元将軍と交易商 2
〝騎士たるもの三日会わざれば別人と心得よ〟というが、帝都アルガントはまさにそうだった。ハイマンの眼下で都市は多様な文化と人々を飲み込みながら、より複雑に、より多機能に、外へ外へと拡張されていった。見たこともない衣装に身を包んだ様々な肌色の人々が都市に吸い込まれては送り出されていく。そして今なお衰えを知らず、活力に満ちていた。
一方、ぴんと張りつめた糸のようであったハイマン・ストラディスという人間は二〇年もの歳月の間に摩耗して、心身ともにすっかり弛み、衰えてしまった。覚悟を決めてやって来た異国の地でただ一人、いつとも知れぬ刑の執行を待ちながらの軟禁生活ではさもありなん。不安に耐えかね、いっそ早く死刑にと願いながら眠れぬ夜を過ごし、ついには自ら首を吊ろうかと真剣に考えたこともあったが、そのたびに皇帝レスターの姿が頭を過ぎって踏みとどまらせた。この住みよい邸宅での暮らしは特別な恩情に違いなく、勝手に命を絶つことは皇帝陛下の顔に泥を塗るようなものだ。それだけはできない。
やがて過食と酒に救いを見出し、ハイマンの筋張った細身の体はみるみる肥えた。今ではでっぷりした太鼓腹を隠そうともせず、テラスの椅子にだらしなく身を任せ、うろんな目で帝都を眺めるだけの毎日を送っている。
そうしていつものようにテラスでビールを飲んでいると、背後から近づいてくる世話人の気配があった。世話人と門番は交代制で半年から一年の間に入れ替わる。今の世話人がいつからいるのか、いつまでいるのか、もうハイマンにはどうでもよかった。どうせ食事の用意ができたと告げに来ただけだ……と思いきや、違った。
「ハイマンどの。お客様が訪ねておいでです」
心臓に内側から胸を叩かれ、ハイマンは肩を揺らした。うつろな瞳の奥に恐怖がにじむ。ついに刑の執行が決まったのか――待ち望んでいたはずのその時が来たというのに、鼓動一回ごとに膨れ上がる恐怖がかつて将軍だった男を飲み込んだ――いや待て、皇帝陛下におすがりして恩赦を願い出れば、もしかしたら死刑を免除下さるかもしれない。いまさら恥も外聞もないではないか。お望みとあらばどんなことでもしよう。
ハイマンはのろのろと立ち上がって世話人と向き合った。震える手を口ひげに伸ばしたが、手入れもされず伸び放題では掴みどころがなく、胸を張っても腹のほうが出っ張っている始末で、とても立派とは言い難い。
「えと、その、ええと……ど、どど、どちら様で、どどどどんな用件かな?」
この世話人と会話するのは初めてだったかもしれない。名も知らぬ、これといった特徴もない中肉中背の男。エルシア大陸人にしては明るい肌色だが、テストリア大陸人では決してない。彼は表情を変えず――いっそ笑ってくれてもよかった――静かに答えた。
「交易商人だそうです。ファランティアで仕入れた商品を、ぜひハイマンどのに披露したいとか」
ハイマンは思わず脱力しかけた。死刑の執行ではなかった。皇帝陛下はまだ自分に温情をかけてくださっているのだと思うと、うれしかった。胸に手を当てて心中で感謝を述べ、じっと待っている世話人に気付き、それからやっと「へ?」と間抜けな顔をする。
「なぜ商人が? 金なんてないし、何も買えない。帰ってもらって……いや待った、ファランティアの商品?」
「そう申しております」
「まだ、その……い、いるのかな?」
「玄関に待たせておりますが」
「えっ、門番は?」
世話人はその質問を無視した。「して、どうなさいます、ハイマンどの?」
「いやまぁ、その……見るだけならいいかもしれない……」
世話人は心得た様子で軽く会釈をし、部屋を横切って廊下へと出て行った。ハイマンは陶器製のジョッキをつかんで残ったビールごと恐怖心を胃の腑へ落とし、げっぷに変えてから、自分が半ズボンしか穿いていないことに気付いて慌てて上着を探した。室内の椅子の一つに掛けてある袖なしの胴衣に腕を通したが、果たしていつからここにあったのか、前が届かない。別の上着を探してきょろきょろしているうちに、二人の足音が近づいて来てしまった。慌ててぼさぼさの髪と髭を撫で付け、上着の前をなるべく引き寄せてだらしない腹を隠そうと無駄な努力をしながらハイマンは客を待ち構えた。
交易商人と名乗る男は最初、幅広い丸つばの麦わら帽子しか見えなかった。両手を膝につけて腰をかがめ、頭を下げるのはテンアイランズで目上の者に対する礼儀だ。世話人が「何かお飲み物を用意いたしましょう」と廊下を引き返して行ったので、室内はハイマンと交易商人の二人きりになった。
「えっと、あの、あー……」
「お目通りかないまして、ありがたく存じます。わたくしはルビコン商会からまいりました、交易商人のモロウ・スーンと申します。担当はテストリア大陸の、特に中部でございます。将軍には旧ファランティア王国領といったほうがわかりやすいでしょうか」
ゆっくりと麦わら帽子を下ろしながら交易商人は顔を上げた。つるりとした禿頭の丸顔は卵を連想させ、目は細く、瞳はその奥に隠されている。穏やかな表情は明らかな作り笑い。その顔、そしてなにより自分を将軍と呼ぶ声の響きが、アルコールの底に沈んだハイマンの記憶を刺激して閃光のように弾けさせた。しかし、そんなはずはない。どう見てもテストリア大陸人の肌色ではないし、光沢のある健康的な肌つやはせいぜい三〇歳といったところだ。むき出しの肩から腕にかけての筋肉の付き方は重荷を背負って歩く行商人のそれだし、固太りした胴回りにも中年のだらしなさはない。ハイマンより身長は低く、ずんぐりとした佇まいもまた〝あいつ〟を思い出させるけれども。
ぽかんと口を開けているハイマンに、モロウと名乗った交易商人は再び頭を下げた。「いや、これは大変な失礼をいたしました。将軍とお呼びするのは失礼だったでしょうか」
「……いや、べつに気にしない……」
「ありがとうございます。では、将軍と」
そこへ世話人がやってきて、テーブルに紅茶を置いた。テラスへ続く戸は全開になっているので、雨後の匂い立つ風がさわやかな香りを室内の隅々まで運ぶ。それはファランティアを思い出させる香りで、動揺した胸の奥をさらにざわつかせた。ハイマンがテラス側の椅子に腰を下ろすのを見計らって交易商人は長テーブルの反対側に座った。
「とても、その、ファランティア語が上手いな。まるで……」
「ありがとうございます。まるで……なんでしょう?」
何を言っているのだ、私は――ハイマンは咳払いして続ける。
「見せたいものがあるとか。しかし、何も持っておらぬようだが……?」
「はい。本日お持ちいたしましたのは情報でございますので、すべてはこの頭の中に入っております」
交易商人は禿頭を指差した。ハイマンは眉根を寄せる。
「情報を売る、ということか? それでは適当な嘘を並べてもわからんではないか」
とはいえハイマンにとって、それは魅力的な商材だった。この二〇年間の世界の動きはほとんど知らない。漏れ聞こえてくる世話人と門番との世間話、そして隆盛を続ける帝都アルガントの様子から推測できる程度の知識しかない。交易商人は笑顔のまま答える。
「ええ、ええ、もちろん将軍はよくご存知でしょうけれども、敢えて述べさせていただくならば、商人にとって最も大切なものは信頼でございます。嘘を並べて一時の利を得られたとしても、いずれは負債となって返ってきましょう。正確な情報を扱うことはわたくしのような者にとって、命と同じくらい大切なのでございます」
余裕のある態度とその言い回しに懐かしい苛立ちを感じ、ハイマンはフンと鼻を鳴らした。「いずれにせよ、取引はできない。先立つものがない」
「ええ、ええ、もちろんよく分かっておりますとも。本日はいわゆる試供でございます。具体的な取引の話は後日といたしましょう。ああ、いえ、お決めになるのはハイマン将軍でございますので、帰れと言われれば帰りますが」
「いや、そういうつもりでは……あっ、待って!」
交易商人が立ち上がりそうな気配を見せたので、慌ててハイマンは手を伸ばした。二〇年ぶりのファランティア語、二〇年ぶりのまともな会話。今、一番欲しかったものが何なのかを自らの切迫した声で知った。
「待ってくれ、もう少し、その……話をしたい、というか話を聞いてやってもいい。無料なら」
交易商人は再び椅子に落ち着いた。張り付いた笑顔に変化はないが、どこか満足げにも見える。「はい、例えば、現在のテストリア大陸の情勢などはいかがでしょう」
最初に思い浮かんだのはストラディス家のこと、妻子のことだったが、ファランティアの現在もまた喉から手が出るほど知りたいことだった。しかし、それを聞いたら話は終わってしまう。なんとか引き延ばさなくては。ハイマンは酒で鈍った頭をひねり、うーんと唸ってから、思い付きを口にした。
「あ、そうそう。執政官どののファランティア統治は上手くいったのかな?」
「執政官どの、というと、串刺し閣下のことですか」
「え。く、串刺し……って、え?」
「おっと、これは失礼をば。ハイマン将軍のお耳にも届いていたのかと。えー、ごほん。執政官どの、とはヴィジリオ・ディケイオス閣下のことですね。つまり、将軍がファランティアを離れた直後をご所望と?」
「うむ、その、いきなり今の話をされても経緯がわからなければ……えっと、そのぅ」
「情報としての価値は半減する?」
「そう、それだ、そういうことだ」
交易商人はゆっくりと紅茶をあおり、ハイマンをたっぷり焦らしてからうなずいた。
「おっしゃることはよく分かります。承知いたしました。それでは……将軍がファランティアを去られた冬が終わって春、盟約暦一〇〇七年から始めましょう」
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