第1章 1 いつもの朝

 天井。見飽きたシーリングライト。カーテンから漏れる朝日。

 (ああ、またか)

 木ノ下恒久(きのしたつねひさ)は枕元にある目覚まし時計に手を伸ばす。時刻は六時。アラームが鳴るにはまだ三十分あるが、二度寝する気にはならない。あの夢をいったい何度見たのだろう。同じ夢を繰り返し見ることは稀にあるようだが、こうも何度も見るものだろうか。毎晩見る訳ではないが、見るときはいつも全く同じ内容だった。眩しい光に砂の感触。扉を開き眼を開こうとすると夢から覚める。怖い夢ではないので見たくないという訳ではないのだが。

 大きなあくびをしながらベッドから抜け出した恒久は、軽く伸びをしてから部屋のドアを開けた。そこで気づく。そう言えば、あの夢の中の扉のノブは木製で棒状のものだ。この部屋の扉のノブは不恰好なL字型で下に捻るタイプのものだからあの夢の扉ではないということになる。まあ、だからどうしたという感じなのだが。

 部屋を出て階段を降り、一階にあるリビングに入る。中には誰もいなかった。四人掛けのダイニングテーブルの上に、一枚の紙が置いてあるのに恒久は気づいた。

 『出張に行ってくる。一週間ほどで帰る。その間の生活費は封筒に。父』

 業務用の淡白な筆跡。必要最低限の文面。恒久はその紙を一瞥すると右手でくしゃっと雑に丸め、ゴミ箱へと投げ入れた。

 恒久の父が出張で家を空けるのは珍しいことではない。仕事は外資系だとは聞いているが、詳しくは知らない。封筒を確かめる。なかには一万円札が一枚。長く家を空けることを悪く思っているのか、いつものことながら高校二年生の男子一人に一週間で一万円は多いと思う。冷蔵庫の中にもそれなりに食材はあったし、冷凍食品も昨日買い込んだばかりだ。

 (半分は貯金にまわそう)

 リビングのカーテンを開け、窓も少し開ける。冷蔵庫から牛乳とヨーグルトを出し、簡単な朝食を摂る。味気ない侘しい朝食。朝食だけではない。普段から帰りが遅い父とはここしばらく一緒に食事をしていない。会話らしい会話もしていない。母がいた頃は、いや、妹がいた頃はこうではなかった。

 ひとつ年下の妹はよく笑う子で、兄である恒久から見てもとてもかわいい、愛嬌のある妹だった。両親もそんな妹を溺愛していた。その頃は母が作る手料理を四人で囲んでいた。父が冗談を言い、僕が合いの手を入れ、それを見て妹がケタケタと笑い、母はそんな様子をいつも微笑ましく見ていた。周りの家族の様子はよく知らないが、とても仲の良い家族だったと思う。

 だが、そんな幸せな時間は長くは続かなかった。

 妹が八歳になるころ、妹はよく熱を出すようになった。頭痛や吐き気、節々の痛みから、当初はインフルエンザが疑われた。しかし、小児科での幾度目かの受診の結果、白血病と診断された。医師にそう宣言され、両親は深い悲しみに苛まれたが、当時すでに白血病は難病指定された病気ではなく、適した治療を行えば八割以上の確率で完解するとされ、希望を抱きつつ、すぐに化学療法が始まった。しかしその四年後、妹はあっさりと息を引き取った。妹の名前は希未子(きみこ)と言った。

 両親は再び絶望した。治ると、元気になってまた一緒に暮らせると思い続けていた二人の希望はあっさり砕け散った。

 その後両親の間には、いや、木ノ下家の中心にはどす黒い影が差すようになった。家の中からは笑顔が、笑い声が聞こえなくなり、代わりに両親のお互いを責め合う怒号と罵声が毎日のようにその空間を支配した。そして、そんな状況に耐え兼ねた母は、家を出た。恒久を置いて。それ以来、母とは一度も会っていない。

 妹が死に、母が家を出てから父は全てのことを忘れるためか、仕事に没頭するようになった。希未子が死んでから今年で四年になる。来週が命日だ。

 (その頃には帰ってくるだろう)


 朝食の片付けをしていると、玄関のチャイムが鳴った。続いていつもの声が聞こえてくる。

 「ツ~ネちゃ~ん。起きてるか~。置いてくぞ~」

 玄関のドアを開けるとタケがいつものように誰よりも眠そうな顔で立っていた。

 「おはよ。すぐ着替えてくるから中入ってちょっと待っててよ」

 「オッケー。ジュースもらうぜ~」

 そそくさと靴を脱ぎ、タケはリビングに向かった。冷蔵庫をあさる音が聞こえる。

 稲井武政(いないたけまさ)は恒久の小一からの幼馴染みで、小一から現在に至るまで全て同じクラスの、親友というより腐れ縁という表現の方がしっくりくる仲だ。希未子がいた頃は三人でよく公園や近くの森で遊んでいた。小学一年の二学期に転校してきたタケは、活発で誰にでも愛想が良かった。蒼く澄んだ片眼を持つタケは、その眼が原因で幼い頃はよく周りの子ども達にからかわれ、ケンカも日常茶飯事だった。しかし持ち前の明るさですぐに立ち直るタケに周りの子ども達は次第にからかうのを止めた。元々スポーツ万能で体力自慢だったタケは、自分が住む地区だけでなく、隣町の小さなスポーツイベントにもピンチヒッターで呼ばれるほど、誰もが知る人気者になっていった。そんなタケに希未子もすぐになつき、タケもよく希未子の遊び相手になっていた。

 着替えを済ませた恒久がリビングに戻ると、そこにタケの姿は無かった。甘い白檀の香りがする。タケは奥の座敷にいた。希未子の仏壇の前で正座をして目を閉じ、手を合わしている。

 「準備できたよ」

 「ああ、今行く」

 タケは蝋燭の灯りを消して座敷から出てきた。

 「ツネちゃんコンビニ寄ってく?」

 「うん、昼飯買ってかないと。言っとくけど奢らないよ」

 「え~ケチだな~ツネちゃん」


 「おーい、木ノ下と稲井。授業始めるぞ。早く席につけ」

 恒久とタケは一限目の始業ベルぎりぎりで教室に滑り込んだ。余裕を持って家を出たはすなのだが、急にタケが腹痛を訴え、一向にコンビニのトイレから出てこなかったからだ。今日の一限目は英語だ。

 (ああ、予習するつもりが)

 席について一息ついた恒久は教室を見渡し、異変に気づいた。

 「ミサ、欠席者増えてない?」

 右隣の席の小林実紗(こばやしみさ)にヒソヒソと声をかけた。気分によって毎日のようにコロコロ髪型を変える実紗は、今日は背中までの後ろ髪を頭上でまとめてお団子にしている。昨日はポニーテールだったはずだ。

 「うん、先週までの三人に加えて二人休んでる。井田君と竹中君」

 実紗もヒソヒソと話す。

 「なんで?」

 「先生は風邪って言ってた」

 「夏風邪でも流行ってるの?」

 「かもね。てか先生に睨まれてるよ」

 実紗はニヤついている。

 (おっと)

 恒久は教科書を盾に顔を隠す。ちらっとタケの方を見る。彼はすでに船を漕いでいた。


 雨が振りだした放課後、恒久とタケは自分達が入部している陸上部の練習のため体育館に向かった。晴れの日はグラウンドや校外でのトレーニングなのだが、雨の日は体育館の隅っこでストレッチと筋トレが主な練習メニューになる。大部分はバスケ部とバレー部が占領しているから肩身が狭い。

 恒久は特に走るのが得意でも格別好きという訳でもない。高校入学時にどの部に入るか特に考えてなかった恒久をタケが誘ったのだ。タケは昔から足が速かった。小学生のときの鬼ごっこで鬼になるとすぐにみんなを捕まえてしまい、逆に恒久や他の子が鬼になるといつまでもタケを捕まえられず、みんな痺れを切らして強制終了になるので自然と恒久達のプレイリストから鬼ごっこは消えていった。中学に上がってからタケは頭角を表し、インターハイでも名を知られる短距離ランナーになっていた。高校二年生になった今では国体記録も持っている。恒久はというと、のびのびランナー兼マネージャーのようなものだ。

 体育館の隅っこでストレッチをしていると陸上部の部長が話しかけてきた。

 「木ノ下、稲井、お前ら岩辺知らないか?」

 岩辺も陸上部で同学年、隣のクラスの男子生徒である。

 「いや、見てねぇっすけど。おーい相澤、岩辺見てないか?」とタケが聞いたのはバスケ部の相澤昇平。岩辺と同じクラスの生徒だ。

 「あー、岩辺なら今日学校来てねぇよ」

 「なんで?」

 「さあ。風邪じゃね?」

 「だったら連絡しろよなーアイツ」

 先輩が毒づく。

 「仕方ない。お前ら二人頼まれてくれるか?」


 先輩に頼まれて恒久とタケは職員室へと向かった。陸上部の顧問の先生から今日の練習メニューを受けとるためだ。

 「二人で来る必要あったか?」

 タケは口を尖らせる。

 「彼女と二人きりになりたいからだよ。たぶん」

 「あー。にしても別のとこでイチャつけばいいのにな」

 全くもってタケに同感である。

 職員室に着くと扉の前で女の子がプリントの束を持って佇んでいた。胸元に一年生が付ける赤色の校章が見える。ちなみに二年生は青色。三年生は緑色だ。

 「入らないの?」と恒久。

 彼女は戸惑った表情で、

 「何だか会議中みたいで」と言うと、その子はドアにかけられたプレートを指さした。そこには『会議中につき生徒の立ち入り禁止』と書かれていた。

 「何の会議?」とタケが聞いたがその子は首を横に振る。

 「分かりません」

 「直ぐに終わるかな?」

 「どうだろう?」

 「よし!」

 そう言うとタケは職員室のドアを少しだけずらし、中を覗きだした。

 「おい、怒られるって」

 とは言ってみたものの恒久も覗きたくなった。

 「見える?」

 「いや、でも話声は微かに聞こえる」

 タケは声を落として耳を澄ます。恒久もタケを真似る。聞こえてきたのは、

 「じゃあ二年生だけということですか」

 「ええ、それも女子は一人も。全て男子生徒です」

 「偶然でしょうか」

 「偶然以外なにがあるんです?」

 「いやしかし、偶然にしてはどうも」

 「七クラスともですか?」

 「いえ、私の二組と吉川先生の五組はその症状で休んでる生徒はいません」

 「ではその症状で休んでいる生徒は何名に?」

 「一組が二名、三組が五名、四組が二名、六組と七組が三名ずつで、全員で十五名になります」

 「教頭先生。近隣の他校の生徒はどうなんですか?」

 「先ほど数校に連絡を取りました。風邪やケガで学校を休んでいる生徒は各学校に数人いましたが、同じような症状の生徒はいないようでした。どうもうちだけのようです」

 「そんな」

 「インフルエンザであればこれらの偶然も少しは納得できますが」

 「何にせよ原因がはっきりするまではこのことは生徒には伝えない方がいいでしょう。」

 先生たちの声からは明らかな不安と動揺を感じ取れた。原因不明の症状で十五人の生徒が学校を休んでいる。しかもこの学校の二年の男子限定。ただの偶然にしては妙だ。

 「ビッグニュースだぞツネちゃん!」

 タケが満面の笑みで目を子どものように輝かせていた。

 「どこがだよ」

 タケにはこういう面がある。噂好きのイベント好き。

 「周りに言うなよ。先生たちの言う通り、まだ何も確かなことはわからないんだから」

 「つまんないなぁツネちゃんは」

 これは噂が一気に広まること間違いなしだなと、恒久はため息をついた。

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