第36話 一陣の風
アニスは涙が止まらなかった。
ローワンが憎かった。
ラベンダーは親切で心の澄んだ美しい人だった。リリーオブという女性に苦しんでいたのに、夫であるローワンは気付きもしなかった。
彼女は孤独を選んだのだ。一人で生きる道を選び、自分を犠牲にした。
アニスは、自分がウインタークイーンになるべきではなかったのだろうかと思った。
「お師匠さま、なぜ、ラベンダーがウインタークイーンになったのですか? 本当はわたしがなるはずじゃなかったの?」
「本来はサマークイーンの母を持つラベンダーが収まるべきだったのかもしれない。けれど、彼女は力を欲したのだろう」
「え?」
「北の女王の力は、南の女王の力をはるかに凌ぐ。彼女は守りたいという願う力が強かったのではないだろうか」
わたしも守られているのね。
アニスは呟いた。
「だったら、わたしが彼女を守る存在になるわ。ラベンダーを決して一人になどしない。南の国の守りを固めたらすぐに北へ向かいます」
「その通りだアニス。ジョーンズ」
フェンネルが、ジョーンズの方を見た。
「はい」
ジョーンズは大きく息を吐き出し緊張した顔で返事をした。
「わたしにとって、アニスは唯一の跡継ぎだったが、予定が狂ってしまった。君はセント・ジョーンズ・ワートの末裔と言うだけで、跡継ぎにふさわしいかどうか疑わしいが、今はそんな悠長なことを言ってはいられない。君に魔法を教える」
「僕が魔法使いになれるのでしょうか?」
ジョーンズは不安そうな顔で言った。
「なれるのかではなく、なるのだ」
フェンネルはきっぱりと言った。
「お師匠さま」
「アニスは南へ向かいなさい。するべきことが待っている」
「ええ」
アニスは、ジョーンズと離れたくない、と言いたかった。しかし、ラベンダーはたった一人で北の世界を守ると向かったのだ。自分だけがわがままなど言えない。
「アニス」
ジョーンズがぎゅっと手を握りしめる。
「一秒も君を忘れないと誓うよ」
「魔法を習う時だけは考えないようにしてくれ」
フェンネルがぼそりと茶化す。
「少しだけ二人にしてください」
フェンネルは肩をすくめると、すっと消えてしまった。
二人きりになったかと思うと、ジョーンズの後ろでエヴァンジェリンが控えていた。アニスが顔を向けると、エヴァンジェリンは真っ赤になった。
「あの、わたくしもどこかへ消えた方がいいのでしょうか」
「エヴァンジェリンだったわよね」
アニスが言うと、使い魔の顔がぱあっと明るくなった。
「はい!」
弾むような口調に、ジョーンズは眉をひそめた。
「呼びにくいわ、エヴィでいいかしら」
「そうお呼びください。奥様」
「奥様じゃないんだけど」
アニスが苦笑した。
なんとなく憎めないジョーンズの使い魔を見ていると、ミモザの事を思い出した。ミモザと旅に出てから長い時が過ぎたような気がする。わたしの使い魔は未来を予知できたのだろうか。
そんなはずはない。
アニスは軽く首を振って、過去を悔んでも仕方がないと思った。これからは前を向いて行かなくてはいけない。
「アニス……」
「うん」
ジョーンズがそっと手を握りしめる。
「アニス、全てが終わったら僕と結婚して欲しい」
「はい」
頷いた時、エヴァンジェリンがぱちぱちと拍手をする。
アニスとジョーンズが苦笑して、お互いの顔を見て笑いあっていると、強い一陣の風が吹き、アニスがあっと思った時、目の前にローワンが立っていた。
ローワンは、アニスの手の中にある羽を見て大きく目を見開いた。
「ラベンダーをどこにやりやがったっ」
怒鳴り声が辺り一帯を包んだ。アニスは羽を守るように抱きしめてからローワンを睨んだ。
「今さら何をしに来たのっ」
「そいつはラベンダーのものだろうっ」
ローワンが近寄ってくる。ジョーンズがアニスの前に立ちはだかった。
「妖精の王、落ち着いて話を聞いてくれ」
「そこをどけっ」
ローワンは怒り心頭で聞く耳を持たない。アニスは、ローワンに向かって手をかざした。
「止まらないと、後悔するわよ」
「なんだとっ?」
ローワンは、アニスの様子が以前と違うことに気づいて真顔になった。
「お前は、まさか、サマークイーン……?」
「ええ。その通り。あなたのラベンダーはもういないわ」
「アニス、やめるんだ」
ジョーンズが、アニスを止めようとした。
「いいえ。やめないわ。誰かが言わなきゃ、彼は気付かない。ローワン、傷ついたラベンダーは、アレイスターを育てるために、妖精の女王の座を捨ててウインタークイーンへと復活したの。北の領地を守るために一人で向かったわ。あなたには、次期女王となるリリーオブと結婚するように言っていたわ」
「なんだって……?」
茫然と呟いて、ローワンは頭を押さえた。
「俺がリリーオブと結婚? あの女と?」
「今頃言っても遅いのよっ。けれど、わたしがそんな事許さない。あなたから妖精の王となる資格を
「えっ?」
ジョーンズがぎょっと目を見開いた時、アニスは呪文を唱えた。
「妖精の王、ローワンよ、あなたが最も憎んでいる、なりたくない動物に変化せよっ」
アニスが両手いっぱいに魔法を放出する。ローワン目がけて魔法がかかり、彼は息ができないほどの力に圧倒されて吹き飛んだ。吹き飛ばされたローワンが苦しそうに悶え始めた。やがて、彼の体は変化していった。
ジョーンズは呆然として見つめている。変化を終えたローワンが起き上がった時、彼の体は毛むくじゃらの獣になっていた。ぼさぼさの毛並みの痩せた薄汚い黒い狼だった。言葉も話せず、ローワンはその場で硬直している。
「なんてことを……」
ジョーンズが呟いた。アニスの目から涙があふれ出した。
みじめで悲しくて、何がどうして自分をここまで追い詰めたのか、アニスは苦しさに息ができなかった。だが、どうしても憎しみから逃れられなかった。
「アニス、今すぐに魔法を解くんだっ」
「いいえっ」
「アニスっ」
「できないわ。彼だけが幸せになるなんて、わたしが許さない。わたしが間違った事をしていたとしても、許せないのっ」
アニスが悲痛に叫んだ。
「アニス、せめて、彼に言葉を、言葉を与えてくれ」
ジョーンズが説得をする。アニスは羽を抱きしめてから、唇を噛んだ。
「では……アザミの妖精、シャルよ。ここへ参りなさい」
アニスが魔法陣を描いてシャルを呼び寄せると、シャルが魔法陣の中にすっと現れた。彼女はきょとんとして辺りを見渡している。
「ここはどこ? アニス……その姿は一体……?」
混乱しているシャルの言葉を無視して、アニスは呪文を唱えた。
「シャルの糸を織って作ったシャツを身につければ、一時的に魔法が解けて彼は人間の姿に戻る事ができます。しかし、シャツ一枚につき、一度だけしか魔法は解けません。そしてローワン、全て、自分で行うのです」
「彼は狼だぞっ」
ジョーンズが冗談じゃない、と大声を出す。
「知ったことじゃないわっ」
アニスは言い返した。ローワンは小さく震えるようにうずくまった。
「この狼は?」
シャルが困惑している。
「わたしは南へ行きます。魔法は彼が反省したらいつか解けるでしょう」
「アニスっ」
アニスは、ラベンダーの羽をぎゅっと抱きしめ、ふわりと飛び上がると、一瞬で姿が見えなくなった。ジョーンズはこの別れ方はあんまりだ、と心の中で叫んだ。
「お見事です、奥様」
エヴァンジェリンが場違いな拍手をして、ジョーンズが睨みつけた。
「黙ってろ、エヴァンジェリン」
叱ると、エヴァンジェリンは再び無表情で押し黙った。
「冗談じゃないぞ、アニス」
「ジョーンズ様、一体何があったのですか?」
シャルがおろおろと訊ねた。
「君は厄介な事に巻き込まれたんだよ、シャル」
ジョーンズが説明をすると、シャルは顔を蒼白にさせてローワンを見つめた。
「なんて事を……。王様……」
シャルは打ちひしがれている狼のそばにしゃがみ込んだ。
「ローワン様、わたくしが助けて差し上げます」
シャルはアザミの糸をたくさん出して、アザミの刺を全て折ると、さらさらとシャツを編んだ。
「アザミの糸には魔力を解除する力があるのです。きっと、魔法は解けて元の姿に戻れると思います」
「だがアニスは自分で編まなくてはいけないと言っていたが」
「アニスが勝手に言っただけよ」
シャルが編んだシャツをローワンの体にかけた。しばらく見守っていると、
「ぎゃうっ」
と、ローワンがうめき声を上げて、シャツから血が滲みでてきた。
「あっ」
シャルが慌ててシャツをどけると、シャツは折ったはずの棘でびっしりと覆われていた。
「何事だ?」
背後からフェンネルの呆れた声がして、一同は振り向いた。
「もうそろそろかと思い、様子を見に来たが……」
フェンネルが血を流した狼を見て顔をしかめる。
「フェンネル、大変な事になった」
ジョーンズが説明をすると、フェンネルは大きく息を吐き出した。
「弱い者ほど力を得ると過信してしまう。アニスはまだまだ未熟者だ」
フェンネルは、ローワンに手をかかげて、魔法を解除しようとした。しかし、アニスの魔法は強力な上にややこしく未熟であるため、解くことができなかった。首を振って息を吐いた。
「全く……、ややこしいことをしてくれる」
「フェンネル様、先に血を止めてあげてください。これではローワン様がお気の毒です」
「そうだな」
フェンネルが魔法をかけようとすると、狼は急に立ち上がると、森の奥へとかけて行った。
「シャル、追いかけなさい。見失ってはいけない」
フェンネルの声にシャルは素早く後を追った。その姿を見て、フェンネルは大きく息をついた。
「妖精の王はシャルに任せよう。ジョーンズ、君には君の役割がある。さあ、我々も行動を開始するのだ」
フェンネルがくるりと振り返り、歩き始める。ジョーンズは唇を噛みしめて立ち止った。
「ご主人さま?」
エヴァンジェリンが首を傾げた。ジョーンズは空を見上げた。
薄暗い空が一面を覆っている。今にも雨が降り出しそうだったが、さらに遠くの空は真っ暗だった。
――アニス。
彼女はまた一人で苦しんでいる。そばにいて慰めてあげたいのに何もできない。
自分の手のひらを見つめた。
この手で何かできることはあるだろうか。力があるのなら何だってする。
手をぐっと握り締め顔を上げると、ジョーンズは歩き始めた。
使い魔が静かに後を追った。
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