執政官 3
ドラゴンストーンの復興と帝国軍兵士宿舎の建設は順調に進み、街角はかつての姿を取り戻しつつあるようにみえた。盟約歴一〇〇七年、春の第一〇週。暖かい雨が雪をすっかり消し去り、ふんわりとした柔らかな空気が王都を包んでいる。各地から届いた春の収穫物が甘く香る店頭。上着を脱いで路地を駆け回る子供たち。通りを歩く帝国軍兵士と挨拶を交わす都民の姿も珍しくない。
それはヴィジリオの求める世界の姿で、馬車の窓から覗く彼の心を慰めたが、連日のダンカンとの会話を思い出すと気が滅入った。帝国の輸送隊を狙ったファランティア人による掠奪行為は鎮まるどころか活発化しており、将軍が危惧したように組織化されつつあった。ダンカンの意見は一貫して〝盗賊の拠点を探査し壊滅させる専門部隊の編制〟であり、民からの信頼を得て沈静化を目指すヴィジリオの方針と衝突していた。
馬車は左折してブレナダン通りから外環状道路へと入った。一段上の区画は貴族が多く住んでいるため、白竜門から離れるにつれてそのお膝元という雰囲気が強くなっていく。並んでいるのは旅人や庶民のための店というよりも金持ちのための店だ。ファランティアでは貴族だからといって良い暮らしをしているとは限らず、むしろ成功した商人のほうが生活水準は高い。資産だけでみれば、身分は形式上のものになりつつあるのだった。帝国では貴族と聖職者が確固たる地位を築いているから、このことはいずれ問題になるかもしれない。
馬車は通りに面した店の前で停まった。二階建ての四角い建物で、美しい書体で屋号だけが書かれた看板は、ジョッキやワインボトルを
「二階でお待ちにございます」
騎士を階段下に残してヴィジリオとアマンダは二階へ上がった。上流階級の邸宅の食堂に似た雰囲気で、仕切りの無い一間の中央に長テーブルとイスが配置されている。よく磨かれた木目の美しい床。壁や暖炉の上には適度な飾りつけがされており、天井を支える梁と柱の接続部の彫刻など、さりげなくも上品に仕上げられていた。店内に残るワイン樽と燻製の香りが庶民的で落ち着く。
店内の階段以外に出入口はなく、矢が一本通るかどうかというくらい細い切り込みの入った窓から幾筋もの光線が室内を横切っていた。舞う埃をちらちらと輝かせている光の筋は、テーブルの手前に立つ二人の男女の足元に届いている。その陰影を見て、まるで〈熊と花嫁〉だな、とヴィジリオは御伽噺を連想してほくそ笑んだ。二人は優雅に腰をおって手を右へ伸ばし、帝国式の礼をする。おそらくは〈熊〉が〈花嫁〉に手ほどきしたのだろう。
「わざわざのご足労、まことに光栄の至りでございます」
「ここはどういう店なんだ?」
ヴィジリオに声をかけられ、マルティンは許されたと判断して顔を上げた。
「自宅に客を招いての晩餐となりますと、招く側も招かれた側も何かと気を遣うものでございますから、それほど大仰にしたくない時や、もっと気楽な間柄ですとか、逆にそれほど親しくもない場合などにも、こうした食堂が会食の場として重宝されるのです」
「なるほど、食堂……」
そして、マルティンの口ぶりから察するに貴族専用というわけでもない。旅人向けに食事を出す宿や大衆的な酒場はティトスにもあったが、上流階級向けの食堂となると、これは別物だ。やはりファランティアの文化は進んでいる。そしていずれは帝国の文化ともなるのだ。
「失礼、そちらのご令嬢も楽になさってください」
「はい、ありがとうございます」
鈴の音のような若々しい声とともに、小柄な女性が目を伏せたまま顔を上げる。彼女は〈花嫁〉と呼ぶにふさわしかった。おそらくは一〇代後半で、白い肌はほんのりと輝き、長いまつ毛の下の瞳は青く、巻き上げた金髪は甘い蜜を湛えて咲き誇る花のようだった。ヴィジリオは反射的に、二六歳にもなって未婚の自分を恥じた。そして同時に、彼女が自分の隣に立つ姿を想像した。
「ご紹介させていただきます」〈熊〉が妄想に割り込んだ。「ハイドフェルト家のご令嬢、リーリエ様でございます」
可憐な少女は小さな肩をますます寄せて恐縮する。「わたくしに敬称は無用でございます、マルティン様。我が家に残ったのは、ただ貴族という肩書だけですから……」
「いや、そういうわけには」
そうか、とヴィジリオは思い出した。旧ファランティア王国は中央部を王領とし、東西南北の各地方には総督を置いていた。ハイドフェルト家はその一つ、西部総督だった家だ。戦後、生き残ったのは北方連合王国に組み込まれた北部総督のみで、他地方の総督は全員死亡。現在は帝国によって統治されているから、もはや西部総督家とは言えない。が、それにしても貴族の肩書だけというのは一体?
「閣下、よろしければお掛けください。お飲み物もご用意させていただきましたので」
「あ、ああ」ヴィジリオは椅子に腰かけた。それを待って、他の三人も席につく。
店主みずから紅茶と焼き菓子を持ってきて、同じポットから四つのカップに注いだ。ヴィジリオにとって紅茶は貴族の飲み物で、アマンダにいたってはテストリア大陸に来て初めて目にしたかもしれない。この土地では庶民も口にする――当然、品質は低いが――ものだから、上流階級に属する二人のファランティア人にとっては何ら特別なものではないはずだ。
茶葉の原産地は東方諸国よりずっとずっと東、イスタニア大陸の果てだが、貿易海に面した国々で飲まれているものは東方諸国で生産されている。ファランティアにも茶畑はあるが、気候によるのか秘伝の技でもあるのか、品質は東方産に及ばない。カップの中でたゆたう滑らかな茜色の水面は美しく、実際のところヴィジリオに違いはわからないが、東方産の紅茶と思われた。
アマンダがさりげなくカップを入れ替え、一口含んで確認するのを待ってからヴィジリオも紅茶を口に運んだ。花のように甘やかな、春を感じさせる豊かな香り。キレのいい渋みが舌の上に爽やかで、温もりが喉から胃に落ちていくのも心地よく、気持ちまでもが落ち着いた。やはりこれは貴族の飲み物だ。
「閣下、先日は知人の納税の件でご配慮いただき、感謝の念に堪えません。本日もまた続けての嘆願となってしまい、まこと恐縮ではございますが」
「ああ、いえ、閣下!」とリーリエが腰を浮かせた。小柄な彼女はそうでもしないと会話に加われないとでもいうように。「わたくしがマルティン様にお願い申し上げたのでございます。マルティン様はわたくしの願いを聞き届けてくださったのです」
必死な彼女にヴィジリオは苦笑した。「いや、頼りにしてもらって大いに結構。そのためにわたしはこの地へ来たのですから。必要とあればどこへでも出向きます。それで、何か困っておられるのですか」
「はい、その、実は……恥を忍んでお願いがございまして」と、ハイドフェルト家の令嬢は事情を説明した。
代々西部総督を継ぐハイドフェルト家は西部一の大貴族であったが、当主のトビアス・ハイドフェルトはキングスバレーで帝国軍と戦い、死亡した。戦後は帝国よりキングスバレーに赴任したウェルキンス司令官がその地位と権能を引き継いだが、資産までも没収したという。
確かに、トビアスは生きていれば戦争責任を問われる立場であり、死後その一族が権勢を維持するのは難しかったろう。かつて仕えてくれた人々も離れてゆき、彼女と幼い弟と母親の三人はプレストン市内の滞在用邸宅にて冬を越したが、先日になってそこも立ち退くよう命令が来た。
「わたくしどもにはあの家しかないのでございます。もし、もしご慈悲をいただけるのであれば、これからもあの邸宅に住まわせていただきたく、お願い申し上げる次第でございます……!」
リーリエはテーブルに両手を添えて深々と頭を下げた。彼女のような大貴族の令嬢にとって、もしかすると生まれて初めてかもしれない。慣れない所作と小さく震える肩にヴィジリオの胸は痛んだ。
「どうかお顔をお上げください。正直に言うと、わたしもまだ王都の正常化に努めるだけで精一杯で、各地の統治は司令官に一任してしまっているのが現状です。戦争というものは人間を敵と味方に分けるものであり、勝者と敗者を生みます。しかし戦後には、関わった者全員がその責任において、再び戦争の時代へ戻さぬよう、できることは何でもしなければいけない。戦争の犠牲となって困窮する人々に手を差し伸べることもその一つです。ウェルキンス司令官の判断にはわたしも疑問を感じています。理性的な統治をするよう再度厳命しましょう。そしてあなたとご家族の邸宅を現状のままにするようにとも」
「ああ、閣下……」
リーリエが顔を上げ、その時はじめて二人は目を合わせた。宝石のように青い瞳が揺らめき、涙が白い肌をつうと流れ落ちる。ヴィジリオはドキリとした。なんと美しい涙なのだろう。
「よかった、本当に……本当に、うれしゅうございます。神様、ありがとうございます」
「いや、そんな大げさな」
「いいえ、閣下のような御方を遣わしてくださったことに感謝申し上げます。閣下がかように理性的であらせられたことは、この地の民にとってこの上なき幸運でございます」
「わたしをここへ遣わしたのはレスター皇帝陛下です。感謝申し上げるなら、皇帝陛下に」
「はい。では、レスター皇帝陛下に感謝申し上げます」
こんなにも可憐で、純粋で、素直なひとがいるなんて――ヴィジリオは心打たれ、自分の胸のうちにある何もかもを彼女に打ち明けたくなった。彼女の純粋さが全ての悪と穢れを退けてくれそうな気がした。気持ちが通じたのか、彼女もまた何かを待っている。
「閣下、本日のご予定はまだ終わっておりません」とアマンダが言い、「ごほん」とマルティンが咳払いして、ヴィジリオは世界に彼女以外の人間がいたことを思い出した。
「ああ……わかっている。また今度、ゆっくりお話しできるとよいですね」
彼女は頬を赤らめてうつむいたが、嫌がってはいない様子だった。ヴィジリオは思わず口走った自分の言葉に顔が赤くなるのを感じた。初対面で破廉恥だったかもしれない。マルティンが思わぬ助け舟を出す。
「よろしければ次回の懇親会にお連れいたしましょう。予定通りなら二日後でございましたね?」
「うん」
ヴィジリオは立ち上がった。三人も続けて立ち上がり、二人は敬礼をする。
「それでは、リーリエさん。お会いできるのを楽しみにしております」
再びヴィジリオを乗せた馬車は外環状道路を直進して紫竜門から外に出た。内にいると慣れてしまうものだが、外気を吸い込むと、いかに都市が悪臭ふんぷんたるかを知る。右の窓から見えるドラゴンストーンの外壁には変化がなく季節感もないが、左の窓に目を向けると、道端には春の草花が瑞々しく繁茂し、陽光を受けてほんのり光を放つ虫たちが楽しげに舞っていた。その向こうに広がるハスト湖のキラキラと輝く湖上には小舟がいくつか出ていて、漁師が手にした釣り竿をひゅんひゅんと上げ下げしている。その姿がなぜか、永遠に続く平和の象徴のように感じられた。
春特有のそわそわした、しかし不快ともいえない妙に高揚した気分でそれらを眺めていると、唐突にアマンダが口を開いた。
「リーリエ様の件ですが、慎重に対応されたほうがよろしいかと」
「ん?」
「西部との境界付近は、例の盗賊行為が多い地域です。そしてハイドフェルト家の三本槍とも称されたキルシュ家、アレンス家、ボアマン家をはじめとして多くの者が騎士位の返上を拒否して出奔し、行方をくらませています。その者らが盗賊行為を先導している可能性は低くありません」
「ははは、まさか彼女が盗賊の仲間だとでも?」
「いえ、そうは申しませんが」
「まあ、ダンカンあたりはそんなふうに考えそうだな」
ヴィジリオは再びきらめく湖畔に視線を戻し、その光の中で踊る彼女を妄想した。対面に座るアマンダは、彼の横顔に浮かんだ微笑みをただ見つめていた。
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