第39話 切ない気持ち
ジュリアン・アレイスターは、ラベンダーに名前で呼ばれるのが嫌だった。
アレイスターと呼ばれる方がよほどましなのに、ラベンダーは、アレイスターを抱き上げると、金色の巻き毛を撫でで、
「ジューリアス」
と愛称で呼んだ。アレイスターが睨むと、ラベンダーはとろけるような笑みを浮かべて肩をすくめた。
「睨まないのよ」
うれしそうに笑って、アレイスターの小さな頬を優しくつねる。すると、ゆりかごの中で眠っているラベンダーの娘、ラリーサがキャッキャッと声を上げて笑いだした。
「ほら、ジューリアスのこと大好きだって言っているわ」
ラベンダーの娘は父親と同じ金色の髪にラベンダー色の瞳をしていた。肌の色は雪のように真っ白で小さな唇はバラの花のように赤い。
アレイスター城を離れ、北の領地に来た時、ラベンダーは自分が身ごもっている事を知らずにアレイスターを育てていた。
アレイスターは赤ん坊の頃から力を持て余していた。驚いたのは、アレイスターが最初に話した言葉が『ラベンダー、妊娠』だった。
仰天したラベンダーは信じられなかったが、自分の体の異変に気付き三か月目には見た目にも変化が出て、自分の妊娠に気がついた。
それから、北の領地に潜んでいる光る精霊たちに守られながら、無事に出産した。もし、アレイスターがいなければ、ラベンダーは流産していたかもしれない。
妊娠を知った時は正直、戸惑いを感じた。そして、あの日の事を思い出した。
最後の日、ローワンはとても優しくラベンダーのことだけをひたむきに思ってくれていた。思い出すたびに、ラベンダーは切なさに顔を覆った。
今は後悔している。どうして、ローワンの優しい気持ちに答えられなかったのだろう。自分はなぜ、あんな質問をしてしまったのだろう。
――どうしてわたしと結婚したの? と。
ラベンダーは、本当は答えを知っていたような気がする。
ローワンは王になりたかったのだ。彼がどれほど苦労して王の資格を得たのか、ラベンダーは子どもの頃からよく知っていた。
誰より王になりたがっていた。
ローワンの事を思い出すと胸が痛い。だが、痛みと同時に、子どもの頃から思い続けていた気持ちが溢れてきた。
ローワンと離れて時が過ぎるごとに、彼への気持ちが募った。
娘を生んでからラベンダーの気持ちは大きく変化していた。大きな心でローワンと話をすればよかった。
リリーオブとの関係をローワンに確かめた事は一度もなく、一方的に決め付けていた。自分の苦しみを伝えたこともなかった。
ローワンは翼を捨てたわたしをどう思っているだろう。時折、自分の背中にあった女王の羽を思い出す。誰よりも気高い気持ちになれた命と同じくらい大切な羽。
――アニス。
アニスは元気だろうか。
ラベンダーは、ラリーサの小さな頬を撫でながら小さく息をついた。
この北の領地には人間の形をした生き物はいない。
前のウインタークイーンがこの地を離れた時に、皆この地を離れてしまったようだ。しかし、強い意思を持った金色に光る精霊たちは、じっとこの地に残って北の領地を守り続けていた。
彼らは、ウインタークイーンが暮らしていた白い塔を守り、ラベンダーを歓迎してくれた。ラベンダーはすぐさま北の領地を守るべく結界を張ったが、アレイスターと娘をある程度育ててから、扉を閉じる準備に取り掛かるつもりでいた。
焦ってはいなかったが、今も冥界から黒いモノたちが入りこんでいるのかと思うと、安心できる日はなかった。
北の領地へ来てからまだ一年を過ぎたくらいだが、アレイスターはかなり成長したように思う。ハイハイもすぐに終わり、言葉を巧みに操るようになった。
まだ体は小さいため、いつも魔法を使ってふわふわと浮いている。どうやら誰にも教わらなくても魔法の使い方が分かっているようだった。歯が生えるのも通常より早く食べたいものをなんでも食べるし、何事にも興味津々でやんちゃだ。
「ラベンダー、僕の事をジューリアスって呼ぶのやめてよ」
「なぜ?」
「なぜって、僕は大魔法使いなんだから、もっとふさわしい名前にしてもらいたい」
「ジュリアンってすごく素敵な名前よ」
何度、この話をくり返したか分からない。
アレイスターはため息をつくと、ラリーサの方へ手を差し出した。ラリーサがぎゅっとアレイスターの指を握りしめる。
「ラーラ、君からも何か言ってよ」
ラリーサは無邪気に笑うだけで、アレイスターの指をくわえようとする。
「あら、お腹が空いているのね」
ラリーサを抱き上げると、ミルクをあげようとソファの方へ移動した。
「僕もお腹が空いたから厨房へ行ってくる」
「ダメ。わたしから離れてはいけないわ」
「大丈夫だよ。甘いものをもらうだけだから」
アレイスターはそう言うと、自分よりもずっと高い位置にあるドアノブを魔法で開けると部屋を出て行った。
「待ちなさい、ジュリアンっ」
ラベンダーの叱る声と共に、ラリーサのぐずる声が聞こえたが、ドアが閉まってしまうと静かになった。
アレイスターは、ふわふわと浮かんで厨房へ入ると、透明な者たちが一生懸命料理を作っている近くへ寄った。
光の精霊たちは半透明で人間のような輪郭を作り、城のあちこちで作業をしている。
男の姿をした光の精霊が言った。彼は厨房を取り仕切っている料理長だ。
――ジュリアン様、どうされました。
「お腹が空いたんだ」
アレイスターが言うと、光の精霊がミルクを持ってきた。彼は頬を膨らませた。
「カスタードタルトが欲しい」
そう言うと、光の精霊が顔をこちらに向けたが、顔がかたまっている。
――今、何とおっしゃいました?
「カスタードタルトだよ」
――作り方が分からないのですが。
「もうっ。しょうがないなっ。だったら他のものでいい」
ジュリアンはふわふわと浮かびながら、厨房の中にある物を物色したが、何もないことにがっかりして、小さく呟いた。
「……書斎で料理本でも探してくる」
――わたくしも参ります。
光の精霊とジュリアンは厨房を出ると、書斎へと向かった。書斎のドアを魔法で開けて中へ入ると、びっしりと天井まで本がある。
アレイスターはぐるりと見渡すと、そう言えば、生前の自分は魔法の本しか読まなかった事を思い出した。
――この中にあるのでしょうか。ジュリアン様。
「もちろんだよ。僕が魔法で探すから、君はそこに座っていなよ」
アレイスターは小さな手をさっと広げて呪文を唱えた。
「カスタードタルトの作り方が乗っている本、ここに来いっ」
しかし、部屋の中はシーンと静まりかえって埃さえ舞っていない。アレイスターはもう一度、唱えたが同じだった。
――ジュリアン様。
「……分かってる」
アレイスターはやけになって本棚を覗き込んで一冊ずつ探す事にした。
「きっと分類がしてあるはずだから。君はこちら側から探してくれ。僕は逆から探すよ」
二人は手分けして懸命に本を探し始めた。本はきちんと分類されてあった。もしも、書斎に料理本があるとしたら、どこに置くだろう。読むのは料理長か城の主である奥方か。以前の北の女王に料理の趣味があればの話だが――。
アレイスターはじっと目を凝らして探し続けた。光の精霊も懸命に探している。
カスタードタルトのために、二人は一生懸命だった。
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