2 狼と武政
笑い声が聞こえる。あどけなさの残る、あの頃聞き慣れた、何故かこそばゆくなるような懐かしい笑い声。その声がだんだんと遠ざかってゆく。
(待って!)
必死に追いかける。もう少しで追いつける。あと少し。あと少し。そして勢いよく手を伸ばした。
どこからか滴る水滴が反響する音で稲井武政は目を覚ました。
(ここは……)
辺りを見渡すとゴツゴツした岩壁に囲まれている。
(そうかあの変なヤツから逃げてこの洞窟に)
そこは森の中にある自然にできた洞窟だった。といってもとても小さなもので、一番高いところで高さ二メートル、奥行きは三メートルほど。大人が三人も入ればぎゅうぎゅうだろう。だが身を隠すにはうってつけだ。入り口からは日の光が差し込んでいる。外はもう朝のようだ。いや、昼かもしれない。時計も携帯電話も持って来てないものだから時間の感覚が掴めない。
(それにしても、ここは一体……)
それは武政が昨日から常に考えてはいるが、一向に答えが分からない問題だった。あの変なヤツから逃げることはできたものの、どこだか分からない場所では行く当てもない。無我夢中で走り続けて昨日やっと隠れられそうなこの場所を見つけたのだった。幸い洞窟の側を流れる小川から飲み水は確保できたが、空腹だけはどうにもならなかった。寝間着はボロボロ。怪我は大したことのない擦り傷が数ヵ所。疲労はというと、どういう訳かそれほどでもなかった。ここに連れてこられてから一晩。それまではろくに休息も取らず、無我夢中にただただ走り続けた。だというのに起き上がれないほどでもなく、筋肉痛も無い。いつもの部活後の心地よい疲労感と同程度かそれ以下だ。いつの間にそんな体力がついたのだろうかと武政は不思議に思った。それにこの世界が暑くもなく寒くもない、ちょうど日本の五月半ば頃の気温なのは幸運だった。暑いのはまだ何とかなるかもしれないが、ライターやマッチが無いと火が点けられない現代人の武政には、凍えるような寒さの中では一日と保たずに凍死していただろう。夜中は少し底冷えしたが。
(まずは水分補給だ。もしかしたらあの小川にいるかもしれないな。魚とかサワガニとか)
暖かな陽光を全身に浴びながら、武政は凝り固まった体をほぐした。昨日見つけた小川に着くと、すぐさま川面に顔を近づけて水を一口飲んだ。
「くー!美味い!昨日も思ったけど、やっぱりここの水は今まで飲んだどの水より美味いな」
水で腹が満たされる訳ではないが、武政は川の水が干上がるのも気にしないほどの勢いで、喉を鳴らしながら飲み続けた。
いくらか腹の虫を誤魔化せると、武政は少し川を登り、生き物がいないか探してみることにした。二分ほど俯瞰で川面を見てみると、キラッと一瞬だが光るものを見つけた。ゆっくり近づいて目を凝らす。そこには二匹の小魚が川の流れに逆らって寄り添い泳いでいた。
「魚の掴み捕りなんて小二の時の林間学校以来だな」
そう言って彼は寝間着の両袖両裾を捲り上げ、息を殺し、そ~っとそ~っと、五秒に一歩のペースで近づき、バッと両手を突き出した。
「ダメ!!」
突然の声とともにお尻に強い衝撃を受けた武政は、川の向こう岸まで吹っ飛ばされ、うつ伏せの大の字で地面に音を立てて不時着した。
「いててててっ」
武政は起き上がり、自分が元居た方を振り返った。
「誰だよ今の!」
しかしそこには誰もいなかった。
「ごめんなさい!」
声がしたのは背後からだった。振り向くとそこには、人間のようで人間ではない動物が二本足で立っていた。
「ごめんなさい!お怪我はないですか?」
顔は一見すると人間のようだが、よく見ると頭からは猫のような三角耳が生えており、口からは長く鋭いキバが覗いている。
「き、君は?」
簡素な作りだが着物のような服を着て、帯を締めている。おまけにリュックのような鞄まで背負っており、その下で長い尻尾がユラユラと揺れている。
「ごめんなさい!驚かせてしまって。でもあの子たちはまだこっちに来たばかりで」
そう言って目の前の奇妙な動物は川の方を指差した。
「それってあの魚のこと?」
「そうです。それにあの子達、そろそろ産卵の時季だから」
川の方を見るとさっきの魚が同じ場所でじっとしていた。一匹がもう一匹を守っているようにも見える。
「そうだったのか。ごめんよ。痛っ」
右腕にビリっと刺激が走った。肘の辺りの皮膚がぱっくりと裂けて血がだらだらと流れている。河原の石で切ったようだ。
「ご、ごめんなさい!ち、ちちち血が!ど、どうしよう。大丈夫ですか?」
喋る動物が駆け寄り、武政の右腕に触れた。ふさふさとした体毛とぷにぷにとした肉球がこそばゆい。
「ちょ、ちょっとここで待っててください」
そう言うとその動物は川に走り、すぐに戻ってきた。竹でできた筒に川の水を汲んできたようだ。
「少し染みますよ」
「いっっ」
「まだじっとしててくださいね」
人のような動物はリュックを下ろし、中から数枚の青々とした何かの葉っぱを取り出した。それを細かく千切り、両手でよく揉むと、出てきた緑色の汁を傷口に塗りたくる。そしてまたリュックから今度は包帯のような布を取り出し、傷口に巻いていく。その流れるような所作は腕に覚えのある慣れたもののように思えた。武政は少しずつ痛みが和らいでくるのを感じた。
「これで応急手当ては完了です。でも傷口が広がらないようあまり動かさないでくださいね」
「ありがとう。君すごいね。でも君はいったい……」
目の前の顔がパッと明るくなり、ふわふわとした三角形の両耳がピクピクと動く。
「よくぞ聞いてくださいましたっ!私は牙の国デニス第三部隊所属の薬草師見習い『コリーナ』と申します。ここにはお師匠様の使いで足りなくなった薬草を摘みにきたのです」
急に饒舌になったその人間のような動物はコリーナと名乗り、武政には聞きなれない単語を羅列した。
「え、えっと。コリーナちゃんでいいの?君は女の子、だよね?」
何故かコリーナは少し不思議そうな顔をしている。
「あ、生物学上での雌を意味する言葉ですね。はい、もちろん雌ですよ。それとコリーナとお呼びください。それで、あなたは?」
「俺は稲井武政。じゃあ俺のことはタケって呼んでくれ」
「分かりました。タケさん」
「いや、さん付けはしなくていいよ」
「いえいえ、呼び捨てなどできません。あなたは先程あの魚達に謝ってくださいました。普通ならば全く気にも留めません。さらには突き飛ばした私のことも全く咎めようともしません。それだけであなたは優しくて尊敬に値する御方なのです」
言葉の熱量がすごい。尻尾が右に左に激しく揺れている。コリーナは心からそう思っているようだ。
「分かった。じゃあそれでいいよ。その代わり、もう怪我のことで謝らないでいいから」
「はい、ごめんなさい。あっ」
謝るのがコリーナの癖のようだ。
「ですが、怪我のちゃんとした手当てはさせてください。私の住む国へお連れします。お師匠様の研究室に行けば何でも揃っているので」
「お師匠様?」
「はい。私はまだ見習いなので、このくらいのことしかできませんが、お師匠様はとても素晴らしい御方です。王国の第三部隊隊長も務めておられて、王様からの信頼も厚い、王国きっての薬草師なのです!博識で寛容。それでいてユーモアも持ち合わせた完璧な御方なのです!」
タケにはそれがどれ程すごいことなのかは皆目検討もつかないが、コリーナがその師匠を心底慕っていることがひしひしと伝わってきた。
ぐるるるるるるっ。
初め、その音がどこから発せられているのかタケ自身も分からなかったが、それは紛れもなく我慢の限界を迎えた彼の腹の虫の必死の訴えだった。
「あらっ」
「はははっ」タケの顔が赤らむ。
「お腹が空いているのですね。初めからそのつもりでしたが、お食事もご用意しますよ。それでは行きましょうか。ちゃんとついてきてくださいね」
どこに連れていかれるのかは分からないが、少なくともコリーナからは悪意は感じられない。それにこの世界の情報を得ないとどうすることもできない。タケはコリーナについていくことにした。
「さっき王国って言ってたけど、いったいここはどこなの?」
前を歩くコリーナが肩越しに振り向く。
「ここは牙の王であるダガ様が治めるキバの国デニスの領内です。この森からは一里ほどの距離です。それまで食事は我慢してくださいね。傷がまた痛みだしたら教えてください」
少しずきずきするが、見た目ほどの痛みではなかった。
「ところでタケさん、あなたはどこから来られたのですか?見たところタケさんに羽は生えていませんし、角も鱗もありませんよね?」
コリーナはまた聞き慣れないことを聞いてきた。
「どこって、もちろん日本だけど。人間の国の。って何か変な表現だな」
突然びゅっと風を切る音がした。それはコリーナが後方に後ずさった音だった。
「に、ににににに人間!タ、タケさんは人間なのですか?」
タケはコリーナの声に驚きと少しの恐れが含まれているのを感じた。
「そうだよ。コリーナはどう見ても人間じゃないよね?今でもまだ信じられないけど。キグルミを着ているようにも見えないし」
「も、もちろんです!キグルミなんかじゃありませんし人間でもありません!私はれっきとしたサイラシンで、ノアの住人です!」
コリーナの語気が明らかに強くなっている。
「サイ……ラ……?」
「フクロオオカミと言えば分かりますか?それよりも、どうして人間のタケさんがこの世界にいるのですか?」
「それは、話すと長くなるんだけど……」
タケはコリーナに事の経緯を話しだした。
その日、タケはいつものように母と祖父母とで夕食を食べた後にテレビを見て、風呂に入り、いつものように十時には自室に戻った。明日の学校の準備を済ませ、机に向かう。タケは引き出しからくたびれた一冊のノートを取り出し、文字を書き連ねる。
しばらくしてからタケはペンを止め、卓上時計を見た。針は零時を指そうとしている。ノートに栞代わりに挟んである一枚の写真を暫く眺めてから、ノートを戻した。いつものルーティンが済み、ベッドに入ろうとしたとき、突然タケの背中を悪寒が走った。咄嗟に背後を振り返る。開け放たれた窓の外。そこには一言では形容し難い、見たことのない奇妙なモノがタケを見てニタッと笑っていた。
「な、何だよお前!?」
タケは驚きのあまりベッドに飛び乗る形で後退した。ここは二階。外には登れるような木も塀も無い。ソイツはどう見ても浮いていた。そしてソイツは、まるで友達の家かのようにズケズケと窓を乗り越えてタケの部屋に入ってきた。鼻をスンスンと鳴らして。
「臭う。臭うぞ!ゴルジ、こいつじゃねぇか?」
下半身に薄汚れたボロ切れを巻いただけのソイツは、でっぷりと膨らんだ自分の腹部に向かって甲高く耳障りな声で話しかけている。身長は二メートルを越えている。天井に頭が突きそうだ。ソイツの腹部から骨にまで響くような重低音が聞こえた。ソイツは下半身に巻いたボロ切れのなかに手を突っ込み、モゾモゾしだした。
「あった。これだこれだ。場所はこの辺りで間違いねぇな。おい、お前。男だよな?歳は」
タケは突然の出来事に全く反応できないでいた。
「おい!聞こえねぇのか!」
甲高い怒声にタケは我に返った。
「十六……だけど」
「よしよし。じゃあお前で決定」
そう言うとソイツは片手でタケの襟首を掴み、軽々と持ち上げた。
「な、何すんだよ!」
タケはその手を振りほどこうとしたが、ソイツは全く意に介さない。
「くそっ放せよ!母さん!」
タケは必死に叫んだが、隣の母親の寝室からは何の反応も返ってこない。
「いくら叫んでもムダムダ」
ソイツはニタニタ笑いながらタケをひょいと肩に担ぐと、窓から出て夜空に向かって大きくジャンプした。
「う、うわぁぁ!!」
「ジタバタすんじゃねぇ!落っことすぞ!」
飛んでいる。眼下を過ぎるいくつもの屋根。公園。道路。自分の家がどんどん遠くなる。
「俺をどこへ連れていくつもりなんだ?」
恐怖の連続で感覚が麻痺したのか、タケは少し落ち着きを取り戻した。
「お前に会いたいという御方のもとに連れてくんだよ」
「誰だよそれ」
「さあな」
「お前はいったいなんなんだよ」
「俺はドルジってんだ。んでこいつは弟のゴルジだ」
ソイツは自分の腹部を指してそう言った。
「そ、それが、弟?いててててっ」
急に脇腹の締め付けが強くなった。
「お前がコイツのことをそれ呼ばわりしたから怒ってんだ。そのへんにしとけゴルジ。殺しちまったら元も子もないだろ」
ドルジがそう言うと締め付けが緩んだ。
「俺たち兄弟は一心同体、いや二心同体なのさ。お、着いたぜ」
眼下を見慣れた校舎が過ぎる。高度が少しずつ下がっていく。兄弟が降りたのは森の中だった。
「ここは……大楠の森?」
兄弟はタケを担いだまま夜の森を進む。と、すぐにタケの目の前に大楠が現れた。
「なんだ……あの穴は」
大楠に大の大人が悠に潜れるほどの大きな穴が穿たれている。
「俺たちが通ってきたゲートだ。あそこから帰る」
タケには全く理解できなかった。
「帰るってどこに?あんな穴に入ってもすぐに幹の内側にぶつかるだけじゃないか」
「あのゲートを抜けると俺たちの世界がある」
「は?何言ってるか分かんねぇけど、俺はどこも行かねぇぞ!くそ!放せよ!」
タケはめいっぱいの、今まで出したことのないほどの力で腕をほどこうとしたが、丸太のような腕は万力のようにびくともしなかった。
「ジタバタすんじゃねぇ。もう時間がねぇんだ。早く通らねぇとゲートが閉じちまう」
そう言って兄弟は少し身を屈めてまるで軒の低い小料理屋に入るかのように、大楠の穴をくぐった。
「今回はここに出たか」
穴をくぐる瞬間に目を閉じ、なぜか息も止めていたタケは空気が変わったのを肌で感じた。水が作り出す聞いたことのある音がする。我慢の限界を迎え、タケは勢いよく空気を吸い込んだ。
(これは……潮の香り?)
恐る恐る目を開けると、目の前にあるのは紛れもなく海だった。暖かな日差しの下、穏やかなさざ波が砂浜を湿らせる。
「こ、ここは……」
「海だ」
「それは見れば分かるさ!どこの海なんだよ」
「ノアだ」
「……のあ?結局どこだよ!」
「だからノアだっつってんじゃねぇか。いいから少し黙ってろ」
「嫌だ!どこだか知んねぇけど、放せよ!戻せよ!」
無駄なことだと知りつつもタケは全力でもがいた。兄弟は気にせずにブツブツ何か独り言を言いながら海岸線を歩き出す。
「遠いな。二日はかかるか。面倒だな。仕方ねぇ。呼ぶか」
兄弟はボロボロの腰布に手を突っ込み右の尻をまさぐると、十センチ程の小枝を取り出した。それを口に添え、息を吹く。ピィーーーという高音が辺りに響き渡る。
「少し待つか」
そう言うとドルジは担いでいたタケをその場に雑に降ろした。
「ここに座ってろ。逃げんじゃねぇぞ。まあ逃げ場なんか無いがな」
ドルジは甲高い声で笑う。タケは辺りを見回した。左右にはどこまでも続く砂浜。後ろには隠れる場所の無い草原。目の前には対岸が見えない大海原。ドルジの言う通り逃げ場はなかった。
(いったいどこなんだここは)
タケは仕方なく、兄弟から五メートルほど離れて砂浜に腰を降ろした。
一分。二分。何も起こらない。タケはもう一度周囲を見渡した。そこはやはり見慣れない場所だった。そもそもタケの住む町から海に出るには、少なくとも車で二時間はかかる。そのためタケは海に馴染みはなかったが、それでもここがその海でないことは確かだ。何せその海には砂浜が無く、整備された堤防には沢山の漁船が停泊しているからだ。後ろに広がる草原だって見たことがない。訳が分からないとタケは空を仰ぎ見た。太陽だけは、変わらず輝いている。
そのまま十分ほど経った頃、突如として前方十メートルほど先の海面が、まるで山が突き上げてきたかのように大きく盛り上がり出した。かと思うと、巨大な海洋生物が激しい水しぶきとともに姿を現した。
「で、でっけ~な~!」
タケは驚きで仰け反りながら率直すぎる感想を述べていた。
「おう、早ぇじゃねぇか!一時間は待つかと思ったぜ」
生で見るのは初めてだが、その巨大海洋生物はどう見てもクジラだった。何クジラかは分からない。尾びれは見えないが全長は二十メートルはあるかもしれない。頭頂部にある鼻からプシューッと潮を噴いている。
「ここまで連れてけ」
ドルジは薄汚れた紙をクジラの目に近づけた。行き先をそれで理解できたのかタケには分からなかったが、承知したかのようにクジラはもう一度潮を噴いた。
「よし、乗れ」
「乗れったってどこに?」
「あそこだ。コイツの背中だ」
兄弟が指差した先をよく見ると、なんとクジラの背中に公園で目にするようなベンチが備え付けられており、そこから縄梯子が下がっている。
タケは既に逃げるのを諦め、縄梯子を登り、ベンチの端に座った。兄弟がその隣にドシンと座ると、まるで船出の汽笛よろしくクジラの鼻から潮が噴き出し、方向転換の後、大海原に向かってゆっくりと泳ぎだした。
クジラの背中での船旅は、タケが思っていたほど悪いものではなかった。初めはクジラがいつ潜るのか、潜ったら浮上するまで息が続かないんじゃないかと不安だったが、今のところ潜る様子はなく泳ぎもゆったりとしていて揺れも気にするほどでもなかった。隣の兄弟はと言うと、クジラが出発してからしばらくすると豪快なイビキとともに眠りこけてしまった。逃げるには絶好のチャンスなんだろうが、周りは海に囲まれ、陸も見当たらない。金づちのタケには絶望的だ。
(くそ、陸地じゃ誰にも負けないのに)
体感で二時間ほど経ったころ、いや三時間かもしれないが、前方の空が黒々としていることにタケは気づいた。鋭い閃光が雲を切るのも見えた。続いて不安を掻き立てる重低音が空気を震わせる。
「コイツはマズイな。おい!あの嵐を避けて進め!」
いつの間にか目を覚ましていた兄弟はクジラに向かって声を張り上げた。しかし、思っていた以上に嵐が向かってくるスピードは速かった。頭に雨しずくが一滴落ちたかと思うと、間髪入れずに滝のような雨が降りだし、波は荒れ、風は吹き荒び、一行はあっという間に嵐に巻き込まれていた。クジラの巨体でさえ大波に煽られ、ベンチも右に左に大きく傾く。タケは必死にベンチにしがみついた。
「まだまだ先だってのに。おい!動物の勘はどうした!クソの役にも立たねぇな!」
揺れはどんどん大きくなる。ドルジもクジラに悪態をつくのが精一杯だった。クジラも幾度も押し寄せる高波に必死に抗っているのが伝わってくる。そんな一行にまるで壁のような特大の津波が押し寄せてきた。するとクジラは背中に乗せている乗客のことなど忘れ一目散に、潜った。海面よりは幾分穏やかな海底を目指して。嵐で光の届かない海中は闇そのものだった。タケはまだベンチにしがみついていたが、兄弟の姿は全く見えない。このままでは水圧に押し潰される。クジラが次に浮上するまで呼吸も続かない。かといって泳げないのに自力での浮上ができるのか。タケは必死に頭を巡らせた。一分にも十分にも感じられたが、実際には十秒と満たないだろう。タケは意を決してベンチから手を離し、がむしゃらに手と足をバタつかして海面を目指した。しかしこう暗くては自分が浮上しているのかも定かではない。
(くそ!海面はまだかよ!もう息が……)
水が鉛のように重くなり、足の動きが止まる。
(こんな知らない場所で……死ぬのか)
限界を迎えた。最後の息が小さな泡となって昇っていき、タケはゆっくりと沈んでいく。海面が遠くなる。身体中の感覚が消えてゆく。
『大丈夫だよ』
意識が薄れゆくなか、タケは誰かの声を聞いた気がした。凛とした透き通る声。だけどどこか暖かいような響き。しかしそれは走馬灯が駆け巡る際の幻聴なのかもしれなかった。そしてタケはゆっくりと瞼を閉じた。
「それで気がついたら、どこかの砂浜だったんだ」
タケはコリーナにこの世界に連れてこられた一部始終を語り終えた。その間コリーナはタケの少し後ろを黙ってついてきた。ずっとまっすぐ進んでいたが、道は間違ってはいないのだろうか。
「タケさんは本当に人間なのですね」
その声色からは幾分か恐れが薄れたように聞こえた。
「うん。コリーナが住んでるのはキバの国って言ったよね?じゃあノアっていうのは?」
「ノアは私たちが生きるこの世界の名前です。このノアは大きく四つの国に別れていて、私の住むキバの国の他にツノの国、ツバサの国、ウロコの国があります。私がタケさんがどこの国から来たのか疑問に思ったのは、基本的にそれぞれの身体的特徴を持った者がそれぞれの国に住んでいるからです。キバの国には立派な牙を持つ者たちが、ツバサの国には空を舞う翼を持つ者たちが」
「じゃあウロコの国に住んでるのは人魚ってこと?」
「というよりは海に生きる者たち全般です。鱗を持たず、鰭や水掻きを持つ者もいます。タケさんが海で乗ったクジラも鱗はありませんが、ウロコの国に住んでいるはずです。私は行ったことはないので聞いた話ですが。それよりも先ほどはごめんなさい。私、人間を見るのは初めてなもので」
「いいんだ。俺も最初コリーナを見たときはビックリしたしね。アイツほどじゃなかったけど」
そう言えばあの歪な兄弟はどうなったんだろうとタケは何故か必要の無い心配をした。
「タケさんを無理矢理連れてきたあの兄弟のことですか?」
「うん。アイツはいったいなんなんだ?コリーナの話だとこの世界の、ノアのどの国にも当てはまらない見た目だったけど。爪も目立たなかったし泳ぎも得意じゃなさそうだった。あ、でも翼は無かったけど飛んでたからツバサの国ってこと?そういえば牙も生えてたっけ?」
「いえ、あの兄弟は……」
コリーナの声は何故か不安げに聞こえた。
「どうしたの?」
「あ、いえ、ごめんなさい。何でもありません。それよりもほら!見えてきましたよ。あれがキバの国デニスの主都『アクトゥス』です」
木漏れ日が差す森を抜けると、タケを追い越してコリーナが前方を指差した。青々とした広大な草原の先に巨大な建造物が見えた。
「うぉ~!すっげーな~」
その建造物は一言で言うと『山』だった。大きさはどれ程だろうか。目測なので定かではないが、富士山より一回り小さいほどかもしれない。山と言っても緑はほとんど見受けられない。見た目はまさしく『牙城』だった。その山のゴツゴツとした茶色い岩肌にいくつもの丸い穴が縦横に等間隔で掘られており、その中央下部に一際大きな ー 大型バスが悠に通れるほどの ー 穴が開いている。そこから百段以上はありそうな石の階段が地上まで延びている。どうやらあの真ん中の穴が入り口になっているようだ。
「どうですかタケさん。驚きましたか?私たちキバの民はあの山をくり貫いた中で暮らしているのです。中に入ればもっとビックリしますよ。さあ、行きましょう!と、その前に……」
コリーナはリュックを下ろして中をゴソゴソしだした。
「タケさんにはキバの国にいる間、これを着けてもらいます」
コリーナが取り出したのは二本の角が生えた帽子だった。
「どうして?」
「それは、騒ぎを起こさないためです。私がタケさんが人間だと知ったときにとても驚いたように、キバの民のほとんどが人間を見たことがないので。それに私たちキバの民は好奇心が強いので、質問攻めにあってゆっくり滞在できないと思いますよ」
それは大変だと、タケは素直に従うことにした。
「じゃあノアには人間は一人も住んでいないの?」
「そうですね。人間がノアに来ることは普通はできません。ごくごく稀にこちらに迷いこむことがあるようですが、少なくとも私は今まで見たことはありませんでした」
人間は俺一人か……。
「それとタケさんはツノの国からの旅行者ということにしておきましょう」
「キバの民に変装するのはダメなのかい?」
「それではすぐに同族ではないとバレてしまいます。ツノの国からの旅行者はあまりいないので、その方が変装を見破られる心配はないでしょう。それにもしその角が偽物とバレても、短い角を笑われたくなかったと言えば人間であることを隠し通せるかもしれません」
コリーナの念の入れように少し戸惑ったが、その不安を掻き消すほどにタケの腹の虫が抗議の唸り声を揚げた。
「ふふふっ。さあ、急ぎましょうか」
タケはコリーナから受け取った帽子を被り、少しの不安と溢れそうなワクワクを胸に、キバの国への道を歩いていった。
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