3 角の国と住人達
その地はまるで全ての侵入者を拒むかのように、一寸先も見えない濃い霧で覆われていた。日の光は霧に遮られ、地は枯れ、湖は腐り底の知れない沼となった。命の欠片すら感じ得ないこの地に住まう者など一人としていない。
思いがけず迷いこんだ旅人、未だ見ぬ発見を求めた冒険者、故国を追われた罪人、その全てがこの地から戻ることはなかった。いつしかここは『不帰(かえらず)の沼』と呼ばれるようになった。
そんな地を己の庭のごとく恐れず歩く人影がひとつ。いや、歩くという表現は適切ではない。その人影は沼地に足跡ひとつ残さず、まるで浮いているようにスーッと滑らかに進んでいる。頭の上から足先まで黒いローブのようなもので覆っているため男女の区別はつかない。その様は亡霊そのものだった。
その人影の前方に一本の大木が姿を表した。その木は日の光を遮る濃い霧の中で、根は腐り葉もつけず、しかしかろうじて息をしていた。怪しい影はその木に近づくと、手に持ったカンテラを木にかざした。するとカンテラの放つ淡い光が徐々に強まり、目を開けていられないほどに辺りを照らしだしたかと思うと、一瞬でその光は消え、その光と共に人影も姿を消していた。あとに残ったのは今にも息絶えそうな大木だけ。辺りはすぐにいつもの薄暗い静寂を取り戻した。
砂漠を越え、恒久達一行が西洋風の甲冑を身につけた騎士達に連れてこられた場所は、やはり西洋に見られるような石造りのお城だった。目の前の高さ五メートルはあるかという門から、二十メートルはあると思われる高々と築かれた城壁が左右に伸び、その先は湾曲しているのかここからは見えない。その様はまるで中世のコロッセオを彷彿とさせた。それがお城だと思ったのは、城壁の高さを越える三つの尖塔が見えたからだ。リーダー格の騎士が流暢な日本語を話したので、西洋風の鎧を見に纏っていようともここは日本なのかもと思っていたが、目の前の荘厳な建造物を目の前に、その予想は一瞬にして吹き飛んだ。こんな景色はテーマパークを除いて日本のどこを探しても無いだろう。しかしそれと同時に、ここが夢の世界である可能性がさらに高まったことに、恒久は少なからず興奮していた。この世界に来てから状況は何も分からず好転もしていないのだが。
その城塞の門をくぐるにはまだ少し距離があった。城塞の周りを囲うように水路が敷かれ、そこをこれまた石造りの見るからに頑丈な橋が一本渡されている。その水路の役割は日本の城に見られる堀と同じものだろう。それは歴史学者でなくても容易に想像がつく。だが、敵に攻められにくい造りをしているということは、この城を攻める敵がいる、もしくは、いたということを意味している。恒久の不安をよそに、騎士達は石橋を渡りだす。
石橋の半分ほどのところまで来ると、ギギギギという音と共に目の前の木製の門がゆっくりと内側へと開きだした。どうやら門の両脇の物見櫓のような建物に配置された兵士が一行に気づいたようで、せっせと大きな歯車のようなものを回しているのがこちらからも窺えた。
(あれで門の開閉をしているのか)
恒久は何度も周りを見やり、少しでもこの国の情報を得ようと注意を怠らなかった。
ガコンという音で門が開ききったことが分かった。門を開けた両脇の兵士は手を止め、正面を向いて背筋を伸ばし、脇を絞めて右手の指先で自分の左肩を触るような姿勢を取っている。あれがこの国での敬礼の姿勢に当たるのかもしれない。よく見ると兵士が着けている甲冑はこちらの騎士の甲冑よりも簡素に見える。騎士達よりも門兵の方が位が低いのだろうか。
背後で門が閉まる音がした。門をくぐった先は一面に石畳が敷かれた広場だった。中央には円形の噴水があり、世界史の教科書に載ってあったイタリアのトレビの泉を思わせる精巧な石像が数体、様々なポーズを取っている。片足で立ち、バレリーナのように踊るものや、ハープのような弦楽器を奏でるもの。祈るように胸の前で両腕を交差させ片膝をついたものなど。しかしそのどれもが人間がモデルの石像ではなかった。全て二足歩行ではあるが、立派な牙を生やしたライオンのような生き物であったり、ゾウやトラ、クマなどに似た生き物をモデルとしていた。芸術としては動物の擬人化は珍しいものではないが、その石像のモデル達は現実の動物園で見るような動物達とは違っているように見える。
噴水の広場を抜けると、道は三本に分かれていた。中央の道は真っ直ぐ伸びているが、両端の二本の道は外壁に沿うように弧を描き、先は見えない。三本の道を道たらしめているのは整然と林立する家々だ。その家々は中央の道を挟んで向かい合うように建てられており、さらにそれらに背中合わせの形で、両端の道に面するように列をなしている。そして、それら全てがオレンジ色の瓦屋根に純白の外壁の全く同じ造りをしている。簡素ではあるが、それがこれだけ集まると壮観である。しかし、そのことよりも気になったのは周囲を包む静けさだ。家がこれだけ犇めいているのに、通りには人っ子一人いないのだ。そう言えばさっきの噴水の広場にも誰もいなかった。恒久は違和感を覚えたが、仲間と話そうにも谷崎は前の荷馬車に横たわっているし、倉本と卜部は後ろの騎馬に騎士と乗っており、距離があって会話はできそうにない。代わりに恒久は耳を澄ました。聞こえてくるのは騎馬の蹄の音と息づかい、それとガシャガシャという騎士達の鎧が擦れる音。それら以外には会話する声も料理を作る音も子どもの泣き声も聞こえてこない。
その時、恒久が乗る馬に似た生き物の手綱を握る騎士が右肩の鎧から生えている角をおもむろに外し、先端を口に当てて勢いよく息を吹き込んだ。角が奏でる太く力強い法螺貝に似た音色が、静まり返った城内に広く響き渡る。時間にして五秒ほどの角笛が三度続けて奏でられると、それを合図に家々の扉や窓が次々に開かれ、五メートルほどの幅の道は一瞬にして人々で埋め尽くされた。いや、と言うか、やはりと言うべきか、二足歩行ではあるが彼らは決して人間ではなかった。鋭いキバを生やした者、三角形の大きな耳を持つ者、ふわふわでモコモコの毛を生やした者、頑丈な鎧のような皮膚を持つ者、頭から二本の角を生やした者など、多種多様な見かけをした動物達。しかしそのどれもが見たことがあるようで無い生き物ばかりだった。
「姫様!ご無事で何よりでした」
喧騒の中、一際大きな声で群れる動物達を掻き分け、こちらに近づく者がいた。その動物は白いモコモコの毛で覆われ、頭からは二本のカタツムリの殻のような巻き角を生やしている。一見するとヒツジのようでもある。
「宰相どの、国王に早急に報告せねばならないことがあります。取り急ぎ連絡を。それとこの者を土室(つちむろ)へ。怪我をしています」
宰相と呼ばれたヒツジは、横たわる谷崎と恒久達三人を交互に見る。
「姫様。この者等はまさか」
「ええ、人間です」
「人間!」ヒツジの顔が一瞬にして青ざめる。
「後ろの三人は国王のもとへ連れていきます。国民達へは後ほど改めて報告を」
「こ、この者等に危険は無いので?」
「ええ、今のところは。では、後のことは任せました」
「仰せのままに」
宰相が深々と頭を下げると、姫様と呼ばれた騎士のリーダーは馬を進めた。しかし谷崎を乗せた荷馬車はその場で右に向きを変え、横道に消えてしまった。
道に溢れ返していた動物たち、もとい住民たちは、いつの間にか脇に寄って道を空けるように整列していた。皆一様に笑顔で、そこかしこから「姫様だ」「王女様のお帰りだ」「ああ、お顔を見せて」などと話す声が聞こえる。騎士達のリーダーはこの国のお姫様のようだ。声からして女性なのだろうと思っていたが、まさか一国のお姫様がリーダーを務めているとは。などと考えている恒久は、ふと周囲からの異様な視線を感じた。こちらを見る無数の目。睨むような、蔑むような、怯えるような、いくつもの視線。住民たちから先ほどまでの活気と笑顔が消え、静寂の中に不安と恐れが入り交じっているのが感じられる。それらは間違いなく恒久たちに注がれていた。何かよからぬ雰囲気を感じとったのか、どこからか赤ん坊が泣く声が聞こえる。自分たちを取り囲む状況に戸惑いを隠せなかったが、どこかも分からない目的地まで下を向いている他に、恒久たちにできることは何もなかった。
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