4 コリーナとお師匠様
「お師匠様ー!ただいま戻りました!」
勢いよく開け放たれた木製の扉がギィギィと非難の声をあげる。室内は薄暗く、扉のすぐ隣に小窓がついているが、陰りだした日の光だけではよく見えない。それでも得体の知れないもので部屋が埋め尽くされているのは分かる。すぐ隣から異様な圧迫感がする。
「お師匠様ー!いないんですか?」
コリーナがさっきよりも大きな声を出すと薄暗い闇のなかで何かが動く気配がした。続いてガシャンとガラスが割れるような音が数回。
「そこでしたかお師匠様。もうとっくに日が傾き始めてますよ」
ジジジという小さな音ともにコリーナがランプに火を点した。それでやっと武久は部屋の様子を知ることができた。
「うわぁ……」
身長約百六十五センチの武久を悠に越すほどに、分厚い書物が倒れそうで倒れない微妙なバランスで積み上げられている。異様な圧迫感の正体はそれだった。
「まだ寝てる!」
その人はいくつもの不安定な書物の塔の隙間で危なげ無くスヤスヤと眠っていた。
コリーナは慣れた動きでその塔をかい潜り、塔に囲まれて眠るその人のもとに辿り着くと大きく右手を振り上げた。
バチン!
室内をこだまするほどの平手打ちがその人の頬に打ちつけられた。
「これでもか!これでもか!」
タケは往復ビンタという言葉は知っていたが、それが行われる様を見たのは初めてだったので一瞬見入ってしまっていた。
「ス、ストップ!ストップ!やりすぎだってコリーナ」
「大丈夫ですよ。いつものことですから」
そういうコリーナは肩で息をしている。
「ん、ん~」
「あ、やっと目を覚ましましたねお師匠様。もう日が沈みますよ」
「ああ、コリーナか。おはよう」
タケの心配をよそに、師匠と呼ばれたその人は何事もなかったかのように目を覚ました。コリーナの師匠も案の定、人間ではなかった。顔や体つきは人間に似ているが、全身は茶色い体毛で覆われ、鹿なのかトナカイなのか頭から二本の立派な角が生えている。
「もう、おはようじゃないですよ。またこんなとこで寝て。寝るときはちゃんと寝室でっていつも言ってるじゃないですか」
「いやはや、擦り傷や切り傷に効く新しい薬を開発しててね。気づいたらキミが目の前にいたよ。はっはっは」
タケは今のやり取りを見て、想像していた『お師匠様』と目の前の人は全く印象が違った。師匠と弟子というよりも優しいお爺ちゃんとやんちゃな孫といった感じだろうか。いくらなんでもはたき過ぎだと思うが。
「ところでコリーナ。そちらの方は?」
今思い出したかのようにコリーナは目を丸くした。
「紹介が遅れました。こちらタケさんです。『常緑樹の森』で私の不注意で怪我をさせてしまったので、手当てのためにこちらにお連れしました」
「ど、どうも武政といいます」
この世界での挨拶の仕方が分からないタケはとりあえず頭を少し下げた。一瞬の間。頭を下げるのは間違いだったか。
「ふむ。キミは人間だね」
タケはドキリとした。コリーナは人間だとバレない方が良いと言っていたが、あっさりバレてしまった。
「え、いや……」
「はい、そうです」
どう答えようか考えあぐねていたタケだったが、コリーナは全く隠そうともしなかった。
「お、驚かないんですか?」
タケはコリーナと同様の反応をされると思っていたので、驚かず訝しみもしないその様に逆に驚いた。
「何人か人間を知っているからね。一応この国の研究者でもあるから見聞は広いほうだよ」
「一応ではなくそれがお師匠様の本職です!」
「はっはっは。そうだったね。コリーナ、ここまで来るのに誰にも見咎められなかったかい?」
「はい。門兵もすんなり通してくれましたし、すれ違う人たちに顔を指されたり、騒ぎになることもありませんでした。変装のお陰ですね」
「そうか。それなら一先ずは大丈夫そうだね」
そう言う『お師匠様』の目は、タケにはどこか遠くを見ているようにも見えた。
「こちらの紹介がまだだったね。私はこの牙の国で薬剤師をしている。名はルベル=アシール。ルベルと呼んでくれて構わないよ」
タケは差し出された手を握り返した。その手は見た目よりもゴツゴツしており、たくましい印象を覚えた。ルベルが軽く眼を閉じる。
「ふむ。腕の裂傷や空腹以外には内臓も含めて体に異常は無いようだね。年齢は十六歳。コリーナより一つ歳上だね。筋肉質な体型だがしなやかでバネのある脚力。勉強は苦手かな?そしてこれは……。そうか、なるほどね」
ルベルは手を握っただけでタケが持つ特徴を一つも間違わず当ててしまった。
「どうして、分かるんですか?」
ルベルが薄目を明けて答える。
「握手した相手の力の入れ具合や手の感触や大きさ、体温から推測するだけだよ。まあ、一種の占いみたいなものかな」
「お師匠様の特技の一つです。外れたことなんて一度もないんですよ」
コリーナはまるで自分のことのように誇らしげだ。
「それほど自慢することじゃないさ。それよりコリーナ、そろそろ夕飯にしてくれないか。朝から何も食べてないからペコペコだ」
タケも空腹だったことを忘れていた。
「タケ君でいいかな?キミも一緒に食べよう。聞きたいことが沢山あるだろうし、私も人間の世界のことについて質問したいことが山ほどあるのでね」
コリーナはタケを置いて奥の部屋に入って行った。
「コリーナの料理を待つ間にキミの傷の手当てをしようか。さあこっちに座って腕を見せて」
タケは木製の丸椅子に腰掛けてルベルに傷を見せる。
「ふむ。もう血は止まっているね。だけどまだ薄い真皮で覆われてるだけだから激しく動かすとまた傷口が裂けてしまう。試しにこれを塗ってみよう。さっき開発したばかりの軟膏を」
「え?さっき?」
お、俺を実験台に……?
「そう。心配しなくても大丈夫さ。ほら」
そう言ってルベルは自分の左の掌をタケに見せた。そこにはうっすらと横に走る切り傷があった。
「この傷は今朝付けたものだけど、この薬を塗ったらこの通りさ」
「自分で切ったんですか?」
タケは少し鳥肌が立ったと同時にルベルの研究に対する熱意を垣間見た気がした。
「薬の研究、開発をする者にとって最初の実験台は自分自身なのさ。己を癒せない者に他人を癒せるはずがないからね」
そう言ってルベルは深緑色をしたクリーム状の軟膏をタケの傷口に薄く塗った。するとさっきまでチクチクしていた痛みがすっと消え、傷口の赤みも目立たなくなり、正常な肌の色を取り戻した。ルベルは机の引き出しを開けて包帯を取りだし患部に巻いた。
「これでよし。大袈裟かもしれないけど、傷の重い軽いよりも感染症の方が怖いからね」
「ありがとうございます。コリーナがあなたのことを誇らしげに語っていました。素晴らしい薬草師だと。その通りですね」
「いやいや、そうでもないさ。他に取り柄が無いものでね。自分にできることをやっているだけだよ」
ルベルは謙遜しているが、これほど即効性のある傷薬はタケの知る限りあっちの世界にはなかった。それをたった一晩で完成させてしまうのだから、ルベルの薬に関する知識は本物なのだろう。だが、だとしたらなぜルベルはこんなところに住んでいるのだろうか。今いるこの部屋はお世辞にも広いとは言えない。タケの部屋の六畳よりは広いぐらいか。奥に台所とコリーナの話からして寝室があるようだが、外から見た限りでは平屋のこの家にそういくつも部屋があるようには思えない。この国お抱えの天才薬草師が住む家が薄暗くて狭いことにタケは違和感を覚えた。いや、もしかしたら好んで質素な暮らしをしているのかもしれない。タケがそんなことを考えていると、奥に続くドアが開き、コリーナが出てきた。
「お二人とも、もうすぐ夕飯の準備ができますよ」
「ありがとうコリーナ。じゃあ行こうかタケ君。キユナの料理は美味しいからね。今日は何かな」
ルベルの後からドアを抜けると、そこはやはりこじんまりとしたキッチンだった。奥の壁に白いタイル張りの流しが備え付けられ、その隣に木製の料理机、そのまた隣にキャンプ場に設置されているようなオレンジ色の煉瓦で組まれた釜戸が置かれ、その中で木炭がパチパチと爆ぜている。鉄製と思われる網の上では、二つの鍋がグツグツと煮えている。キッチンの中央には木製の丸テーブルと背もたれ付きの椅子が三脚用意されている。それらすべてが質素な作りで、タケの世界の一昔も二昔も前の、今では歴史博物館でしか見られない風景にも見えるが、何故かタケの心はほっこりしていた。そして何より食欲をそそる香りが部屋いっぱいに充満しており、甘いような香ばしいような、それでいてどこかで嗅いだことのある刺激的な香りで、息絶える寸前のタケの腹の虫が見事に息を吹き返した。
「はっはっは。待ちきれないようだね。さあここに座って」
ルベルが椅子を引き、タケは腰掛けた。
タケは生まれてから『餓え』というものを感じたことなど一度も無かった。だが、食材も味付けも全く分からないその料理の香りを嗅いだだけで、自分がこんなにも『餓え』ていたことに気づかされた。そしてどれだけ恵まれた環境にいたのかも。
(母さん、心配してるだろうな)
タケには物心付いた頃から父親がいなかった。だが、寂しいと感じたことは一度も無かった。祖父や祖母もいるし、そして誰よりも優しく、底抜けに明るい母が寂しさを感じる暇を与えさせなかった。片方の眼だけが蒼いせいで、幼い頃はよく虐められたが辛くはなかった。それは母だけでなく、恒久の存在も大きかった。それに……。
「はい、お待たせしました!」
コリーナの声でタケの回想は途切れた。コリーナは運んできた鍋の蓋を開けた。どこか懐かしく芳しい香りとともに現れたのは二色のスープだった。半分は白濁としたとろみのあるスープで、もう半分は茶色のサラサラとしたスープ。それらは見た目と香りからしてクリームシチューとカレーそのものだった。それらが鍋の真ん中で仕切られている。普段なら香りを嗅げば一瞬で嗅ぎ分けられるほど馴染み深い料理だが、未知の世界で初めてありつく料理が、自分が住む国の食べ慣れた料理だと誰が予測できようか。そして案の定、もう一つの鍋の中身は、どこからどう見ても白米だった。タケは面食らったと同時に安心感を覚えた。
コリーナはご飯を木製の深皿の中央に山形に盛り、半分にシチューを、もう半分にカレーをよそった。あいがけのアイランド盛りである。
「はい、どうぞ」
コリーナからシチューとカレーのアイランド盛りを受け取ったタケは、まじまじとその見慣れた料理を見つめた。よだれが止まらない。味がある程度予想できるから尚更である。
「タケ君。空腹のところ悪いが、もう少し待って欲しい。食前のお祈りをしないとね。タケ君も良かったら形だけでもしてみるといいよ」
そう言って、ルベルとコリーナは手を繋ぎ眼を閉じた。二人は祈りの言葉を口に出すことは無かったが、一分程経ったころに同時に眼を開いた。
「待たせたね。さあ、いただこう」
ルベルが器用に木製のスプーンを持つとカレーを一掬いして口に運んだ。
「うん。いつも通り美味しいよコリーナ」
「良かったです。ささ、タケさんもどうぞ」
コリーナに勧められ、タケもカレーを一口食べる。始めに感じたのは甘みだった。丁寧に炒められた玉ねぎと何かは分からないが果物の甘味。それを追い越すように訪れたスパイスの刺激的な辛味と僅かな酸味。そしてそれらが渾然一体となって押し寄せる強烈な旨味により、極度の空腹も相まって、タケはスプーンの止め方を忘れたように何度もカレーを口に運んだ。ご飯が半分とカレーのルーが無くなると、タケはシチューに取りかかった。一口食べる。口いっぱいに広がったのは、いくつもの野菜から溶け出した優しい甘味と芳醇なミルクの香りだった。食感で分かったのはジャガイモとニンジンのような根菜に、キャベツやレタスのような葉野菜。カボチャやトウモロコシのような野菜も溶け込んでいるかもしれない。ミルクの風味にクセは感じられないばかりか、スパイシーなカレーにも負けない強いコクがあり、一分とかからずに器が空になってしまった。
「そんなに焦らなくても御代わりはありますから」
タケの勢いにコリーナは眼を丸くした。タケは遠慮無くコリーナから先程と同じ量の二杯めを受け取って、先程と同じスピードで平らげるともう一度御代わりをした。
一言も発さずに、ものの十分ほどで五杯平らげたタケは、そこでようやく一呼吸ついた。まだ食べられなくもないが、あまり食べすぎるのも失礼かもという理性が、ようやくそこで働いた。鍋の中はほとんど空っぽだったが。
「いやいや、見事な食べっぷりだったね。おいしかったろう?」
一杯しか食べていないルベルは満足げに爪楊枝をくわえている。
「はい。このカレーもシチューも凄く美味しいかったです。御馳走様でした。ありがとうコリーナ」
「いえいえ、お粗末様でした」
ルベルもキユナもタケがこの二つの料理名を知っていたことを気にも留めていない。タケは逆に聞いてみた。
「どうして俺たちの世界の料理を知っているんだい?」
「それはもちろん、夢を見たからですよ」
コリーナは当たり前のようにそう答えた。
「夢を見たって、カレーとシチューの夢を?」
「はい。厳密にはカレーとシチューが出てくる人間の夢を見たのです。と言っても、その二つの料理はこちらの世界にも昔からある、誰もが知っている料理なので、その夢を見たのは私ではなくもっともっと昔の誰かですけどね」
コリーナの説明をタケは一つとして理解できないでいた。その様子を見たルベルが口を開く。
「コリーナ、それではタケ君には分からないよ。順を追って説明しよう。この世界とタケ君の世界との繋がりからね。そうすればタケ君の質問の答えも自ずと分かるよ」
そう言ってルベルは語り出した。
日は沈み、夜空には月が輝いている。タケはこの世界での二度目の夜を迎えた。
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