執政官 5

 屋上庭園はかつて王の居城と呼ばれた四角い石造りの建物の二階にある。中央に屋根がない中庭構造で、生垣で区切られた中に季節の花々が植えられており、小さいながらも庭園と呼んで差し支えない風情があった。戦後は放置されていたが、アマンダの手配によって見事に整えられている。大塔から扉を抜けてその景観を目にしたリーリエは「わぁ」と控えめに感嘆し、庭園を囲う回廊を歩き始めた。


 回廊の影の中から眺めると、降り注ぐ陽光に満たされた庭園は触れ得ざる別世界のようでもある。しっとりした暖かい空気に包まれてつぼみを開いた花たちを、リーリエは一つ一つ、足を止めて見ていく。


「花はお好きですか」


 彼女は振り返り、笑みをたたえてうなずいた。


「ええ、もちろん……と、申しますのも、プレストンの興りは花売りと伝えられておりまして、花は西部貴族のたしなみとされております。あれはクロッカスですね。とても好きな花です」


「近くでご覧になりますか」


「わたくしなどが足を踏み入れてもよろしいのでしょうか……」


「構わないでしょう」


 二人は影の下から光の中へ降り立った。低い生垣が作る道を通り抜け、紫色の花が咲き誇る一角で足を止める。リーリエは膝を抱えるようにしゃがみこんで、顔を近づけた。


「この溌剌とした形も好きなのですけど、淡い色合いの変化がとても美しくて惹き込まれます。甘い香りで誘わないところも、何だか凛として」


 故郷にも似たような花はあったかもしれないが名前までは出てこず、ヴィジリオはただ、彼女の小さな肩ごしに紫色の花を呆然と見つめた。ふいにリーリエが振り向きもせずに問いかける。「何か、恐ろしい出来事でもございましたか?」


 昨日の地下牢でのことが思い出されて、ヴィジリオは目元を引きつらせた。あれはまさしく恐ろしい出来事といえよう。自分の存在そのものを否定され、人々に受け入れられたという安心感は幻に過ぎず、死を望まれるほど憎まれているのかもしれない――いや少なくとも一人は確実にそうだという事実を突きつけられたのだから。あれは口だけではない。もしその機会があれば、彼は本当にやるだろう。


「そんな、ことは……」


「突然の出来事にただ圧倒されて、心を閉ざすしかない……そういう経験はわたくしにもあります」


 リーリエは指先で、そっとクロッカスの花弁に触れた。


「ハイドフェルト家の紋章旗に覆われた父と兄の遺体を見たとき……」


 そのか細い声にヴィジリオはハッとした。彼女もまた帝国に家族を奪われた者の一人ではないか。もしや、仇を討つために近付いてきたのか?


「ただ、ただ、悲しかった。心の中が悲しみでいっぱいになって、他のことは考えられなくなって、このまま悲しみに押し潰されて世界が終わってしまうのではないかと……いえ、そうなればいいと思っていました。そして、今でもそう思っています。あの時、世界が終わっていたらと……」


 袖の中、スカートの裏、コルセットの内側……どこかに隠し持っていたナイフが今はその手に握られていて、立ち上がりざまに突きかかって来られたら、この距離では。


「これからどうすればいいのか、わたくしたちの身に何が起こるのか、何もわからずただ手を動かして父の遺品を整理していた時に、見つけてしまったんです。秘密の手紙を。内容は断片的で事情を知っている者同士の連絡という感じでしたが、何をしようとしているのかは、わたくしでもわかりました。相手の方はウェルトナー家のウィルマ夫人で」


「ウィルマ夫人?」口を挟みながらヴィジリオは半歩退いた。


「この城で侍女長をなさっていた、王妃様に一番近い方です。父と共謀して、テイアラン女王陛下を城から連れ出す計画を進めていたのです」


「それは謀反ということですか……?」さらに半歩。


「未遂に終わりましたから、その後の計画まではわかりません。ですが、どんな大儀や理由があったとしても、ファランティアのために駆けつけてくださったブラン上位王陛下にも、ハイマン将軍閣下にも、誰にも知られずに玉座から陛下を引き離すなどという陰謀を正当化はできません。父はずっと忠義の人として知られてきました。王家のためなら自分の命さえ差し出す、臣の中の臣であると。そのことはわたくしたちの誇りでもあったのです。それが、それがまさか、戦争の混乱に乗じて陛下の誘拐を目論んでいたなんて……その時、それまでの悲しみの深さと同じくらい強い怒りが沸き起こってきて、悔しくて、悔しくて……知らずにいれば、ただ悲しむだけでよかったのに」


 可憐な乙女は手が汚れるのも構わずに小さな拳を地面に打ち付けると、その怒りで跳ね上がるようにさっと立ち上がって振り向いた。ヴィジリオはその隙に脱兎のごとく逃げ出すつもりでいたが、できなかった。リーリエの握りしめた拳は硬直した腕とともにまっすぐ下へ伸び、刃物などは持っていない。小さな身体は感情を抑えきれずに震え、そして何より、あふれ出る想いで潤んだ青い瞳に揺らめく決意の光が、どうしようもなくヴィジリオの心を捕らえて離さなかった。


「だからヴィジリオ様、どうか正直に答えてください。閣下が城門で演説なさった内容は人伝に聞いています。この地を帝国の一部として迎え入れるために来たのだとおっしゃった。その言葉は真実ですか? 再び戦争の時代に戻さないためにできることは何でもするとおっしゃった。あの言葉は真実ですか? 何か裏の目的や秘密があるのなら、わたくしは……貴方にはついていけません」


 ヴィジリオの心は奮えた。自らの決意に震える小柄な乙女に、その言葉は真実だと胸を張って言わなければならない。だが、言葉だけで何を信じられるというのだろう。地下牢の男のように自分を、そして帝国を憎んでいる人はいる。反感を抱く人々はもっと大勢いるに違いない。その人たちに信じてもらうには、夢を語るのではなく、行動で示すしかない。


 そう考えると、各地の盗賊たちが連携し始めているというのは好都合かもしれなかった。それはつまり、どこかに中心となる人物がいるということ。盗賊一人一人と話しても埒が明かない。対話すべきは、その人物だ。


 だがまずは、そのことに気付かせてくれた彼女の決意を、受けとめなくては。


「わたしの言葉に嘘はありません。裏の目的もありませんし、秘密もありません。ですが、口だけなら何とでも言えます。だからどうか、近くで見ていてください。わたしの言葉が純粋に真実であると証明してみせます」


「……わかりました、ヴィジリオ様。たとえどんなに困難な道のりであったとしても、言葉を違えず、信念を貫くと、誓ってくださいますか」


 互いの視線を通じて心が触れ合い、自然と手を取り合う。


「誓います。神と、皇帝陛下と、そしてあなたに……」


 光の中で、二人はぎこちなく誓いの口づけを交わした。足元を飾るクロッカスの花たちだけが、それを見ていた。

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