執政官 4

 各地の盗賊行為は沈静化する兆しもなく、ヴィジリオの懇親会でも避けられない話題となっていたが、参加者は事実上ファランティア人に限られていたためそれほど深刻にはならなかった。狙われているのは帝国旗を掲げた帝国の輸送隊であって、地元商人たちの荷物ではない。動揺せず粛々と、以前と同じ日常を続けていくことが結果として平和をもたらし、盗賊行為を抑止するはずだというのが彼ら全員の主張だった。そのためには……と、それぞれの立場からの意見が続く。誰かの利益は誰かの不利益になりうるが、ファランティア人の名士たちは声を荒げることもなく静かに舌戦を繰り広げた。


 ヴィジリオは耳を傾けながら、この楽観的で平和な会合を愛している自分に気付いた。いちいち不服な様子のダンカンや、帝国本土にいる貴族の代弁者でしかない官僚との会議よりよほど有意義に思える。何より、彼らはヴィジリオの知らない地元の事情や習慣に詳しい。


 この中から何人かを登用すべきかもしれない。いや、いっそのことファランティア人による評議会を作ってはどうだろう。貴女はどう思われますか――と、ヴィジリオは心の中で、年かさの男たちの中に佇む一輪の花に問いかけた。


 リーリエは長椅子の端に座り、時々は相槌を打ちながら控えめに微笑んでいる。蜜飴細工のように艶やかな巻上げ髪、伏し目がちな青い瞳にかかる金色のまつ毛、少女的な丸みのある頬のライン、瑞々しい唇、若さでほんのりと輝く白い肌は首筋から胸元の柔らかなふくらみへと続き……ハッとしてヴィジリオは目をそらした。胸が高鳴っている。


「皆様、そろそろお時間でございます」


 アマンダがいつものように閉会を告げると、男たちは一人ずつ腰を折ってヴィジリオに暇を告げ、謁見の間から退出していった。列に並ぼうとしたリーリエをマルティンが呼び止め、何事かささやいて足止めしたために、彼女が最後尾になる。ハイドフェルト家の令嬢をすっかり隠してしまうマルティンの体躯が離れると、彼女が一人、そこに立っていた。腰から胸の下まで締め上げるコルセットは近年流行している装身具らしい。白いドレスはコルセットの下からふんわりと広がり、裾を蝶のような形のリボンが飾っている。素敵な装いだが、政治的な性格の強いこの集まりには少々場違いな感もある。


「本日はお招きいただきまして、まこと身に余る光栄にございました」


 懇親会に招いても二人で話す機会なんてあるはずなかった、とヴィジリオは後悔した。


「退屈ではありませんでしたか」


「いえ、そのような……わたくしなどには難しいお話でしたけれど、皆さまがファランティアの未来を案じてくださっていることは理解できました」


「そうですか。そう感じてくださったなら十分に……」


 いやちょっと待て。これでは会話が終わってしまう。何か言わねば。何か気の利いたことを――気まずい沈黙が流れ、ヴィジリオは焦った。そもそも何を期待して彼女をこの会へ招待したのか。政治的な助言? 有益な情報? そうではないだろう。


 リーリエがスカートに手をやって、腰を落とす。「それでは、わたくしもそろそろ……」


「あっ、あのっ!」


 とっさの大声に、「はいっ」とリーリエも驚いて下げかけた頭を跳ね上げる。不意を突かれて目を丸くした表情にも愛嬌があって、その瞬間に、ヴィジリオははっきりと自覚した。


「いやっ、そのっ、すみません。不躾ですが、ドラゴンストーンにはいつまで滞在される予定ですか」


「いつまでもマルティン様のご厚意に甘えるわけにもまいりませんので、次のプレストン行きの馬車に同乗させていただこうと考えております」


 週に一度の定期便があるとマルティンが言っていたのをヴィジリオは覚えていた。であれば数日の猶予しかない。いや、もう今この瞬間しかない。ええい、ままよ、このままいってしまえ!


「あの、よろしければ、ですが、明日にでも城の庭園を案内させてもらえないでしょうか。この大塔とつながった館の屋上に庭園があるのです」


 そんなことはハイドフェルト家の令嬢であれば知っているだろうし、なんなら立ち入ったこともあるかもしれない。それに、彼女の年齢ならこの誘いが単なる暇つぶしや気まぐれでないこともわかるはずだ。その証拠にリーリエは頬を赤く染めて、うつむいてしまった。二度目の対面でいきなり過ぎたかもしれないが、もう後には引けない。真剣さが伝わるように声音を低く意識する。


「もちろんその、戯れで言っているわけではありません」


 神の手のひらで運命が弄ばれたのは一瞬で、リーリエは耳の先まで赤くして小さくうなずいた。「……はい。ぜひ……」


 ヴィジリオの恋心はドラゴンに乗った竜騎士のごとく天へと舞い上がった。



 その日は午後にもヴィジリオにとって待ち望んだ対面が控えていたが、彼の心はふわふわと空を漂い、二人の衛兵に挟まれて暗い地下牢へと下っていってもそれは変わらなかった。ゆらめく松明の炎が地下牢の闇を濃くし、その奥からは湿った藁の臭いに混じって小動物の死臭さえしたが、前を歩く衛兵の背中にぶつかりそうになるまでヴィジリオの心は着地しなかった。


 衛兵が木製警棒で鉄格子をカンカンと軽く叩き、「おい、起きろ。帝国属領中部テストリア執政官ヴィジリオ・ディケイオス閣下が直々にお話しくださる」と呼びかける。その威圧的な態度をヴィジリオは恥ずかしく思った。衛兵を押しのけ、「気を悪くしないでくれ。わたしは話がしたいだけだ」と付け加える。


 松明の光が闇の中にある人間の半身を浮き彫りにしていた。何週間も前に出した命令がやっと実行され、ついに盗賊の一人が――会話できる状態で――捕縛されたのだ。石壁に背を預け、片膝に腕を乗せた姿勢でうなだれているのは栗色の髪に白い肌のファランティア人男性で、ヴィジリオと大差ない年頃に見えた。意外にも標準的な身体つきで――家も食べる物もなく追い詰められて略奪行為におよんだに違いなく、やせ細っているものとヴィジリオは思い込んでいた――着ているものも意外と普通だ。


 帝国語には全く反応しなかったが、ファランティア語にはぴくりと反応して前髪の隙間から片目を向ける。「誰だ?」


 なんという目をしているのだろう。空虚だが、感情を失っているのではない。絶望という深い穴が他の感情を飲み込んでしまっている、そんな目だ。


「わたしはヴィジリオ……いや、この地を治める帝国の執政官といったほうがわかりやすいか――」


 目の前にいるのが執政官と知った瞬間、男はカッと目を見開いた。絶望の深い淵から怒りが怪物のように這い出してきて、残虐な牙をむき、今にも飛び掛からんとしているかのように。


 ヴィジリオは息を飲み、身の危険さえ感じたが、目を離せばその隙に喉を食いちぎられるのではないかという気がして動けなかった。しかし男と自分の間には鉄格子があり、二人の屈強な衛兵もいる。こんな時に助けてくれるアマンダはいないが――荒れ放題になっていた屋上庭園を明日までに整備するよう命じたところ、自ら作業を監督すると申し出た――大丈夫だ。自信をもて。わたしは正しい。皇帝陛下の代弁者であり、人々の支持も得ている。


「落ち着いてくれ、危害は加えない」


 唸る獣を落ち着かせようとするように、ヴィジリオは手のひらを見せてそろそろと鉄格子に近づいた。


「わたしはヴィジリオ・ディケイオスという。南部沿岸都市の一つ、ティトスの出身で、まだ未婚だが」脳裏にちらりとリーリエの姿がよぎり、それだけで勇気づけられる。「故郷には母がいる。さあ、次は君の番だ。名前を教えてほしい。出身は? 家族はいるのか?」


 男は口の端を持ち上げて歯をむいたが、威嚇というよりも冷笑めいてみえた。答えを待ってみたものの、沈黙が続く。衛兵が「答えろ、きさま……」と威圧的な態度で前へ出ようとしたので、ヴィジリオは手で制した。


「いいんだ。その、配慮が足りなかった。君の名前から素性を調べたり、家族や故郷に害を及ぼすつもりは全くない。ただ、お互いのことを知っていたほうが話しやすいかと思っただけだ。無理に答えなくていい。本題に入ろう。ここへ来たのは君らの、いや君の、主張を聞きたかったからだ」


「主張?」と鼻で笑われたが、おかげでむしろ雰囲気が和んだようにヴィジリオは感じた。


「訴えたいことがあるだろう? 戦争で家や財産を失い、困窮して追い詰められてしまったのではないか?」


 前髪の隙間からのぞく男の瞳が凍り付いた。当たりだったらしい。


「困っていることがあるなら、教えてほしい。改善できるよう努力する」


「改善?」


 男は肩を震わせた。笑っているのだろうか。つられて笑みを浮かべかけたヴィジリオに男は言った。


「バカなのか? 本気で言っているのか?」


 言葉は通じなくとも嘲りのにおいを嗅ぎ取ったか、衛兵が木製警棒を振り上げる。「きさま、閣下を侮辱したな……!」


 ヴィジリオは再び手で制し、少々怒気を込めて「やめろ」と命じた。やっと話してくれそうなのに、台無しにする気か。男へ向き直る。「わたしは本気だ」


「ハッ、ならバカでも分かるようにはっきり言ってやるよ。いいか、よく聞け、今日までの全ての悲劇の元凶はな、お前ら帝国が攻めてきたからなんだよ。お前らが来なければ、今頃おれはミランダと生まれたばかりの赤ん坊と、おれの家で、春の作付とか、子供を育てるのに金が要るなぁとか、そういうことを悩んでいられたんだよ。牢の中で、たった一人じゃなく! 何を善人面して語ってやがる。いいか……!」


 一言ごとに感情が膨れ上がり、狂気に蝕まれていくようだった。片膝立ちになって、怒りと憎しみにギラついた瞳をまっすぐに向けて、わなわなと震える指先をヴィジリオに突き付ける。


「きさまのようなヤツをこそ邪悪というのだ! おれから家も、彼女も、彼女の中にいた赤ん坊も、全て奪っておきながら自分は善人で正しいことをやっていて、おれが悪党で間違っているんだと言いやがる。改善だと? できるものならしてみせろ! おれの人生の全てを元通りにして消え失せろ! 主張? 笑わせんな。バカじゃなきゃなんだっていうんだ? このキチ――」


 今度こそ、衛兵は振り上げた木製警棒を鉄格子に叩き付けた。がぁぁんと大きな音が狭い通路に響いて鼓膜を痛めつける。ヴィジリオは「ひぃっ」と小さく悲鳴を上げて尻もちを付いたが、音に驚いたのではなかった。男の目から放たれる激しい殺意と憎悪に魂を貫かれ、串刺しにされていた。男は鉄格子を掴み、今にも喉笛にかみつきそうな勢いで泡を飛ばして叫ぶ。


「もしお前が目の前で腹を裂かれてのたうち回りながら助けを乞うても、おれはこれっぽっちも同情なんてしない。想像するだけでスカッとする! お前がそんな最後を迎えるよう毎日神に祈ってやるよ。叶えてくれるなら悪魔だって構わない。目の前で母親の生皮を剥ぎ取ってきさまに被せてやろう! 細切れになるまで何度も何度も刺して、生きながら焼いてやろう! 苦痛に狂って泣き叫ぶお前を見れば、ほんの少しくらいは慰めになるかもしれねぇなぁ! はははっ、ははは……!」


 衛兵はついに牢へ突入し、狂ったように笑う男の横面を木製警棒で殴った。血のりを引いて歯が飛び、男は床に打ち倒れる。続けざまに腹を蹴られて身体を丸めた男に、衛兵は慣れた手つきで木製警棒を叩き付け、悲鳴が上がった。二度、三度、四度……松明の炎に揺らめく影が戦場のように踊る。目の前で一方的な暴力を見せつけられながら、ヴィジリオは何もできず、ただ恐れおののくばかりだった。

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