3 ルベルの話と牙の国
タケはベッドの上でゴロゴロしている。夕飯のカレーとシチューをたらふく食べてから何時間経ったか分からないが、夜中はとうに過ぎているだろう。窓から見える外は静まり返り、明かりといえば空に輝く無数の星々だけである。人一人分空いて並ぶ隣のベッドでは、スースーとコリーナが静かに寝息を立てている。タケが眠れないのは、暗すぎるからでもコリーナの寝息のせいでもない。夕飯の後、ルベルが語ったことがタケの頭のなかでぐるぐると渦を巻いているからだ。ルベルの厚意で幸運にも何とか当分の食べ物と寝床にはありつけることになったが、いつまでも二人の世話になるわけにもいかない。しかし、どうすれば元の世界に戻れるのか検討は付いていない。何にしても、まだまだ情報が足りない。分かったことと言えば、この世界が『ノア』と呼ばれていることと異世界ではあるが言葉が通じること。食べ物の味には困らないこと。それと……。
(既に絶滅した動物達……)
タケはルベルが語ったことが今でも信じられずにいた。自分が連れてこられた場所が異世界だということも、人間に似た動物がいて言葉を話すことも十分に信じられないことではあるが、ルベルが最後に語ったことはタケの理解力をはるかに越えていた。
『僕たちはね、既に絶滅した動物なんだ。タケ君が住む地球上でね』
ルベルは確かにそう言った。ただの冗談だとも言えなくもない。だが夢の中にある世界に連れてこられ、目の前で動物が人間のように歩き、言葉を話す様を見せられると、そこだけ冗談を言ったとも思えない。それにルベルがタケに嘘をつく理由が見当たらない。嘘をつくのが趣味というならお手上げだ。さらに、そのあとにルベルが見せてくれたものも、にわかには信じ難かった。
『僕の祖先はエウクラドケロスというシカに似た動物でね。この角はその名残さ。コリーナの祖先はサイラシン。フクロオオカミといった方が分かりやすいかな』
エウクラドケロスという動物に聞き覚えはなかったが、フクロオオカミというのは前に図鑑で見たことがある。確か数十年前までオーストラリアに存在していた、カンガルーのようにお腹に袋を持った珍しいオオカミだ。
『僕たちが人間の言葉を話せたり、似たような料理を作れたりするのは、君たち人間が見る夢を自由に覗くことができるからさ。これを使ってね』
そう言ってルベルが懐から取り出したのは、掌大の丸いガラス玉だった。だが、目を凝らしてみても白い靄が中で渦巻いているだけで、それ以外は何も映っていない。
『これは白煙水晶と言って、この世界に住む成人を迎えた者に与えられる、この世界にしかない水晶でね。こうやって両手で包んであげると……』
濁ってよく見えなかった水晶がルベルの手の中で淡い光を放ち、靄が晴れた。すると何か影のようなものが水晶に映し出された。それは徐々に輪郭がハッキリしてくるとともに色づいて、ある一人の人間の形を成した。誰かは分からない。欧米人だろうか。金髪で鼻が高く眼鏡をかけた男性が、水晶の中で必死の形相で走っているのが見えた。後ろをチラチラと振り返っていることから、何かから全力で逃げているように見える。
『これは……』
目の前の状況が飲み込めないタケはルベルに助け船を求めた。
『これは誰かが何かから逃げている夢のようだね。さて、これからどうなるかな』
タケが水晶に視線を戻しても、その誰かはまだ走っていた。ただ、体力が尽きかけているのか先程よりも走るスピードが落ちている。突然、その男性の背中を何かが掠めた。男性は前のめりに倒れこみ、シャツの背中は引き裂かれて血が滲み出していた。上体を起こし、後ろを振り返った男性は青ざめた。その瞬間にこちらの視点が切り替わり、男性が見ているものが見えた。身の丈五メートルにもなろうかというネズミが、仁王立ちで男性を見下ろしていた。男性を追い詰めた巨大なネズミはニヤッと笑うと、右前足を高く持ち上げ、座り込む男性に向かって勢いよく振り下ろしたところで、水晶は真っ暗になった。
『あの人は、どうなったんですか?』
映像に見入っていたタケは、続きが気になって仕方がなかった。
『なに、今ので夢から覚めただけさ。あの人間は、おおかたネズミにトラウマがあるのか、何か悪さでもしたんだろう』
『今のが、夢?』
『そうさ。夢らしく、現実的な内容じゃなかっただろう?』
確かに現実であんなに巨大なネズミに追いかけられるなんてことはありえないが……。
『この水晶を使えば、誰のどんな夢でも見られるんですか?』
『基本的に誰の夢でも見られるが、見たい夢の指定はできないんだ。誰の夢を見ているのか分からないから指定のしようがないだけなんだが。ただ、もう一度見たい夢はストックができるんだ。数に限りがあるけどね』
もうひと夢見るかい?と言ったルベルの顔は好奇心に満ち溢れていた。
(ワンワンッ)
昼下がりの公園を一匹の犬が、楽しそうに走っている。その犬の首には水玉模様の青い首輪が付けられ、そこから延びた首輪とお揃いのリードを誰かが握っている。その犬はご主人と遊べるのがよっぽど嬉しいのだろう。弾むようにその体全身で喜びを表現している。
(良かった。ここにいたんだ)
楽しそうな一人と一匹に近づこうとするが、公園にあるはずのない門が目の前でガシャンと音を立てて閉じられる。
(何だよこれ)
鉄の門はびくともせず、その間に一人と一匹はどんどん遠くへ走って行く。
(待って!お願いだ!)
門の隙間から伸ばした手は、何も掴めずに空を掠めただけだった。
「タケさーん。もう朝ですよー」
まだ聞き慣れない声に、タケの目は勢いよく見開かれた。すぐさま上体を起こし、周囲を見渡す。一人用のベッドが二つとクローゼットが一つ、それと書き物机が二つ置かれただけの質素な部屋の扉からコリーナの顔が覗いている。
(ああ、そうか)
昨晩なかなか寝付けないながらも、いつの間にやら眠っていたようだ。元は動物と言えど女の子に寝起きを見られたタケは、取り繕うように大きく伸びをした。
「おはよう、コリーナ。ごめん、寝過ぎたかな?」
窓からは光が差し込んでいるが、時計が無いため何時かは分からない。部屋の窓を開けるのに手こずっているコリーは、昨晩の半袖半ズボンの寝巻きから、麻で編んだような袖無しのワンピースに着替えている。
「いえいえ。これから朝食の準備なので、その間に顔を洗って、そちらの机の上の服に着替えてください。よし、開いた」
コリーナが開けた窓からは、爽やかな風と共に家々からの朝食の香りが漂ってきた。現実の世界とさほど変わらない朝に、タケは少しほっとした。
タケは部屋を後にして風呂場の隣にある洗面所兼脱衣所へと向かった。昨日の夕飯の後、コリーナに連れられて家の裏庭へと繋がる勝手口を抜けると、小屋があった。中にあったのは願ってもみなかったお風呂だった。人一人浸かるのがやっとの湯船ではあったが、立ち上る湯気と落ち着いた木の香りが飛び上がるほど嬉しかった。石鹸やシャンプーはなかったが、代わりに青々とした木の葉がザルいっぱいに盛られていた。『それで体を洗うんです。二、三枚手で揉みほぐして体を擦ってみてください』というコリーナの言う通りにしてみると、ほのかな柑橘系の香りとミントのような香りが広がった。泡立ちこそなかったが、風呂上がりは全身がさっぱりとして心地よかった。風呂の湯加減は少し熱かったが、これまでの疲労と汚れが全て洗い流されたようだった。タケはてっきりコリーナが湯の温度を保つのに竈に薪をくべてくれているものだと思っていたが、入浴中ずっと隣のキッチンからコリーナとルベルの話し声が聞こえていたのが不思議だった。二人にそのことを尋ねると、『お風呂は自分で沸かす必要はないんだ。この国には至るところで温泉が湧いていて、ほとんどの家に引っ張ってきているからね』とルベルが教えてくれた。
顔を洗い、コリーナが用意してくれた服に着替えてキッチンに向かうと、コリーナが朝食の用意をしていた。
「あ、タケさん。もうすぐ朝御飯ができますから座って待っててください」
「ありがとう。でも俺にも何か手伝わせてくれないかな?昨日から迷惑かけてばかりだし」
「そんな、迷惑だなんてとんでもない。タケさんはお客様なんですから当然のことです。それより、すみません。ゆっくりと一人で寛げるお部屋を用意できなくて」
コリーナは申し訳なさそうに苦笑いする。
「いや、至れり尽くせりだよ。美味しいご飯もお風呂もベッドも、もう諦めてたから。本当に感謝してる。ありがとう」
「ふふっ。どういたしまして。です」
コリーナは照れくさそうにはにかむと、鼻唄混じりにテーブルにお皿を並べだした。タケの目の前と昨日コリーナが座っていた椅子の前に一枚ずつ。
「コリーナ、ルベルのお皿は?」
「お師匠様は朝早く王宮に行かれました。新しくできた薬のことで」
昨日の薬のことだろうか。タケは傷口を見る。もうほとんど傷跡は目立たず、触っても違和感は無かった。
「できましたよ。さあ、食べましょう」
コリーナが作ってくれた朝食はサンドイッチと温かいスープだった。席に着いたコリーナは、食べる前に昨日と同じように胸の前で手を組み、目を瞑った。
「それは何を祈ってるの?」
コリーナが目を開くのを待ってからタケは尋ねた。
「女神様への御礼です。日々の恵みに感謝しますって」
「女神様?」
「はい、今は不在なんですが、私は戻って来てくれると信じています。さあ、食べましょうか」
タケはそれ以上は聞かずに、目の前のサンドイッチにかぶりついた。挟まれていたのは、たまごサラダとハムとトマトだった。そしてスープはカボチャを丁寧に濾したもの。どちらも美味しくて安心できる味にタケは自然と笑みがこぼれる。
「コリーナの料理はホントに旨いな。お母さんに習ったの?」
「いえ、祖母です。母は私がまだ幼い頃に亡くなったので」
「そう……なんだ。ごめんよ」
「そんな、タケさんが謝ることなんて一つもありませんよ。それに母の記憶はほとんど無いので、悲しいと感じたことは無いです」
それはタケを心配させまいとした強がりだろう。常に明るく気丈に振る舞うコリーナを見てタケは自身の母を思い出していた。
「あ、そういえば返すのを忘れていました。これタケさんのですよね?昨日タケさんのお洋服を洗濯したときにズボンのポケットに入っていたんですが」
そう言ってコリーナが見せてくれたのは木の小枝だった。
「これは……あの兄弟が持ってた笛……」
「あ、そうだったのですか。でもこれ、とても精巧に作られてますね。ただ小枝を削っただけではなくて、蜜蝋を塗って、より頑丈にしてあります。とても貴重な物ですよ。持ち主に返す返さないは抜きにして、持っておいた方が良いと思います」
「そ、そうなのか。コリーナがそこまで言うなら……」
アイツが一度吹いてたな。後で入念に洗っておこう。
「朝食のあと、タケさんは何かしたいことはありますか?」
したいことと聞かれてタケは首を捻る。右も左も分からない場所で何をすべきか……。
「街が、見たいかな」
「良かった。私も街を案内するつもりでした。ついでに買い物などの雑事も済ましてもいいですか?」
タケの口は長い間、開きっぱなしだった。朝食後、コリーナに連れられて街に出たタケは、昨日初めてこの国に入ってからもそうだったが、驚きの連続で口だけでなく目も開きっぱなしだった。昨日登った、二百段以上ある階段の先には、円形に広がるエントランスがあった。陸上の四百メートルトラックほどの広さはあるだろうか。洞窟のようにくり貫かれた造りのため、上から日の光は差さず、代わりに周囲の壁の至るところに明かり取りの窓が備え付けられていた。壁は外のゴツゴツした岩肌と違い、丁寧に研磨されていた。中央には百貨店で見かけるような案内所があり、二人の警備員が暇そうに欠伸を噛み殺していた。ルベルの家はエントランスから伸びる五本の坑道の右から二番目を抜けた先にあった。この国はドーム状に円を描くように家が立ち並んでいることは昨日何となく分かっていたタケだが、それを裏付ける目の前の光景はタケの想像を遥かに越えていた。
山をくり貫いたなかに、また山があった。タケは今、ルベルの家から少し歩いた路地に立っているが、そこから見上げた先にいくつもの家々が半円状に並んでいる。反対側にも同じように並んでいるのだろう。そのまた一段上に同じように家々が並び、さらにその上にもう一段。それぞれのエリアは随所に設けられた石段で繋がっている。上に行くに従って家の数は少なくなり、一軒一軒が大きく豪華になっているように見える。そしてその最上部には日本の戦国時代を思わせる、瓦屋根のお城が堂々と鎮座していた。そこから数えて、ルベルの家は四層目に位置していた。
「あの一番上にあるのが、キバ王国の領主ダガ様の居城です。この国は死火山をくり貫いた中に築かれていて、あのお城はその噴火口の真下に建てられています。なので太陽がてっぺんまで昇ると、あの噴火口から日の光が一直線に注がれます。とても綺麗ですよ」
「へ~。あそこがこの国の中心ってことだね。分かりやすい」
コリーナの説明に納得したタケだが、同時に少し違和感を覚えた。
「住民はあのお城には許可なしには入れませんが、それ以外のエリアは自由に往き来できます。一番近くまで行ってみましょうか」
タケは頷き、コリーナが登りだした目の前の階段を見上げた。各エリアを繋ぐ階段は、複数箇所にほぼ等間隔に造られているので、住民はわざわざ遠回りせずとも近くの階段を利用できるようだが、最上層まで何段あるのか考えると、タケは弱冠気が滅入りそうだった。エスカレーターとはなんと素晴らしい発明なのだろうか。走るスピードには自信があるタケだが、体力はあまりない。陸上の大会でも短距離にしかエントリーしたことがなく、マラソンや駅伝などの長距離は苦手だった。陸上部の監督も他のメンバーもそれをよく分かっていたし、短距離で結果を残してきたこともあってか、長距離の練習もほとんど免除されてきた。そんなタケにとって、この心臓破りの階段は地獄でしかなかったが、タケは無心になってあまり前を見ないようにして登ることにした。
「昨日も思ったんですが、タケさんて凄い体力ですね。人間はみんなそうなんですか?」
唐突にコリーナがそう言った。
「そんなことないよ。どうして?」
少し前を行くコリーナにタケは聞き返した。
「だって、もう着きましたよ。一番上です」
え?とタケは後ろを振り返った。眼下にはいつの間に登ったのか、数百段の階段と数えきれないほどの家々が見える。
「ごめんなさい。タケさんがいるのに、ついいつものように駆け上がっちゃって。疲れてないですか?」
息切れは、全く無かった。それどころか汗ばんですらいなかった。先を行くコリーナの背中をひたすら追いかけていたら、いつの間にかゴールしていた。
「あ、ああ。大丈夫……」
疲れを感じないのは、初めて見る景色ばかりでテンションが上がっているからだろうか。
「じゃあ後で休憩しましょう。近くに美味しいお茶のお店があるので」
お城の下、上から二層目のエリアには、とても洗練された街並みが広がっていた。
片側二車線ほどの道幅の広い街道には全面に石畳が敷かれ、立ち並ぶ家の一軒一軒が、大きさは様々だが、綺麗に刈り揃えられた芝生の広い庭とバルコニーを有している。街道の中央には等間隔に青々とした葉を繁らせた街路樹が植えられ、木製のベンチが背中合わせに木々の間を埋めるように並んでいる。街行く住民達の身なりも良く、シルクハットを被った紳士然とした動物や、フリルが着いたドレスを着たどこぞの御令嬢風の動物がそこかしこで優雅な時を過ごしている。
「ここは、何だかハイセンスだね」
「ええ。ここは第二層ですから、みなさんとても裕福な暮らしをしています。このエリアにあるお店はどこも値が張りますが、品質はどれも折り紙つきです」
「ルベルが開発した薬なんかも売ってるの?」
「いえ、お師匠様の薬はほとんど無償ですよ」
「どうして?」
「どうしてって、薬ですから。貧しい方にもちゃんと行き渡って欲しいですもの」
まだ短い付き合いではあるが、タケにはそう答えるコリーナの笑顔がどことなくぎこちないように見えた。つい先ほど第二層までの階段を登りきったとき、タケの眼下に広がっていた街並みには、はっきりとした違いが見てとれた。すぐ下の第三層に建つ家は、第二層ほど豪華ではないが、庭付きの一戸建てばかりが並び、いくつかある緑豊かな公園では、子供達が元気に遊んでいるのが見えた。ルベルの家がある第四層では、昨日コリーナに連れられて初めてこの国に足を踏み入れたときには気付かなかったが、平屋で庭のない家が目立った。もちろん第四層でも子供達は元気に遊んでいたが、第三層にある公園のような綺麗に整備された場所は無く、軒先であったり街中を駆け回って遊んでいた。そして、最下層である第五層。第二層からはその細部までは見えないが、茅葺き屋根の長屋のような建物が所狭しと並び、街道はボコボコで整備されていないように見えた。富める者と貧しい者。各エリアを隔てるのは百段にも満たない階段だが、どれだけ登っても埋められない格差がそこにはあった。先ほど感じた違和感の正体がはっきりした。
「ルベルもコリーナも優しいな」
「どうしたんです?急に」
「朝食のときにも言ったけどさ、やっぱり俺にも何か手伝わせてくれないか。家の掃除でも洗濯でも、何でもやるから」
「え、え~と……」
困るコリーナに「頼む」とタケは頭を下げた。
「そんな、顔をあげてください。分かりました。そこまでおっしゃるなら……」
タケは上体を下げたまま顔を上げる。
「午後になったら私の薬草摘みを手伝ってくれませんか?」
「もちろんだ。そんなことで良ければどんどんこき使ってくれ」
「ふふっ。頼りにしてます。でも今は散策を楽しんでください」
タケはそう言うコリーナに、ちゃんとした笑顔が戻った気がした。
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