第38話 妖精の国にて



 客室へと向かったリリーオブは部屋に入ると、部屋中に漂う甘い花の匂いに気づいた。


「あなたが女王様ね」


 顔を向けると、窓際に黒いドレスを着た女性が立っていた。リリーオブを見るなり、優雅にお辞儀をした。


「突然の訪問をお許しくださいませ、女王様」

「いいのよ」


 リリーオブは肩をすくめると、ソファに座った。

 女はかなりの美女だった。完璧なスタイルに赤い唇、茶色い目に黒髪だ。長い黒髪に乱れはなく、耳の横の髪を結い上げて、残りの髪の毛は背中へ垂らしていた。


 女からはバラの香りがしており、長いまつげを瞬かせてリリーオブを見つめていた。以前のリリーオブであれば、自慢の胸と甘い唇で生き生きしていたが、出産に失敗してからは暗く打ちひしがれていた。

 暗い目で女を睨むと、女は赤い唇の端を上げてにやりと笑った。


「初めまして、わたしはメランポードと申します」

「よろしくメランポード。それよりも何かご用事かしら? この通り、妖精の国には何も残っていないのよ」


 メランポードはちらりとリリーオブのお腹を見た。


「聞きましたわ、女王様。お悔やみ申し上げます」


 メランポードの視線にリリーオブは急にいらだちが込み上げてきた。


「要件をさっさとお言いっ」


 怒鳴ると、メランポードは片方の眉を吊り上げたが、顔は相変わらずニヤニヤしていた。


「わたしはあなたを救いに参ったのですわ」

「なんですって?」


 リリーオブは女の言い方にカッとなって立ち上がった。

 何と厚かましい女だろう。若く美しい上に、優位に立って何を求めようとしているのか。


 リリーオブは女につかみかかろうとすると、突如、メランポードが手を振り払い、リリーオブの体は壁に吹き飛ばされた。強い力ではなかったが、衝撃のあまり声を出せなかった。

 リリーオブはおびえた目で、メランポードを見つめた。


「魔女?」

「ええ。わたしは黒い魔女。冥界の扉を開けたのは、わたしよ」


 リリーオブは全身に鳥肌が立つのを感じた。緊張で息苦しくなる。


「わ、わたしを殺しに来たのね?」


 足が震えて立つことができない。黒い魔女はリリーオブに近づくと、彼女の顎に指を添えた。


「いいえ、違うわ。さっきも言ったけど、あなたを救いに来たの」

「どういうこと?」


 リリーオブは小さくなってメランポードを見上げた。メランポードは優しい声を出した。


「ラベンダーに子どもが生まれたの」

「え……? もう一度、言って……」


 ラベンダーに子ども? そんなはずはない。


「誰に誰の子どもが?」


 頭がぐらぐらした。

 メランポードは、リリーオブの頭をあやすように撫でた。


「もちろん、ローワンとの間に生まれた子どもよ。ただ、ローワンは知らないけど、それはもうかわいい女の子を産んだのよ、あの女は」


 メランポードの言葉を信じれば、リリーオブは頭がどうにかなってしまいそうだった。リリーオブは喉を抑え、もがくようにして頼んだ。


「水、水をちょうだい」

「いいわ」


 メランポードが水差しの水を汲んで渡した。リリーオブはそれを奪うと一気に飲んだ。飲みほしてから魔女を睨みつけた。


「わたしを苦しめに来たのね」

「違うわ」


 メランポードは呆れた口調になると、リリーオブの肩を小突いた。リリーオブは床に両手をついた。


「さらうのよ」

「え?」

「ラベンダーの生んだ宝物を奪うの。それを言いに来たのよ」


 リリーオブは、思わず笑いそうになった。

 ラベンダーの赤ん坊をさらう?

 しかし、彼女は笑えなかった。


「名前は何と言うの?」

「ラベンダーの子どもの名前? ラリーサよ」


 ラリーサ。

 ラベンダーの子どもの名前。ローワンの子ども。

 自分がどうしても授かりたいと願った赤ん坊。


 リリーオブは血が滲みでるほど唇を強く噛んでメランポードを睨みつけた。

 涙があふれだす。リリーオブは狂おしい気持ちで胸をかきむしった。


「やはり、あなたはわたしを苦しめに来たのね。わたしにラベンダーの子どもを奪わせて、何をさせたいと言うの?」


 メランポードはにやりとした。


「赤ん坊はまだ母親が分かっていないわ。あなたが母親になればいいのよ。ローワンとの間に生まれた赤ん坊で、しかも女の子なら、確実に女王の資格を持っているわ」


 女王の資格。わたしの赤ちゃん……。

 リリーオブは遠くの空を眺めた。黒い雲が妖精の国の半分以上を覆っている。

 メランポードは、リリーオブに近づくと耳元で囁いた。


「あなたにこの国を治めて欲しいの。ティートゥリー王からの願いよ」

「誰なの? ティートゥリー王とは?」


 リリーオブの問いに、メランポードは目を細めた。


「これから世界を統治する我々の王の名前よ」


 その瞬間、リリーオブの部屋に冷気が入り込み、部屋の中が氷のように冷たくなった。


「ひっ」


 リリーオブが小さく悲鳴を上げた。何かが首筋をつかんでいた。


「助けっ……」


 リリーオブが大声を上げようとすると、頭に声が響いた。


 ――静かにするのだ。妖精の女王。


 リリーオブは声を聞いた瞬間、戦慄が走った。見えない相手の長い爪が首筋をかき切ったのか、生温かい血が胸の方へ滴るのが分かった。


「こ、殺さないで……」

 ――殺さないさ、美しい女王よ。


 声を聞いてはならない。

 それでも、声は頭に響いてくる。


 ――妖精の女王よ。力が欲しくないか?


 囁き声が大きくなって頭の中を支配している。リリーオブは、かろうじて意識を失わずに聞いていた。


 ――これを食べれば、お前は思いのままに動けるようになる。ラベンダーよりも強力なパワーを得ることができるぞ。


 目の前に差し出されたのは、赤黒い物体だった。リリーオブは見た瞬間、胃の中の物を吐きそうになった。心臓が早鐘を打ち始め、警鐘を鳴らしている。


「こ、これは何?」

 ――何って心臓だよ。


 声が笑っている。

 リリーオブはほとんど白目を剥いており、息が止まりそうなほどの恐怖に駆られていた。


 ――おっと、死なれては困るのだがな。


 メランポードが素早く動き、半分失神しているリリーオブの口をこじ開けて、まだぴくぴくと動いている心臓を口に押し込んだ。

 テーブルに置いてあったワインのコルクを抜くと、さらにリリーオブの口に流し込んだ。リリーオブの手足がぴくぴくと痙攣している。

 メランポードは、リリーオブのお腹を殴って全てを飲みこませた。どさっとリリーオブが床に倒れる。


 ――死んではおらんだろうな。


 いらだった声がメランポードを取り囲んだ。メランポードは頷いた。


「生きております。すぐにこの女は覚醒を始めます。目覚めた時、素晴らしい世界を目の当たりにするでしょう」


 メランポードの言葉を聞いて、ティートゥリー王は気配を消した。

 メランポードはごくりと喉を鳴らすと、額に滲んだ汗を手袋でぬぐった。その時、頬をぬるりとした感触にぎょっと目を見張る。いつの間にかお腹に痛みを感じた。おそるおそる下を向くと、お腹から血が出ている。

 ティートゥリー王の苛々した感情だけで、皮膚が裂けていた。手を当ててケガを治そうとしたが、できなかった。

 メランポードは口を噛むと、力が足りない、と呟いて消えた。



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