「従うか従わないか?」
ということは個人の自由である。
しかし、そのために、
「世間的にどう思われるか?」
ということが別であり、
あくまでも、
「国家的に」
ということと、
「個人的に」
ということは別であり、
「個人的に制裁があるとすれば、それは、モラルや倫理というところでの考え方」
ということになり、
「その方が法律的な観点よりも、核心をついている」
と言っても過言ではないだろう。
社会主義では、
「国家が、個人の自由を蹂躙する」
ということから、
「政府のいうことに従わなければ、自由の制限どころか、刑事的な罰則もありえる」
ということで、
「国家体制に逆らう」
というのは、それこそ、
「国家反逆罪」
であったり、
さらには、国家の機密を他国にばらしたりなどすれば、
「国家売奴」
ということで、国家反逆と甲乙つけがたい内容での、
「極悪罪」
ということになるであろう。
結局、
「社会主義」
というのは、
「独裁国家でなければ、成立しない」
と言ってもいいだろう。
ファシズムというものを、
「独裁国家の代表」
と言って、毛嫌いしている人も多いだろう。
「ファシズム」
というものの発生がどういうことなのかというと、ナチスの場合は、
「第一次世界大戦の敗北」
によって、払いきれるわけのない賠償金を課せられ、sらには、領土も減らされ、軍部も縮小され、明らかに、
「息の根を止められた」
という形になったドイツにおいて、
「ドイツ民族の優位性」
というものを説き、当時の世界恐慌によって、まったく身動きが取れないところにもってきて、
「強いドイツ」
というものの復興を、
「独裁政権」
という、責任をすべて負うという政府の台頭が、ナチスだったのだ。
ナチス党は、完全に政権を掌握することで、国民を一つにまとめ、
「侵略」
というものを、
「民族の統一」
ということでの大義名分とすることで、
「ファシズム」
というものを、
「正当化する」
ということになるのであろう。
イタリアの、
「ファシスト党」
というもののスローガンも、
「ローマ帝国の栄光を取り戻す」
ということで、
「強力な政府を独裁国家に求める」
ということで、ナチスと同じなのであろう。
どちらにしても、
「持たざる国」
としての、苦肉の策なのかも知れない。
ここで出てきた政治家は、
「民主主義ではダメ」
ということを、
「バブル崩壊」
を予知した時点で分かっていたのだった。
しかし、その時に、
「ファシズムなのか?」
あるいは、
「社会主義なのか?」
ということになるのであろう。
確かに、
「ファシズムというのは、第二次大戦前夜から、戦時中まで」
ということであり、それ以降は、
「ファシズムは、極悪」
ということで、現れるものではなかった。
じゃあ、
「日本における体制は、ファシズムではないのか?」
ということであるが、体制としては、
「民主主義から見れば、ファシズムに近い」
と言ってもいいのではないだろうか?
そもそも、
「大日本帝国は、反共産主義」
ということで一致していて、
「シベリア出兵」
というのも、
「大日本帝国軍が最大の兵力を出している」
ということになるのである。
「信号機」
というものの、3つの色の関係というのは、
「三すくみ」
ではないかと思えた。
その発想は、
「じゃんけん」
というものと似ているようで、
「一つの色に混ぜ合わせると、真っ白になることで、その真っ白という色は、そのまわりの色に太刀打ちできるものではない」
という考え方であった。
そして、三すくみの考え方は、それぞれに抑止力を持っていて、その均衡というものは、
「円を描くように回っている」
ということであろう。
つまりは、
「三すくみというのは、先に動いたものが、やられてしまう」
ということである。
これは、
「将棋で一番、隙のない布陣というのは何なのか?」
ということであるが、それが、
「一番最初に並べた形である」
ということなのだが、それは、
「一手指すごとに、そこに隙が生まれる」
ということで、
「三すくみという考え方と似ている」
ということになるのであろう。
三すくみというのは、あくまでも、
「抑止力」
という考え方での、
「将棋の最初の布陣」
と同じことではないだろうか?
「三すくみ」
というものとよく似たもので、
「三つ巴」
というものがある。
これは、
「三すくみ」
のように、
「それぞれに、力関係がしっかりすることで、全体的な力の均衡によって、バランスが保たれることで、抑止力というものが働いている」
としてのものではなく、
「三つ巴」
というのは、それぞれの力が拮抗することで、
「それぞれに、バランスを保っている」
ということである。
だから、
「三すくみと三つ巴との違い」
というのは、
「三すくみは、必ず、三つの関係でなければいけない」
ということであるが、
「三つ巴というのは、2つであっても、4つであっても同じであるが、その際に、最後の一つである最強を決めるというやり方に、方法が決まっている」
ということで、
「それぞれの数に問題がある」
というだけのことであろう。
そんな、
「三すくみ」
と、
「三つ巴」
というもので考える時、
「どちらが、臆病なものなのだろうか?」
と考える。
参謀の死体を発見した男は、
「自分は臆病だ」
と思っていたのだが、その時、
「三つのものの関係」
ということを感じたのだ。
そこで、
「三つ巴」
と、
「三すくみ」
というものを感じたのだが、それが、どちらなのか、すぐには分からなかったのだが、それが、
「三すくみだ」
と感じたのは、
「俺が臆病だ」
ということからではないだろうか。
そんな中で、臆病と感じたその根拠として、
「この人は、何かの組織にやられたのではないだろうか?」
と感じたことだった。
組織を考えた時、
「社会主義」
「民主主義」
「ファシズム」
という、それぞれの、
「三角形の頂点」
というものを考えた時、
「三つ巴ではないか?」
と考えたことで、
「今回の殺人は、本当に三つ巴だろうか?」
と感じたことで、頭の中に浮かんできた、
「三すくみ」
という関係が、頭をもたげてきたのだった。
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