執政官 1

 その日は春の到来を感じさせる朝だった。そよ風の冷たさに冬の名残はあるものの、澄み切った空の青さにも柔らかさが感じられ、陽光はぽかぽかと温かく、人々は厚手の上着を脱いでレッドドラゴン城の城門前に集まった。盟約歴一〇〇七年、春の第一週一日は暦の上でも新年元日で、まさしく所信表明には相応しかったが、当のヴィジリオは階段の下で吹雪に凍える小動物のように震えていた。手の中にある原稿に目を通してみても頭には入ってこず、見えない手で胃を鷲掴みされているように苦しい。吐き気もする。母の待つ家に帰りたいが、故郷は六〇〇マイルの彼方だ。馬で三週間はかかる。


 やはり、こんな大役など引き受けるのではなかった。執政官は帝国属領における政治と軍事の最高権力者だ……ティトス行政府に数多いる文官の一人に過ぎなかった若輩者に務まるはずがない。


 皇帝陛下より直々のご下命を賜った時は天にも昇りそうな心地だったというのに。陛下と同じ夢をみて、背を追って同じ道を歩き、いずれは並んで歩くことさえできるのではないかと――いや、それはあまりに飛躍しすぎだろう。


 背を寄せた石壁伝いに響く人々のざわめきに明確な敵意は感じられないが、自分たちの街を攻めた軍隊の指揮官――正確には、それはレスター皇帝陛下だが下々の者まで理解してはいまい――が演説をするのだから、反発はあって然るべきだ。そう頭で理解していても、ヴィジリオは怒りや憎しみといった敵意を向けられて平然としていられる類の人間ではなかった。


 わはは、という笑い声に目を上げると、城壁内通路の入口でダンカン将軍が部下と歓談していた。小柄なヴィジリオとは対照的な、がっしりした体格が小さな入口をますます小さく見せている。皇帝陛下と馬を並べてファランティア紛争を戦った軍人で、祝賀用の甲冑はぴかぴかと輝き、帝国の色である黒と赤で揃えられた剣帯とマントも立派だ。整えられた顎髭を撫でながら自信たっぷりな表情で演説の開始を待っている。その様はまさしく征服者。


 いっそのこと、彼に原稿を渡して自分は玉座で待とうか。ヴィジリオの生まれ育ったティトスでは、君主はめったに人民の前には姿を現さないものだった。そのほうが有難みもあっていいかも……いやいや、だめだ。それは皇帝陛下が考えておられる統治者の姿ではない。


「閣下」


 すっと人影が、将軍の横をすり抜けてヴィジリオの前までやってきた。補佐官のアマンダはヴィジリオより背が高く、胸を開いて肩を張った立ち姿は鋭角で冷徹な印象を与える。豊かな巻き毛は頭の後ろで束ねられ、丸く形のいい額と思慮深そうな瞳を隠すものはない。黒のドレスはこの場にいる誰よりも控えめだが、エルシア大陸南部出身だという彼女の肌は色濃く、目立つのは避けられない。色白なヴィジリオと並び立てば、なおのこと。


「人前で話されるのは苦手ですか?」


 エルシア大陸では珍しくない緑色の瞳だが、色素が薄く涼しげで、不思議と落ち着く。


「いや、そんなことはあり……ないが、統治者として人々の前に立つのは初めてで」


「では、記念すべき第一歩ですね。よろしければ、原稿はわたくしが読み上げましょうか。閣下はただ立っていてくだされば」


 後ろ手に組んで立つ彼女の凛とした姿と落ち着き払った声は、よほど統治者に相応しいと思える。


「あなたは慣れているようにみえる」


 補佐官は胸に手を当てて軽く頭を下げた。


「アマンダとお呼びください。わたくしは、そうですね、閣下は影の淑女というものをご存知でしょうか?」


「うーん、知らないな」


「エルシア大陸南部の諸部族に存在した、王を補佐する女たちのことです。帝国に加わるより前、王は男に限られ、求められたのは強さだけでした。読み書きさえ不要だったのです。しかし力だけでは国を治めることはできません。王に仕え、王に代わって、影ながら政治や法を司っていたのが影の淑女です。王にさえ秘密の、部族を越えた影の会議まであったのですよ」


「とても興味深い……」大学で政治学の授業を取っていたこともあるヴィジリオは興味を惹かれて一時不安を忘れた。「そうか、あなたも?」


「まだ見習いでございましたが、はい。時には王の影として、民の前で話すこともあったそうです」


「なるほど……いや、しかし気遣いは無用」ヴィジリオは少し前向きな気分になって言った。「もっと自分に自信を持たねば」


「かつて、力はありながらも自信が持てず、不安に苛まれる王がいたそうです。そこで影の淑女はこう申し上げました。〝我が君、自信など不要です。必要なのは覚悟だけです〟」


「覚悟」


「はい。閣下であれば、帝国のため、皇帝陛下のため、この地を統治する。そのために必要なことをするのだという覚悟です」


 そうだ、皇帝陛下はこの場にいる他の誰でもなく自分を選んだ。その期待を裏切ってはならない。この地を帝国の一部として統治する。そのためには何でもする。まずは自分自身の声で話すのだ。今日、この場で。


「ありがとう、アマンダ補佐官。覚悟か……よく覚えておこう」


「では、そろそろ参りましょう、閣下」補佐官はゆっくりと頭を下げて身を引いた。「帝国の新たな民が待っています」


 出口の光を目指してヴィジリオは城壁内の狭く急な石階段を上がりはじめた。すぐ後ろに補佐官と将軍が続く。もう後戻りはできない。必要なのは覚悟、覚悟……と心の中で繰り返しつつも、人々はどんな眼差しを向けてくるのだろう、どんな声を浴びせてくるのだろう、と考え始めると、不安と少しの期待とで胃の腑がぐちゃぐちゃにかき混ぜられる。


 最悪の場合に備えて目を細めながら城壁の上に出たヴィジリオを待っていたのは抜けるように青い空と、正五角形の三段構造をなす都市の壮大な眺めと、波が引いたような静寂だった。すぐ足元にいる民衆は見ないようにして、家々の屋根が織りなすモザイク模様と、三段低い位置にある都市の外壁に目をやる。ほんの少し目線を上げると、その向こうのハスト湖まで見えた。


 涼しい風が頬を撫で、一瞬、統治者として成功した自分が都市を睥睨しているかのような気分になったが、背後に補佐官と将軍が並び立つ気配がして現実に引き戻される。集まった民衆には目を合わさず、ぼんやりした雑多な塊として認識しながら、ごくりと喉を鳴らして口を開く。


「ドラゴンストーンの人々よ、わたしがアルガン帝国テストリア大陸中央方面執政官、ヴィジリオ・ディケイオスである。皇帝陛下の代理として、帝国の新たな人民である諸君らの命と財産を守護し、迎え入れるためにわたしはここに立っている。見てのとおり、わたしは南部沿岸都市の一つ、ティトスで生まれ育った、諸君らと同じテストリア大陸人である。ティトスが帝国属領となったのは八年前、帝国人民としては新参でも、皇帝陛下は執政官として信任くださった。これこそがアルガン帝国である。人間を出身地や肌の色で差別しない。なぜなら帝国とは、我々を古き魔法から解放し、人間が人間自身の力によって立つための、人間の国だからである!」


 歓声を期待して、一瞬待った。が、何の反応もない。自分の中での盛り上がりと、人々の反応との剥離に困惑する。


「そ……先の紛争は両国にとって不幸なものだった。そしてこの冬は皆に負担を強いた。それは認めよう。だが見よ、この美しき街並みを。これこそ我々が野蛮な征服者ではなく、解放者の証である!」


 いまだ歓声も怒声もなく、場は静まり返ったままだった。この無言は是か非か。いったい彼らは何を考えているのか。その答えは一人一人の目を覗き込めば明らかだろうが、ヴィジリオにはできなかった。


「ゆえに……ゆえに、我々は、あなた方から何も奪いはしない。我々は与えるために来た。夏までには皆の生活を正常化し、これまでと同じ、いやより豊かな秋が迎えられるよう努力する。そのために、そのために、て、帝国を学び、そして、そして……」


 なぜ誰も何も言ってくれないのか。民ではなく外壁に向けて話しているからか。重く圧しかかる沈黙が不安を恐怖に変えていく。やはり自分には分不相応だった。皇帝陛下が拓いてくださった道を歩む資格さえない……恐怖、恥辱、自己嫌悪。いますぐ城壁内に駆け戻って、狭く暗い通路に座り込みたい。膝を抱えてすすり泣く自分の姿を想像すると、それは相応しいもののように思えた。これは失敗だ。最初から失敗した。もう何もかも終わりだ。


 ヴィジリオは最後にぎゅっと目を閉じ、それから自分自身にとどめを刺すため、恐る恐る群衆の目を覗き見た――が、そこに敵意は無かった。無関心でも無かった。ただじっと、ヴィジリオの次なる言葉を待っている。これは拒絶の沈黙ではない……期待の沈黙だ。皆が自分の言葉を待っているのだ!


 唐突に、ヴィジリオは今まで感じたことのない衝動にかられ、自分でも全く予想していなかった行動に出た。ばっ、と城壁の凹凸に飛び乗り、ダンカン将軍が慌てて腰を抱えるより早く両手を大きく広げて叫ぶ。


「そして今日この時より、新たな時代が幕を開ける。帝国に、諸君らの力を貸していただきたい! ともに理想の人間国家を築くのだ!」


 パチ、パチパチ。一人また一人と拍手の花が咲き、あっという間に広まって、咲き乱れた。眼前に広がる花園に飛び込みたい衝動を、ダンカン将軍がひしと掴んで何とか抑える。溢れ出た感動が涙となって流れ落ちるのもそのままに、ヴィジリオは天を仰いで全身でかぐわしき拍手を味わった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る