4 旅の仲間と二杯の粥
水面に映る谷崎隼人の顔は、吐き気と疲労のせいで一気に老けたように見える。傷が治り、無理やり城から連れ出されてからどのくらい経ったろうか。城を出たときにはまだ高かった陽が、もうほとんど沈みかけている。その間、少しの休憩もなく隼人らを乗せて走り続けた怪鳥の乗り心地は最悪だった。
隼人は川の水を一掬い二掬いして顔を洗うと、そのまま水を少し飲んだ。ただ綺麗そうだったからではなく、隣でプルートが美味しそうにごくごくと水を飲んでいたからだ。行く宛の知れないこの旅に同行したプルートの目的は、隼人の傷を癒した病院『土室』の主任研究員を務めるアベルの言いつけで、これから向かう鱗の国との医療分野での親睦を深めるためであり、プルートはその特使として派遣されたのだという。
「どうだ。酔いは醒めたか?」
後ろから野太い声が聞こえた。隼人が振り向くと騎士の一人が布を持って立っていた。
「これで顔を拭け。さてと」
布を隼人に手渡した騎士は、城からずっと被りっぱなしだった兜をおもむろに外した。兜の下から現れたのは、深い堀と高い鼻、肩までのブロンド髪を携えた人間、ではなかった。よく見ると眉の上から二本の短い角が生えている。だが、目尻に刻まれた皺と顎を覆う髭の白さから、それ相応の年を取っているのが窺えた。
「なんだ?俺の顔に何かついているか?」
ブロンドの騎士が横目で隼人を睨む。
「いや、やっぱり人間じゃないんだなと思って」
隼人は、その兜を取るまでは騎士が人間ではないかと少しだけ期待していた。
「ああ、そうだな」
「あんた達はいったいなんなんだ」
「さあ、何だと思う?」
ブロンドの騎士は顔と髪を洗い終えると、真顔で隼人にそう聞き返した。
「分かるわけ無いじゃないか」
「本当にそうか?何一つ思いつかないのか?ならばヒントをやろう」
真顔で凄みのある騎士の表情が少し緩んだが、それが逆に不気味に見える。
「意地悪するんじゃないよ。ギミー」
後ろを向くと、もう一人の騎士がこちらを見下ろしていた。
「俺はまだ何もしてないぞ。ギール」
「あんたの話は長くなる。そうなる前に止めたんだよ」
ギミーと呼ばれたブロンドの騎士はその一言で押し黙ってしまった。
「それよりも、この辺りで自己紹介でもしようじゃないか。目的の地まではまだまだ遠い。お互い素性を知らぬでは何かと不便だろう」
そう言ってその騎士も兜を脱いだ。兜の下から現れたのは、光沢のあるチョコマーブル色の髪を頭の上で一つに結い上げた女性だった。その凛々しい話し方とは真逆の柔和な眼差しからは親しみやすさが滲み出ている。目立たないがギミーと呼ばれた騎士と同じ箇所に小さなこぶのような角が、前髪の間から見える。
「私はコニア王国第二騎士団所属のギール=ベルパ。ギールで構わないよ。それとこっちが」
ギールと名乗った女騎士は指差して、
「同じくコニア王国第二騎士団所属ギムレット=ベルパ。私の旦那だ。ほら、あんたも自分で言いなさいな」
「ギムレットだ」
二人の騎士は夫婦だった。先ほどの短い会話で二人の上下関係は容易に知れたため、ギムレットの威圧感は半減してしまったが。
「私たちはアルシノイだ。そして、研究員補佐のプルートだ。もう名前は知っているだろうが」
「改めましてケラトガウルスのプルートです。よろしくお願いします」
そう言ってプルートは深々とお辞儀をした。よく見ると鼻のあたりに二本の短い角が生えている。
「さて、あんたのことはある程度知っている。人間の世界から来たハヤトと言うのだろう。それ以外に何か補足しておくことは?」
そうギールに聞かれた隼人は一応年齢と性別を補足した。
「それと、俺をこれからどこに連れていくのかを詳しく知りたい」
「そうだね。城を出る前に話せれば良かったんだけど、何せ先を急ぐ旅だ。だが、今日の目的地には無事着いた。今夜はここで野営になる。話す時間は十分あるだろう」
ギールは立ち上がって続ける。
「しかし今は火起こしを手伝いな。空腹では明日まで体力が持たないからね」
ギールはそのまま木に繋がれた怪鳥の元へと歩いていった。飯と聞いた隼人は、先ほどまでの吐き気を忘れてお腹を押さえた。そう言えば目が覚めてから水以外何も口にしていない。
「おい、聞いただろう。薪を拾いに行くぞ。俺のカミサン、怒らすと恐いんだ」
声を落としてそう言うギムレットの目は本当に怯えているように見えたのが隼人には可笑しかった。それがこの世界に来て初めて、張り詰めっぱなしだった気が緩んだ瞬間だった。
「隼人、あんたがこれから向かうのは『鱗の国』というところだ」
すっかり陽も落ち、四人で焚き火を囲んでいるときにギールが話し出した。焚き火の上には石で簡単な竈が造られ、その上で鍋がグツグツと煮えている。
「コニア王国からあの子達の足でも丸五日はかかるし、起伏の激しい山も谷も越えなければならない厳しい道のりになる。覚悟しておくように」
「それよりも、何で俺がそんなところに行かなきゃならないんだ?」
「ああ、そうだな。あんたがこの世界に来てから何か変わったことはなかったか?」
「そんなこと、数えきれない」
「はっはっは、それもそうだね。聞き方を変えようか。あんたの体に異変や違和感はないかい?」
隼人はギールにそう聞かれて改めて自分の体全身をペタペタと触る。足から上へと順々に。
「特に何もない……ん?」
両腕がざらついている。この野営地に着くまでに怪我をした覚えはない。あの怪物に殴られたときについた傷だろうか。あの短時間で折れた肋骨も傷ついた内臓も治した『土室』という不思議な治療法がこの傷には効かなかったのか。しかしよく見ると、二の腕全体がラメでも振りかけたように焚き火の光を受けてキラキラと輝いているように見える。手の甲から肘に向かって撫でるとツルツルしているが、逆に肘から撫でるとまるで魚の鱗のように逆立ってチクチクする。いくら振り払っても全く取れない。
「それは、女神様から授けられた『海の加護』さ」
「『海の……加護』?」
「そうとも。それを授けられた者は『鱗の国』の所有物となる。だから『角の国』はあんたを『鱗の国』へと引き渡す必要がある。迅速克つ丁重にね」
今までの自分の扱いが丁重かどうかは置いておくとして、隼人はギールに尋ねる。
「なぜ俺なんだ?それに女神ってだれだ?」
ギールは眉間に皺を寄せてあからさまにムッとした。
「女神様だよ!さ、ま。女神様は私達の心の拠り所なんだ。なぜあんたが選ばれたのかは女神様の御意志だ。私には分からない」
「拒否したら?」
「何をだい?」
「俺がその『鱗の国』へ行くのを拒否したら、どうなるんだ?」
今まで沈黙していたギムレットが、ずいっとこちらに身を乗り出した。
「ほう。逃げる気か?それとも俺達二人を相手に闘いを挑むのか?何れにしても俺達はそれを全力で止めるし、お前一人ごとき重症を負わせることもなく無力化することなど朝飯前だ。多少の怪我は多目に見ろよ」
ギムレットが浮かべる不適な笑みは、自信の顕れかハッタリかは分からないが、少なくともあの怪鳥に乗るときに自分を片手で軽々と引っ張りあげたギールに敵わないことは、隼人にも分かった。
「……分かった。抵抗はしない。その代わりもう一度友達に手紙を出させてくれ」
ギールは口元に微笑を浮かべる。
「ふっ。意外とマメなんだね。いいさ。だがそれは明日になってからだ。今夜はこれを食べてもう寝るんだ」
ギールが竈で煮えている鍋の蓋を開けると、お米の香りが白い湯気と共に溢れだした。嗅ぎなれた香りに、空腹の隼人の胃袋が反応する。
「これは?」
「お粥だよ。あんたはこの世界に来てからまだ何も口にしていないだろう。まずは胃に優しいものからさ」
ギールは木製のおたまでお粥を一掬いし、木製のお椀に入れて隼人によこした。隣に座るプルートがスプーンを手渡してくれた。待ちきれずに一口食べる。隼人の口に広がったのは、優しくて素朴な甘味だった。胃が空っぽだからか、一口のお粥が喉から食道を通り、ゆっくりと胃に辿り着くのが分かる。二口、三口と食べ進めるうちに隼人の体全身が喜んでいるかのように発熱し、生気がみなぎる感じがした。
「どうだ、旨いか?」
そう話しかけるギールを無視して、隼人は残りのお粥を掻き込み、空っぽになったお椀をギールに突きだした。
「いい食べっぷりだけど、どか食いはよくないよ。二杯だけにしておきな。明日は今日の倍は走るからね」
隼人は二杯目を引ったくると、一分とかからずに胃に収めてしまった。残りの三人はまだ一杯目を食べている最中で、それをただ眺めているのは、おあずけをくらった犬のような気分だったが、腹心地が良いからか、それほど悪い気はしなかった。隼人はふと夜空を見上げた。焚き火以外の光源がない砂漠からは、今まで見たことがない数の星々が瞬いて見えた。
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