第4章 1 城下町とアカデミー
暖かな日差しの下、一人と一匹が日向ぼっこをしている。その一匹は隣に座るご主人に撫でられてご機嫌なのか、寝転んだまま尻尾をユラユラと振っている。
(おはよう)
僕は後ろから声をかけた。
(もうお昼だよ)
その声は少し尖って聞こえた。
(だって休みだし)
僕はその一匹の隣に腰かけた。
(お兄ちゃんはお寝坊さんだね~)
妹は笑顔でそいつに話しかけた。
そいつは言葉が分かるかのように「わんっ」と一声。
その声が合図かのように、急に辺りが闇に包まれた。
何も見えない。
隣にいた一匹も妹も。
手探りするも何の感触もない。
(どこに行ったんだよ)
応答は無い。
(返事してくれよ!)
静かな叫びだけが、暗闇の中に虚しく響いた。
恒久は飛び起きたが、辺りは闇に包まれたままだ。まだ夢の中かと焦ったが、左手の窓から仄かに差す月明かりが見えた。日が昇るまでまだ数時間あるようだ。
(良かった)
恒久はベッドの隣のサイドボードに置かれた水差しの水をごくごくと飲んだ。いくらか気分か落ち着くと、恒久は今の自分の現状を思い出した。
角の国の王様と王女様との夕食のあと、恒久達三人は兵士にそれぞれの客室へと案内された。通された部屋は、シングルサイズのベッドとクローゼットが置かれただけのシンプルな造りであったが、それが一人一部屋与えられた。何より嬉しかったのは、お風呂があったことだ。それも大浴場が。その存在を知ったときの女子二人は、文字通り飛び上がって喜んでいた。
お風呂の造りは、脱衣所も含めて日本の下町の銭湯というよりも、歴史の教科書に出てくるような古代ローマのそれに近かった。湯気が立ち込める浴場内には大人が三十人は入れるかという大理石で造られた広い湯船が中央に置かれてあり、ライオンではない何かの動物が口から湯を吐いていた。恒久はハーブの知識は無いに等しいが、カモミールやレモングラスのような清々しい香りが浴場内に溢れており、嘘のように長く感じられた一日の疲れを心身ともに癒してくれた。そのお陰で寝付きは良かったはずだが、夢にうなされて変な時間に起きてしまった。目が冴えてしまった恒久はトイレにいくことにした。確か浴場の向かいにあったはずだ。
部屋から暗い廊下に出ると、少しひんやりとしていた。この国自体が砂漠の真ん中にあるからか、昼夜で寒暖の差があるのかもしれない。辺りは物音ひとつせず、静寂に包まれている。隣の二部屋にいる二人は眠っているのだろう。あれだけのことがあったのだから、疲れていて当然だ。
トイレを済ました恒久の足は、中庭を目指していた。何か聞こえたような気がしたからだ。目の前の中庭へと続く木の扉を、ゆっくりと開ける。恒久が最初に感じたのは、草木と土の香り。それから水の流れる音。そして、微かに聞こえる歌声。今にも消え入りそうなその歌声は、円形の中庭の中央から聞こえてくるようだ。そこには、ガラス張りの天井から差す月明かりに照らされたあずまやがあった。いや、この場合パビリオンと言った方が好ましいか。容姿までは薄暗くて分からないが、そこにひとつの人影が見える。その誰かが歌っている。
ーー
時は癒してくれますか
あなたにつけた心の傷を
時は溶かしてくれますか
凍てつくあなたの優しさを
時は忘れさせてくれますか
あなたと過ごした僅かな時を
再びあなたに会えぬのならば
いっそ記憶を消し去りたい
その胸で再び眠りにつけぬのならば
日だまりのようなあなたの笑顔を
いっそ忘れ去りたい
それでもあなたは支えなのです
孤独に耐えうる唯一の
ーー
とても静かで悲しい旋律が、中庭の空気を伝って恒久の心を震わせた。恒久は歌声の主に気づかれぬように息を潜め、ゆっくりと近づいていく。円形の中庭の壁に沿うようにして植えられた樹木や草花のエリアの先は、中央のパビリオンを囲うようにして溝が掘られ、そこを川のように水が流れている。一メートルほどの水深がありそうだ。向こう側に渡るには二本の橋を行くしか無さそうだが、その間に身を隠せそうな物はない。どうしようか。いや、そもそもなぜそこまで歌声の主が気になるのか。悲しい歌声に、どこか惹かれるところがあったからか。なにも見なかったように、このまま部屋に帰るべきか。そうやってくどくどと考えているあいだに、歌声はいつのまにやら止んでいた。
「そこにいるのは誰?」
木の後ろに隠れていた恒久はドキリとした。思わず息を止める。心臓の音が聞かれないように、両手で胸を押さえる。木陰からゆっくりと様子を伺う。歌声の主がこっちを見ている。物音を立てた覚えはないのに、居場所すらもばれている。恒久は観念して、その場から姿を見せた。
「すみません。その、歌声が聴こえて。それで、あの、すぐに部屋に戻ります」
歌声の主がこちらに一歩近づく。腰まで届きそうなさらりとした長い髪。それが月明かりに照らされて白銀に輝き、その人物までを煌々と照らし出しているかのようだ。ドングリのような大きな瞳に少し高い鼻筋。ふっくらとした桃色の唇に、人間よりも少し尖った耳。歌声の主は紛れもなくリコレッタ王女だった。
「無礼ですね。覗きが趣味ですか」
王女様の声は昼間と打ってかわって刺々しい。
「いえ、そういう訳では。その、失礼しました」
「ちょっと待ちなさい」
頭を下げ、部屋に戻ろうとする恒久を王女様が引き留める。
「恒久様……でしたね。あなたに質問があります」
恒久は頭を上げ、王女様と向かい合う。心臓が波打っている。
「何でしょうか?」
「良いところですか?そちらの、その、人間の世界は」
「えっと、人間の世界……ですか」
唐突な問いに恒久は答えあぐねる。暫しの沈黙の後、恒久が口を開く。
「それは、残りの二人に訪ねた方がいいかもしれません。ごめんなさい」
「なぜです?そんなに難しい質問ですか?」
王女様は眉をひそめる。
「僕には、そうかもしれません」
恒久は王女様から目を背けた。
「そう、ですか。では、質問を変えます。あなたはどう思いますか?この世界を」
「どうって……」
「率直な感想で良いのです。人間の方と話をすることは、とても貴重なことですから」
王女様は何が聞きたいのだろうか。僕を試しているのかもしれないと恒久は考えたが、このままなにも答えない訳にもいかない。
「そうですね。実はまだ、信じられないんです。自分が別の世界にいるなんて。本当はこれは僕が見ている夢で、目が覚めたらいつものベッドの上なんじゃないかって」
恒久は先程の夢の内容を思い出したが、すぐに意識をこちらに戻す。
「でも、さっき夢から覚めたらやっぱりこの世界にいて。だから、正直まだ分からないんです。不思議なことが、砂浜に押し寄せる波のように、いくつも何度も押し寄せてきて、その波に揉まれているような感覚なのかな。上手く言い表せられないんですが」
恒久はそこで一呼吸置いたが、先を促しているのか王女様は黙ったままだ。恒久は続ける。
「ですが、とても豊かだなと思いました」
「何がですか?」
「この国がです。綺麗に整備された街並みに、たくさんの動物達が暮らしていて、様々な料理が出てきて、どれも美味しかったですし、温泉だって豊富に湧いていて」
王女様は俯く。それは夕食後にも見せた仕草だった。
「どうぞこちらへ」
少し警戒心を緩めてくれたのか、王女様は恒久があずまやに備え付けられたベンチに座ることを許可してくれた。恒久がおずおずとベンチの端に浅く腰掛けると、王女様も一人分の空間を空けて腰掛けた。
「先程の料理は、この国の一般の家庭で食べられる約一週間分の料理です」
それをこの国の王様達は毎日食べているのか。やはり裕福である。
「普段は私たちも国民とほとんど同じものを、同じだけ食べています」
「え?」
一瞬、恒久は王女様が何を言っているのか理解できなかった。
「温泉も、街には数件ありますが、使えるのは三日に一度です。普段は水で洗うか、濡らした布で体を拭うのがほとんどです。私たちもそうしています」
「そんな。じゃあどうして僕たちにはあんな気遣いを?」
「あなた方はこの国のお客様です。蔑ろにはできません。本来ならば、こういったことはお客様に対して話すことではないことは重々承知しています。ですがこの国の、いえ、是非ともこの世界の現状を知っていただきたいのです」
「この世界の……現状」
「ええ。ですが、続きは明日にしましょう。もう少しで夜が明けます。あなたも部屋に戻り、十分に疲れを癒してください」
王女様はすっと立ちあがると、足音も立てずに近くの扉から出ていってしまった。
恒久はしばらくの間、その場から動けないでいた。王女様が去った後には、雨上がりの森林のような心地よい香りが漂っていた。胸の鼓動が鎮まるのには、まだしばらく時間がかかりそうだ。
コンコンと、扉をノックする音が聞こえた。恒久が扉を開けると一人の兵士が立っていた。
「間も無く茜の鐘が鳴ります。それまでにこちらに着替えを済ませて、このまま部屋でお待ちください。再度お迎えに上がります」
「茜の鐘って?」
「一日の始まりを告げる鐘です。五回打ち鳴らされます」
兵士は端的にそう言うと、恒久に一礼してから隣の卜部の部屋へと向かった。窓の外は既に明るい。地平線から陽が顔を覗かせてから、恒久の体内時計では十分ほど経っていた。腕時計は壊れたままだ。恒久がこの世界での日の出を拝むことができたのは、夜中に王女様と出合い、別れてから一睡もできなかったからだ。王女様のことを疑っているわけではないが、昨日見た城下街の様子やこのお城の至るところで見受けられた豪華で見事な調度品の数々からして、恒久にはこの国が貧困に苦しんでいるようには思えなかった。兵士から受け取った服は、真っ白な木綿で編まれたような肌触りのシンプルな長袖長ズボンと革製の茶色いベルトだった。着替えてみると、しっかりとした生地で着心地も良く、安物でないことが分かる。これも恒久達への配慮だろうか。
恒久が窓を開けると同時に鐘の音が国中に響き渡った。これが兵士が先程言っていた茜の鐘だろう。リンゴーン、リンゴーンと五回聞こえると、それを見計らったかのように再度扉がノックされた。扉を開けると、先程の兵士と一緒に卜部と倉本が待っていた。二人とも白い長袖のワンピースのような服を着ている。生地は恒久の服と同じようだ。
「おっはよーう、木ノ下君。よく眠れた?」
温泉に入れたからか、昨晩の夕食後よりは機嫌が良くなった卜部の隣では、倉本があくびを噛み締めている。
「うん。まあね。二人は?」
「もうぐっすり。昨日よっぽど疲れてたみたい」と卜部。
「兵士さんに起こされるまで全く気づかなかった」と倉本。
「それでは人間の方々、こちらへ」
三人は兵士のあとに続いた。右手に槍のような武器を携えた兵士は、兜を被っているため顔は見えないが、槍を握る手からはフサフサとした茶色い体毛が生えている。
「あのう、兵士さん。あなたは何という動物なんですか?」
恒久が疑問に思っていることを倉本が聞いてくれた。
「私はジョンブルクです。名をクレイトンと言います」
「ジョンブルクっていう動物は聞いたことないけど、クレイトンさんね。私は倉本めぐみ。で、こっちが私の幼馴染みの卜部弥生ちゃんで、こっちが木ノ下恒久くん。よろしくね」
「ええ。こちらこそよろしくお願いします」
「クレイトンさん。僕たちこの国、というか、この世界に来てから時計を見てないんですが、今は何時か分かりますか?」
「ああ。人間の世界の時間という概念ですな。あいにく私たちは余り細かいことは気にしない生き物でして」
「じゃあどうやって朝起きたり、誰かと待ち合わせたりするの?」
卜部も気になっていたようだ。
「私たちは基本、日の出と共に目覚め、月が昇る頃に眠ります。中には夜行性の者もいますので、我々兵士は特に苦もなく昼夜で業務を交代できます。誰かと待ち合わせたり約束事を決める場合は、一日に三度鐘が鳴りますので、それで十分ですよ」
「鐘って、さっきの?キレイな音だったね」と、倉本。
「ええ。先程のは正しくは茜黄(せんこう)の鐘と言いまして、日が昇る頃に五回鳴らされます。日が真上に昇る頃に四回鳴らされるのが蒼藍(そうあい)の鐘、日が沈む頃に三回鳴らされるのが朱紺(しゅこん)の鐘と言います」
僕たちの世界だと今は何時頃なんだろうか。日の出が五時頃だとしたら、体感では六時は過ぎているだろう。いや、そもそも時間が流れるスピードが同じとも限らない。
「ちゃんと覚えないとね。すぐには元の世界に戻れないみたいだし」
考えを巡らせる恒久をよそに、卜部がもっともなことを言う。
「そう言えばめぐみ。昨日何か気になることがあるって言ってなかった?」
卜部が倉本に問いかける。確か昨日、王様と王女様に会う前に応接室で何か言いかけていたような。
「えっと、何だったかなぁ。う~ん」
倉本自身も忘れているようだ。
「あ、そうそう思い出した。クレイトンさん、その頭に被ってるの取れる?少しだけでいいの」
「え、ええ。少しだけでしたら」
クレイトンは立ち止まって、兜を脱いだ。離れた両目、少し前方に付き出した鼻と口、広葉樹の葉に似た耳。その風貌はどことなくシカを思わせた。しかし角は兜を被るのに邪魔なのか根元から削られている。
「これでよろしいですか?」
「うん。ありがとう」
「それで、気になることって?」
卜部が倉本を促す。
「えっとね、昨日ここの街に連れてこられた時に思ったんだけど、三種類いるのかなって」
「何が?」と卜部。
「う~ん。上手く言えないんだけど、四足歩行の動物、半分動物で半分人間、ほとんど人間の三種類。騎士の人達が乗ってたのが四足歩行のいわゆる動物で、クレイトンさんと昨日会ったサイみたいなビーンズさんは半分動物で半分人間。王様と王女様はほとんど人間。王様と王女様を見るまでは二種類かなって思ってたんだけどね」
説明し終えた倉本は鼻高々にしている。
確かに倉本の言う通りだ。昨日街で見かけた動物達のほとんどが二足歩行で喋っていたが、顔は動物そのものだった。その一方、王様と王女様は、角や体毛などの動物的特徴は残しつつも顔の作りはほとんど人間そのものだった。それと確かに普通のと言うのは変だが、動物のままの姿の者もいた。
「それはですね……」
「そこから先はこちらからお話しします」
言いかけるクレイトンの後ろに王女様が立っていた。二人の兵士が護衛として控えている。クレイトンは職務怠慢中の様を上司に見咎められた社員のようにビクッとし、恐縮して咄嗟に王女様に頭を下げた。
「良いのですクレイトン」
王女様は薄緑色のレースで編まれたドレスを身に纏っていた。王女様の可憐で清楚な雰囲気と昨夜の中庭での出来事とが相まって、恒久はその姿を直視できずにいた。
「みなさん。お疲れは取れましたか?恒久様は昨夜あれからお休みになれましたか?」
王女様からの不意打ちに、恒久の背筋が凍りついた。二人の女子が一斉にこちらを向く。
「木下くん、昨日王女様と何かあったの?」と、倉本。
「まさか、もう二人きりで密会とか?」と、卜部。
「いやいやいや。何にもないよ。ただ夜中に偶然出会っただけで……」
なぜか嫌な汗が恒久の背中を伝う。
「ふーん」と、女子二人。
その様を見て、王女様はどこか楽しげに見える。
「さあこちらへ。朝食の準備ができています」
朝食会場は昨日の夕食時と同じ部屋だった。王様はまだ来ておらず、王様の到着を待たずに王女様と三人の目の前に料理が並べられる。夜更けに王女様が恒久に打ち明けたように、昨日の夕食とは打って代わって、バターが添えられたパンが一切れとスープだけの質素なものだった。しかし、普段から寂しい朝食を摂る恒久にとっては、学校以外で誰かと食べる食事は久しぶりで、妙に嬉しかった。卜部と倉本も特に驚いた様子も見せず、黙々と食べている。
全員が朝食を食べ終わり、昨日と同じようにティーカップに紅茶が注がれると、一口飲んでから王女様が口を開いた。
「この後、あなた方に案内したい場所があります。先程のお話の続きもその時にした方が分かりやすいかと。よろしいですか?」
三人は一度顔を見合わせてから頷いた。
「あの、僕たちの仲間の捜索はいつから始まるのでしょうか?」
「本日の蒼紺の鐘の後に会議が開かれます。そこで今後の計画が決まると思われるので、その会議に参加できるように戻ってきましょう」
朝食後、恒久達三人は王女様と護衛の兵士二人に連れられて城下街へと向かった。通りを行き交う住人は初めは疎らだったが、王女様が現れると昨日恒久達がこの国に連れてこられた時と同じように、噂を聞き付けた住人達によって、通りは一瞬のうちに埋め尽くされてしまった。仕事や朝食をそっちのけで集まった住人達は皆、王女様に千切れんばかりに手を振ったり、嗄れんばかりの黄色い歓声をあげている。そんな住人達に王女様は和やかな笑顔で手を振り返し、時には住人達に近寄って短い言葉を交わしている。誰がどう見ても、王女様は住人達に深く愛されているように見える。しかし、これも昨日と同様だが、住人達が恒久達の存在に気づくと、一瞬ではあるが黄色い歓声が鎮まり、異質なものを見るような視線が恒久達に注がれ、そしてまたすぐに辺りは王女様への歓声で溢れた。
住人達でごった返した通りを抜け、異様にも思える光景がある程度収まったところで、王女様は歩みを止めた。そこは円形の大きな広場で、中央にはヨーロッパの大聖堂を思わせる造りの豪華で巨大な建造物が鎮座している。
「ここは王立アカデミーです。コニア王国に住む者であれば、様々な学問を自由に学ぶことができます」
石造りの王立アカデミーは、大きく分けて三つの棟から成っていた。中央の最も大きな造りの棟は、メインエントランスでもあるのだろう。半開きにされた門から利用者がひっきりなしに出入りしている。四階建てなのか、メインエントランスと思われるフロアの上に窓が均等に縦に三列、横に四列並んでいるのが見える。両翼にあたる二つの棟は全く同じ造りだが、中央棟よりも一階分低く造られている。中央棟と両翼の棟を結ぶように通路が伸びており、どうやらどのフロアからでも行き来ができるように繋がっているようだ。そしてそれら三つの棟から三本の尖塔が空に向かって高々と伸びており、それぞれに黄金色に輝く大鐘楼が備え付けられていた。
「こ、これはこれは王女様」
見上げる三人の首に痛みが生じ出した頃、一人、いや一頭のヒツジのような動物が小走りで近づいてきた。もちろん二足歩行で。昨日王女様に宰相と呼ばれていた者のようだ。
「仰って頂ければお迎えに上がりましたのに」
「良いのですピート。あなたもお忙しいでしょう」
「これは、もったいなきお言葉。して、アカデミーに御用とは……」
ピートと呼ばれた宰相が恒久達を頭から爪先まで嘗めるようにじっとりと見る。
「ええ。こちらの方々にこの国のことを知っていただこうと」
「左様でございましたか。では係りの者に案内させましょう」
「それと、ヴィンセントにも会えるかしら」
「ヴィンセント様……ですか。恐らくまだ眠っているでしょうが、先に訪ねられますか?」
「いいえ、後で大丈夫」
「承知いたしました。では後ほど」
ピートは王女様に頭を下げ、また小走りで門を抜けてアカデミーへと戻っていった。
「ここからは私一人で結構よ。あなた達は城に戻り、待機していて」
王女様はそう告げると二人の兵士は王女様に一瞥し、きびきびとした動きでお城へと戻っていった。
「さあ、行きましょうか」
王女様の後に続いてアカデミーの扉を抜けた先で、恒久達は今度は顎が痛くなるほど口をあんぐりと開けることになった。扉の先はメインエントランスで間違いはないようだが、視界を遮る壁が一枚もない広い空間が目測で五十メートルはあるであろう反対側の扉まで広がっている。さらに四階の天井まで吹き抜けになっており、等間隔に配された色とりどりのステンドグラスが太陽の光を受けてキラキラと輝いている。各階には四方の内壁に沿うようにぐるりと通路が設けられ、左右の壁に備え付けられた階段で各階を移動できるようになっている。そして圧巻なのは、壁という壁が数え切れない程の書物で埋め尽くされていることだ。その様はまさしく本の壁である。学校の図書室とはまるで比べ物にならない蔵書の数だ。それを見て口を開けたままの恒久の隣では、卜部が目を輝かせ、倉本が天井を見つめながらくるくるとその場で回っている。
「すごい……」
卜部が感嘆の溜め息を漏らす。
「ここには医学書や歴史書などの専門書からアートや家庭料理を紹介した趣味の本に至るまで、あらゆるジャンルの書物が保管されています。外への持ち出しはできませんが、アカデミー内であれば自由に閲覧できます。ウラベ様はとても本が好きなようですね」
「え?あ、うん。でもここにあるのは読めないよね。言葉、違うでしょ?」
「ええ。ですが、ご希望とあらば後ほど通訳の者をお付けしましょう」
「ホントに?王女様は優しいね」
「いえ、これくらいのことは……」
「あ、あと私のことは弥生でいいよ」
「いえ、そういう訳には……」
「じゃあじゃあ、私のこともめぐみって呼んでね」
「で、ですが……」
今の王女様にはおろおろという言葉がぴったりである。そんな王女様を女子二人は有無を言わさぬ目力でじっとみつめて離さない。
「わ、わかりました」
観念した王女様は卜部に向き直り、意を決したように大きく息を吸い込んだ。
「ヤ、ヤヨイ」
倉本の方を見て、
「メ、メグミ」
王女様はとても恥ずかしい言葉が口から滑ったかのように顔を赤らめた。
「うんうん。まだちょっと固いけど合格。じゃあ私たちも王女様のこと名前で呼んでいい?」
一国の王女様をして、卜部の肝はあぐらをかいているようだ。
「え、ええ」
「でもリコレッタはちょっと長いよね」と、倉本。
「それならリコは?」と、卜部。
「うん。それかわいい」と、倉本。
自分の呼び名を勝手に決めていく二人の女子に圧倒されて、王女様は大きな瞳をぱちぱちさせている。
「王女様のことリコって呼んでいい?」と、卜部。
「リコ、ですか」
恒久には王女様の顔がなぜか一瞬曇ったように見えた。
「ダメ?」と、倉本。
「いえ、とても懐かしい響きでしたので。どうぞ、リコとお呼びください」
王女様は笑顔に戻ってそう言った。
「良かったー。これで私たち友達だね」
倉本が飛び上がるように喜び、王女様の手を握る。
「友達……」
「昨日初めてリコを見たときから思ってたんだけど、リコの体毛って言っていいのかな。青みがかっててとっても綺麗だよね。光が当たると輝いて見える。ちょっと触っていい?」
「え、ええ……」
卜部が王女様からの了承を得る前に王女様の腕を撫でる。
「すっごい!さらさら!」
「ホントだ!ずっと触ってられるね!」
「あ、あの、こそばゆい……です」
卜部と倉本に両腕を撫で回されている王女様は、困っているようでどことなく嬉しそうにも見える。
「でもリコとフィヨルド王って似てないよね?お祖父ちゃんなんでしょ?」
「それは、私の祖母がブルーバックという動物を祖先に持っていて、私もその血を色濃く受け継いでいるからでしょう」
ブルーバック。また聞いたことのない動物だ。
「王女様。お待たせいたしました」
背後から突然話しかけられた王女様は、握られた手をそっと放し、何事もなかったかのように振り向いた。
「アカデミー内を案内させていただきます。モールと言います。なんなりとお申し付けを」
そう自己紹介したのは眼鏡をかけたヒツジのようなモコモコとした毛皮の動物だった。
「では、モール。この方々に館内を巡りながら、この国とこの世界について教えて差し上げて。私は先にヴィンセントを訪ねていますから、最終的にはそこにお連れして」
「承知いたしました」
「では後ほど」
王女様はそう言うと、くるりときびすを返して恒久達を残して足早に立ち去った。恒久の見間違いだろうか。王女様が去り際に、はにかんだように見えたのは。
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