第2章 1 砂漠と旅の始まり

 足の裏の感覚が変わった。先ほどまでは硬い石の上を歩いているようだったが、今では柔らかい砂のような感触だ。それに、前方の光も少し弱まったようだ。いや、僕の眼が慣れてきているのかもしれない。それでもまだ眩しいことには変わらない。左腕で光を遮り、右手で前を探りながら歩いていく。さらに十分ほど歩いただろうか。唐突に右手が何かに触れた。硬いが、石のようには冷たくはない。もう一度その何かに右手を伸ばす。壁だ。いや、壁ならこの光は一体どこから。その壁のようなものを探ると、別のものに触れた。胸のあたりの高さに上下に伸びるように取り付けられた棒状のもの。日頃よく触るもの。それは紛れもなくドアノブだった。これは壁ではなく扉だ。この光は少し開かれた扉から漏れだしているものだった。ならこの扉は、どこに繋がっているのか。僕は少しの恐れと高揚感を胸にその扉を開け放ち、眼を見開いた。

 

 視界が青い。その青色は海のそれに似ているが、波の音は聞こえないし潮の香りもしない。もっと清々しく、晴れ晴れとした青色。それはどう見ても快晴の青空だった。さっきのは確かに『あの夢』だった。でも今回は、今まで何度も何度も開いた扉の先がいつもの白い天井ではなく、青空。もう一度目を閉じる。そしてゆっくりと開く。やはりそこにあるのは気持ちがいい程の青空だった。ということは、僕はあの扉の先に来ることができたということなのか。照りつける太陽が眩しい。夢の中のあの光は、この太陽の光だったのだろうか。

 「みんな!」

 唐突に思い出す。先ほどの大楠の森での出来事が悪い夢でなければ、恒久と一緒にあの三人もここに来ているはずだ。勢い良く起き上がり、周りを探す。三人は一メートルと離れず横たわっていた。側に駆け寄る。三人ともまだ目覚めていないようだ。

 「ああ、良かっ……」

 谷崎の口元から右肩の辺りが赤黒く染まっていた。吐血だ。あの異形の生物の突進をモロに食らったからに違いない。

 「谷崎っ!谷崎!」

 近づいて名前を叫ぶが反応は無い。口元に手をかざす。良かった。か細いが息はしている。ヒューヒューという音が口から漏れている。肋骨が折れて肺に穴が空いているのかもしれない。

 「二人とも起きて!谷崎が……」

 卜部と倉本の肩を勢い良く揺さぶる。

 「ん……。ん~」

 倉本が目を覚ました。次いで卜部も目を擦りながら上体を起こす。

 「あ~良く寝た。あれ?木ノ下君。どうして……」

 倉本はまだ寝ぼけているようだが、二人とも無事のようだ。

 「そっかあたし達、大楠様のところで変な怪物に出会って。それから……。ここ、どこ?」

 「分からない。それより谷崎が大変なんだ!二人とも早く!」

 二人は谷崎の元に駆け寄った。同時に顔が青ざめる。

 「息はしてる。でも、たぶん肋骨が折れて、肺に……」

 「そ、そんな。谷崎君!起きて!起きてよ谷崎君!」

 倉本が必死に呼びかける。すると、まるで倉本の声に反応したかのように谷崎の瞼がピクピクと動き、目が薄く開かれた。

 「く、くら……も、と、さん」

 谷崎の意識が戻った。

 「谷崎君!良かった。あ、だめ。そのまま寝てて。肋骨が折れてるかもしれないの」

 倉本に優しい声をかけられて今にも昇天しそうな谷崎ではあるが、一命はとりとめたようだ。一刻も早く谷崎を病院に連れていかなければ。

 「ここ、どこなんだろう」

 倉本がキョロキョロと周りを見渡す。辺り一面に広がる砂。そよぐ乾いた風。照りつける太陽。ここは誰がどう見ても……。

 「砂漠、だよね?すっごく暑いし。私たちどうしてこんなところに」

 卜部が空を見上げる。しかし、そこには落ちてきたはずの大楠の穴はどこにも見当たらなかった。

 「とにかく、谷崎君をどこか安全な所に運ばないと。近くに街とかは無いのかしら」

 そう言って卜部は小高く盛り上がった、高さ三メートルほどの砂山を登り始めた。

 「僕は反対方向を探すよ」

 谷崎を倉本に任して、恒久は卜部と辺りを探すことにした。しかし目を凝らして探してみても、街らしき建物も日陰になるような場所も見つからない。遠くで何かが光っているように見えるが、それは砂漠特有の蜃気楼だろう。ここは本当にあの夢の扉の先なのだろうか。どうしてあの大楠の穴がここに繋がっていたのか。僕が見た夢のはずが何故みんなもここにいるのか。分からないことだらけだ。

 「木ノ下君。何か見つかった?」

 卜部の方も成果はなかったようだ。

 「ううん。見える範囲には何も」

 「そう。こっちもダメね。この暑さだからせめて日陰でもって思ったけどそれも無さそうだし。幸いみんな飲み物は持ってるから少しは体力も保つだろうけど」

 部活で外周をするときは、必ず五百ミリリットルのスポーツドリンクを一人一本持って走ることになっている。手で持つと邪魔なので各々二の腕や太もも、腰などに専用のベルトで固定して走る。僕もまだ一口しか飲んでいない。

 「ってめぐみ!そんなにグビグビ飲んじゃだめじゃない」

 見ると倉本が美味しそうに喉を鳴らしながらスポーツドリンクを飲んでいた。

 「だって暑くて喉乾いちゃって」

 倉本のペットボトルの中身は、もう半分も残っていない。

 「少しずつ飲まないと。すぐに水分が確保できるか分からないのよ」

 「そっか、ごめんなさい」

 その時だった。ズドンという衝撃とともに倉本の後方で大量の砂煙が舞い上がった。急いで倉本と谷崎の元に戻ると、砂煙の奥で何かが動いているのが見えた。

 「な~にべらぼーに勢い良く飛び込んでんだバカヤローが!イテェじゃねぇか!」

 耳をつさんずくような不快な高音。この声は、さっき聞いたばかりの……。

 「うそ……」

 卜部が後退りする。風は止み、気温が下がる。またしても場が凍りついた。どうする。谷崎はあの怪我だ。動かせない。ましてや僕らを庇って大怪我をした谷崎を置いて逃げるなんて出来るわけがない。それにどこに逃げる。逃げ場が無いのはさっき確認したばかりじゃないか。様々なことが一瞬で恒久の頭をよぎる。絶体絶命とはこの事か。

 「よしよし。お前達ちゃんと大人しく待ってたようだな。おっと、一人はもう虫の息か。おいゴルジ。ちゃんと手加減しねぇか」

 腹部から重低音が響く。

 「まあいい。生きてりゃどうとでもなる。ゴルジ、今度は優しくだぞ」

 「ま、待て……」

 消え入りそうな掠れた声で制したのは、重症の谷崎だった。

 「ダメ!谷崎君。動いちゃ」

 倉本の言葉は聞こえているはず。それでも谷崎は肘をつき、手をつき、膝をつき、少しずつゆっくりと立ち上がった。ただ一人ボロボロの谷崎が、ただ一人あの怪物に立ち向かおうとしている。

 「おいおい。放っておいても死にそうなのに頑張るじゃねぇか。手をかけさせんじゃねぇ。そのままおとなしく寝てな」

 怪物が金切り声で嘲る。

 「だ、だまれ……。みんなは、俺が、死んでも……守る!」

 谷崎は庇うように倉本の前に立ち、両腕を広げた。息も絶え絶え。たが、谷崎の声からは強い意志が感じられた。

 「目障りだな。ゴルジ、寝かしつけてやれ」

 ゴルジと呼ばれた怪物の胴体が、アンバランスな頭部を乗せてゆっくりとこちらに近づいてくる。

 「谷崎!もういいよ!」

 やめてくれ。しかし、またしても恒久は金縛りにあったかのように動けないでいた。怪物が谷崎の目の前まで来た。丸太のように太い右腕を、谷崎の頭上に高々と振り上げる。

 「やめてぇ!」倉本が叫ぶ。

 谷崎が倉本の方を向いた。

 「倉本さん。俺は……」

 「え?」

 怪物の右腕が勢い良く谷崎に振り下ろされた。

 バチンッ!!

 見ていられなかった。くそっ、谷崎っ。

 「ぎぇぇぇぇ!!」

 しかし聞こえてきたのは、甲高い悲鳴だった。ドサッという音が続く。恐る恐る目を開く。すると殴り潰されたはずの谷崎が、片膝をつき顔の前で両腕をクロスに構えた姿勢で、そこにいた。すぐ後ろにいた倉本も無事のようだ。顔を両手で覆ったまま座り込んでいる。急いで谷崎の元へと近寄る。

 「谷崎。大丈夫なのか?」

 「ハァ、ハァ。あ、ああ。何とか……」

 肩で息をしながら谷崎が応じる。

 「た、谷崎君!?ああ、良かった」

 倉本の眼が潤んでいる。

 「な、何が起こったの?てっきり私は谷崎君が……。あ、みんな見て」

 卜部が指差す方を見る。谷崎の前方十メートルほどのところに、あの怪物が仰向けに倒れている。

 「谷崎君が、やったの?」

 「わ、分からない。俺は、ただ……」

 誰ひとり今の状況が飲み込めないでいた。ただひとつ分かることは、今が逃げるチャンスだということだ。

 「とりあえず、どこでもいいからこの場から離れよう。少しでも遠くに」

 恒久は谷崎の右腕を肩に回し、怪物とは反対方向に少しずつ進むことにした。谷崎の腕は砂が付いているのか、ざらざらしている。

 「ヴ、ヴ~」

 「イテテテ」

 肩越しに振り向くと怪物が上体を起こしているところだった。もう目が覚めたのか!まだ五メートルと離れていないのに……。

 「クソッ。イッテェな。大丈夫かゴルジ」

 「ヴ~」

 「オメェ!その力、どうやって……。それは女神の……」

 金切り声の中に怯えが混じっている。先程までの威勢は全く感じられなかった。

 「その力は、あの片目が青いガキと同じじゃねぇか」

 片目が青い……。

 「そ、それって三日前のこと?」

 恒久は唐突に聞き返していた。まさか……。

 「ああ?なんでお前にそんなこと教えなきゃならねぇんだ」

 タケもここに来ているのか?

 「その人も今ここにいるのか?」

 「ああ、生きてりゃな。もっとも、今は逃げられてどこにいるか全く分からねぇが。ちっ、大手柄だったのによ」

 怪物は以外にもあっさりと答えた。あれだけ探して見つからないんだ。タケもここにいるのかもしれない。ここがどこだか皆目見当もつかないが、あの怪物から逃げられたんだ。タケはきっと無事だろう。

 「おっと、俺たちは引き上げさせてもらうぜ。奴らに見つかると厄介だからな」

 怪物が向いている方を見ると、遠くで大きな砂煙が舞っている。その砂煙はドドドドドという地鳴りと共に、こっちに近づいてきているようだ。怪物の方を振り返る。もうそこにあの巨体の姿は無かった。

 「木ノ下君、あの人達に助けてもらお」

 卜部が砂煙の方を指差す。卜部はあの砂煙が、誰かが馬かラクダに乗って向かって来ていると確信したようだ。安心したのか、倉本はその場に座り込んでしまった。谷崎もいつの間にか気を失っている。

 「そうだね。どこに行けばいいか分からないし、あの人達に近くの街まで連れていってもらおう」

 谷崎をその場に寝かし、向かってくる砂煙が助けだと信じて、一行はその場で束の間の休息を取ることにした。少なくともあの人達に聞けば、ここがどこだか分かるはずだ。

 一分も経たない内に砂煙の主の輪郭がぼんやりと見えてきた。地鳴りもどんどん大きくなる。一頭や二頭ではないようだ。

 「おーい!」

 卜部が立ち上がり、両腕を大きく振りながら大声で叫んだ。あちらからもこっちが見えているのだろう。真っ直ぐ向かってくる。

 徐々に輪郭がはっきりしてくるにつれて、恒久は少し違和感を覚えた。目を凝らしてよく見てみる。近づいてくる生き物は、どこをどう見ても恒久の知る馬でもラクダでもなかった。そしてその見たことのない生き物に乗る者達は皆、頭から爪先まで中世が舞台の映画でよく見るような西洋風の甲冑を身に纏っている。その数は二十騎ほど。気づけばその甲冑の集団に四人は逃げる間も無く囲まれてしまった。まさしく一難去ってまた一難。いや、既に三難目か。

 両陣にらみ合いのまま三十秒ほど経った頃、目の前の甲冑の壁が左右に割れ、その間を両肩に一本ずつ頭からは二本の角を生やしたデザインの、一際厳めしい甲冑を身に纏った騎士が、これまた角を生やした兜を被った生き物に乗ってこちらに近づいてきた。

 「そなたらは何者だ?」

 しかし猛々しい鎧兜から響いたのは、以外にも高く凛とした声色だった。目の前のリーダーとおぼしきは、女性なのかもしれない。言葉が分かる。だが周りの騎士達が乗るあの生き物は何だ?テレビでも図鑑でも見たことがない。

 「口が聞けないわけでもないでしょう。黙ったままではそなたらの立場が悪くなるだけですよ」

 気迫と威厳に満ちた語気に臆されるが、何か喋らなくては。

 「え、えっと、ぼ、僕たちは怪物に木に空いた穴に落とされて、気づいたら砂漠で、また怪物に襲われて、それから……」

 要領の得ない返答。これでは余計に相手の怒りを買うだけだ。

 「その怪物とやらは、腹に顔が付いている奇妙なヤツのことですか?そいつらはどこに行ったのです?我らはそいつらを追ってきたのです」

 「それが、いつの間にか消えてしまったんです。でも、友達がそいつに大怪我を負わされて。お願い!私達を近くの街の病院まで連れていって!」

 卜部が必死にそう訴えると、リーダーが隣の騎士の方を向き、顎で合図を出した。一人の騎士が馬のような馬ではない生き物から降り、気を失っている谷崎の方へ歩み寄り、膝をついた。谷崎の状態を診ているようだ。騎士がリーダーの元に戻り、耳打ちをする。

 「まことか?」

 騎士の声は聞こえなかったが、リーダーの声は少し驚いているように聞こえた。

 「良いでしょう。そなたらを我らの街へ連れていきましょう。ですが街に着き次第、負傷者以外は尋問させてもらいます。道中、決して騒ぎ立てることないように」

 リーダーがそう言うと、数人の騎士が谷崎を荷馬車へ運び、恒久達は一人ずつその生き物の手綱を握る騎士の後ろに乗せられた。行き先も分からず、状況も全く掴めないまま、恒久は不安と驚きに満ちた旅が始まった気がした。

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