プロローグ

 その年は初雪こそ遅かったものの、いったん降り始めれば、しんしんと続いた。

 闘争の熱を冷ますように。

 流された血を隠すように。

 正五角形をなす美しき王都を白いヴェールが覆った。


 都を見下ろす頂のレッドドラゴン城も、いまやホワイトドラゴン城と呼ぶにふさわしい姿をしている。幸いにして戦火を免れた中郭は先日雪かきをしたばかりだが、一晩でうっすらと雪の絨毯が敷かれていた。その上を三人の男が黒い足跡を残していく。


 赤と黒のサーコートをまとった帝国軍の兵士に挟まれて、ハイマン・ストラディスは最後に城をかえりみた。おもむろに立ち止まった彼の背中を、生まれて初めて経験する寒さから逃れたい兵士は小突こうとしたが、馬車の前で待つ騎士は手合図でそれを制する。別れくらいは告げさせてやれ、と。


 この城のシンボルと言ってもいい四角い大塔が、灰色の空の下にそびえ立つ巨人のように三人を見下ろしていた。その背後に広がる果樹園の木々は雪の重みで枝を垂らし、しょんぼりとしている。その中に佇むガラス張りの迎賓館はさぞかし幽玄で美しかろうが、ここからでは大塔に遮られて見えない。城壁と東棟の間にたたずむ井戸の上から、主無き竜舎に併設された小さな塔の先端が覗いていた。何もかも、まだ戦争が始まる前の、去年の冬と同じだった。この静けささえも。


 王都を占領したアルガン帝国軍は皇帝レスター自身が発した厳命によって、狼藉を働くことは――少なくとも問題視されるほどには――なかった。旧ファランティア王国の民は千年の平和な時代がまだ続いているかのごとく従順に、指示に従って親戚や近所の家へ移り、帝国軍兵士は割り当てられた家で初めての雪降る冬をしのいだ。王都の蓄えはほとんど尽きたが、食料も公平に分配され、餓死者も通りで凍える者も出なかった。


 つまり、ハイマンの身を包むこの静謐せいひつこそがアルガン帝国皇帝レスターのカリスマ性と指導力の証左なのだ。北方連合王国の上位王ブランの輝きを夏の烈光に喩えるならば、彼のそれは冬の白光。この二人の英雄王に比べれば、ハイマンが仕えた二人のテイアランなど玉座を譲渡されただけの凡人に過ぎない。


 溢れ出す何気ない日常の記憶が目に染みて、ハイマンはふっとため息で思い出に蓋をした。再び兵士に従って歩き出す。待機している馬車はレッドドラゴン城にあったもので、内装は外装以上に豪華な造りだ。高貴な人々のための馬車は囚人の護送用として相応しくないが、不測の事態に備える頑丈さはある。それに、帝国軍が持ち込んだ馬車では冬の雪道を走破できない。


 もとより枷をはめられているわけでもないハイマンは自ら馬車の扉を開こうと手を伸ばしたが、帝国騎士がそれに先んじた。単に礼儀正しいのか、それともエルシア大陸では罪人に扉を開けさせてはならない決まりでもあるのか。違和感に眉根を寄せながら乗り込もうとして、ぎくり、と動きを止める。馬車には先客がいた。褐色の肌をしたエルシア大陸人の青年は、赤いビロードの上下に黒いマントを肩にかけ、ひじ掛けに立てた腕に頬を預けている。柔和な顔立ちをしているが表情は精悍。緑の瞳は網の目のような編み木窓の外に向けられている。流れる白金の髪の上に王冠が無くとも、そのたたずまいは王者のそれだ。


「早く入れ、ハイマン・ストラディス将軍。ファランティアの冬の空気は冷たすぎる」


 皇帝陛下の命とあっては驚き固まっている場合ではない。ハイマンは身をかがめて馬車に乗り込み、なるべく距離を取って手前に座った。馬車の扉が閉じられ、御者が手綱を振るう。馬車はゆっくりと動き出す。


「この雪も最初こそ興味深かったが……溶ければただの水だ。ずっと溶けずにおれば美しいのにな」


 動揺おさまらぬハイマンはただ黙ったまま、つま先に視線を落として待った。


「ハイマン将軍……正確には元将軍だが、将軍と呼んでもよいかな。面をあげてよいぞ」


 揺れ始めた馬車の中でハイマンはつま先からゆっくりと視線を上げていった。悠々と足を組んだ若き皇帝と目が合い、慌てて視線を逸らす。自分を見ているとは思わなかった。気まずい沈黙。会話を求められているような気がして、ハイマンは帝国語の正しい発音を意識しながら口を開いた。


「皇帝陛下……その、編み木窓は板窓で閉じることができます。そうすれば冬の空気の侵入を防げます」


 レスターは面白そうに目を細めた。「なるほど、将軍はロランドと似ているな。穴を塞ぐような用兵もよく似ていた。王都の戦いを指揮していたのはそなただったのだろう?」


「はい、陛下。しかし、わたくしなどには畏れ多いお言葉です。テッサニアのロランド閣下とは比べるべくもございません。閣下のことは、残念でございました」


「ああ、神は常に余から奪いたもう……いや、失言だった。忘れてくれ」


 まるで黙祷するように、車中の二人はしばし沈黙した。ハイマンは心得ていたので、自らそれを破るようなことはしなかった。


「ハイマン将軍、余に尋ねたいことが星の数ほどあろう。すべてに答えるつもりはないが、質問を許す」


「いえ、しかし……」


「この車中には我々二人だけだ。そしてエルシア大陸は遠い。これから長旅を共にするのだから、過剰な遠慮は無用だ」


「では、帝国に戻られるのですね」


「うむ。新帝都への遷都も間近であるし、なにより帝国議会から離れすぎた。余は皇帝としての責務を果たさねばならぬ」


「皇帝としての責務、ですか」


「今回の戦で帝国民も相応の被害を被った。命を落とした兵士もいるし、その家族もいる。戦のために資産を供与した人々がいる。その全てをあがなう責任が余にはある」


 それはハイマンにもよく分かった。ファランティア王国は〝国王テイアランの血統が途絶えた場合、北方連合王国の上位王がそれを継ぐ〟と〝事前に決まっていた〟ことになっているが、停戦に至るまでファランティア王国が主体的に戦争を継続していたのは明白だ。その裏にブラン上位王の思惑があったとしても、証明できるものは何もない。ゆえに、ファランティア王国の戦争責任を誰かが負わねばならない。それは国王亡き今――実際には行方不明で死体も発見されていないが、誰も重要とは考えていない――、ファランティア王国軍の最高指揮官であったハイマンにしかできない最後の仕事であった。


 帝国国民に正義は成されたと示すための生贄。裁かれ、処刑されるまでの命。何を遠慮することがある――ハイマンは思い切って口を開いた。


「では、畏れながら……なぜファランティア王国を攻められたのです。その責を負うと覚悟していながら」


 殺された使者、などという茶番を演じてまで――とは、さすがに言えなかったが。


 若き皇帝は足を組み替え、ふむ、と少し思案してから答える。「情熱に満ち溢れた若者を止めることなど不可能だ。彼はすでに走り出してしまった」


 ハイマンは目をぱちくりさせた。レスターは真面目な顔で続ける。


「どんな国であっても、実態は人間の集まりに過ぎず、人智を超えるものではない。ヒトに例えるなら、アルガン帝国は十代の若者だ。体力と活力に満ち、それを持て余している。将軍にもそういう時期はあっただろう。自分の力を試したいという情熱に身を焦がし、世界を夢見た頃が」


 確かにあったが、しかし。「では国が、民が、これを望んだと?」


「そうだ。帝国はもう幼子のように余の手を必要とはしていない。それでもまだ、その責任を負う者、保護者は必要だ。それが余の、皇帝としての務めだ。将軍になら理解してもらえると思うが」


 敢えて答えず、ハイマンは肯定した。「しかし今、この時期に王都を離れてもよいのですか。ブラン上位王も同じ情熱に突き動かされているように見えました」


「ああ。だが、よほどの理由なくば停戦協定は破れまい。大義を失い、民の反感を買えば、王の力は削がれる。余はファランティアの地を破壊するつもりはない。帝国に迎え入れたいのだ。ヴィジリオなら上手くやるだろう」


 ヴィジリオ・ディケイオスの名だけはハイマンも知っていた。レッドドラゴン城の玉座を与えられた執政官――帝国属領における最高権力者――で、名前から推測できるとおり、南部都市国家群の出身と聞いている。すなわち、大きな括りではファランティア人と同じテストリア大陸人だ。


「信頼なさっておいでなのですね」


 レスターは口元に拳を当て、愉快そうに目を細めた。困惑するハイマンに「いや、すまぬ」と前置きする。


「ロランドがテッサニア連合王国とともに帝国へ下った後、余はテッサに各都市の高官を集めて帝国の理念を語った。魔獣とともに魔法を駆逐し、我々人間が本来持つ力によって立つ、我々の国家を築き上げるのだと。そのためには統一された言語、法、そして理想が必要だ。余と、余の民と同じ夢を見てほしい。諸君らの力を貸してくれ、と演説した直後に……ふふ、ははっ」


 堪えきれないというふうに破顔したレスターは、世界の三分の一を手中に収めた皇帝から一瞬にして無邪気な若者のようになった。思わず友情を感じてしまいそうなほど魅力的な笑顔に、ハイマンは自戒する。それは畏れ多いことだ。


「静まり返った高官たちの中で、末席にいたヴィジリオが突然、跳ねるように立ち上がってな。諸手を打ち鳴らしたのだ。すると警備の者たちは慌てふためき、余の周囲を固め、ヴィジリオに飛び掛かって取り押さえた。はははっ。あの時の皆の顔を見せてやりたいよ。あのロランドでさえ大慌てだ」


「なるほど。暗殺計画か何かの実行の合図と思われたのですな」


「ふふっ、やはり将軍もそう思うか。だが実際には余の話に感動したというだけだった。あれはそういう男だ。帝国の理想を実現するという、同じ夢をみている。統治者として経験不足なのは事実だが、ダンカンを将軍として残したし、信頼に足る補佐官も召喚してある。余の期待を裏切ることはあるまい」


 むろん、そんなただ一度きりの出来事で全幅の信頼を置いたわけではないのだろうが、同じ夢、同じ理想を共有する仲間……臣下をそのように見る王者がいようとは。ハイマンは何とも言えず、窓の外に視線を戻した若き皇帝の煌めくエメラルドの瞳に魅入られた。もし自分がもっと早く、この人物と出会っていたら同じ道を歩めたのだろうか……などと夢想しながら。


 ゆえにハイマンは、その口の端に浮かんだ微かな歪みに気付けなかった。

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