第35話 繭の中



 アニスは白いドレスを着ていた。膝の間に顔を挟んで肩を震わせている。

 アレイスターを連れてアニスに近寄り、薄い肩に手を置くと彼女が顔を上げた。唇は青紫になり、ひどく弱っている。目の色もかすんでいて、見えているのだろうかと不安になった。


「アニス?」

「ラベンダー……? ラベンダーなの?」


 アニスは顔を上げたが、力が入らずそのまま俯いてしまった。ラベンダーは隣に座り彼女の肩にそっと触れた。


「ここで何をしているの?」

「怖くて……」


 アニスの体は冷えていた。

 早くしないと、彼女の体力がもたないかもしれない。


「アニス」


 ラベンダーは剣を取り出しアニスに見せた。


「これは?」


 アニスがおびえた顔で剣を見つめる。


「これは私たちの人生を左右する剣よ。あなたから先に選んで」

「どういうこと?」


 アニスの顔はこわばり、ラベンダーから離れた。


「アレイスター城主が誕生してしまったために、彼を育てなくちゃいけないの。そのために、今は不在であるサマークイーンとウインタークイーンを復活させる時が来たのよ」

「よく分からないわ」


 アニスは混乱した顔をしていたが、ラベンダーのそばでふわふわ浮いている赤ん坊を覗き込んだ。


「抱いてもいい?」

「もちろんよ」


 アニスが立ち上がり、アレイスターを抱きあげる。アレイスターは穏やかな顔で眠っている。


「可愛いわ」


 アニスの顔に輝きが戻る。


「この子のために何ができるの? 喜んで手伝うわ」


 アニスはそう言った後、思い出したように口を押さえた。


「けど、先に大問題があるわね。忘れちゃいけないけど、わたしは復活したらすぐに扉を閉めに行くつもりよ」

「ええ、もちろん知っているわ」


 ラベンダーは慎重に答えた。


「けれど、アレイスターをこのままにすれば、彼は以前と同じ黒い魔術師になる可能性がある。冥界の扉も大事だけど、アレイスターに同じ道をたどらせるわけにはいかないの」

「分かったわ……」


 アニスは決心したようだった。そっとアレイスターを寝かせると、まっすぐにラベンダーを見上げた。


「どうすればいいの?」

「ただ、握るだけでいいの。剣が選ぶから。でも、自分を信じて」


 ラベンダーが剣をアニスの前にかざした。剣は鈍い光りを放っている。アニスはごくりと喉を鳴らした。


「ねえ」


 アニスはふとラベンダーを見た。


「どうしてわたしなの?」

「え?」

「わたしはただの白い魔女見習いよ」


 ラベンダーはふふふと笑った。


「あなた、本当にただの白い魔女見習いだと思っていたの?」


 アニスは、ラベンダーの言葉が理解できなかった。


「ええ、わたしはちっぽけな見習い魔女よ」

「あなたはフェンネルの後継者になるはずだった白い魔女よ。彼は次の大魔法使いにあなたを選んだの」

「本当に? だってわたしは……、ただの……」

「アニス、時間がないわ。あなたは選ばれた魔法使いで、クイーンになれる資格がある。わたしも資格を持っているのよ。わたしたちにできる事があるのなら、一緒に協力し合いましょう」


 アニスは、ラベンダーに触れたかった。彼女の強さに美しさに。手を伸ばせば彼女はいるのに、アニスはためらった。


「ねえ、ラベンダー……」

「アニス、急ぐの」


 ラベンダーが遮った。

 アニスは聞きたいことがあった。

 生まれ変わるってどうなるの? 記憶は? 今の生活は?

 けれど、ラベンダーは焦っている。胸がざわざわして苦しかった。ラベンダーは何か重大な事を隠している。


「剣を取って」


 否応なく剣が目の前に現れた。

 アニスは柄に手を伸ばした。同時にラベンダーが手を伸ばした。二人同時に柄に触れた。アニスは、ラベンダーの青ざめた顔をじっと見ていた。


「ねえ、この剣はなんなの? 何を選ぶのっ?」


 叫んだが、聞こえなかったようだ。

 徐々に柄が熱くなってくる。封印された力が手のひらに吸いつくように解放されていく。手のひらに力が集まっているのを感じた。アニスが強く握りしめると、柄が光り輝いた。


「怖いわっ」


 アニスが叫んだが、まばゆい光に遮られてラベンダーを見失いそうだった。

 全身が変化していく。生まれ変わるのだ。


 アニスは指先から足の先までみなぎる力を感じていた。髪の毛の先にまで溢れだしそうなパワーだ。

 光が収まると、アニスは大きく息を吐きだした。

 胸を押さえて落ち着こうと目を閉じる。再び目を開けると、自分は繭の外へと飛び出していた。緑に囲まれた場所に両足で立っている。


 目の前にジョーンズが目を丸くして見ていた。アニスが駆け寄ると、彼はひしっと抱きとめてくれた。


「アニスっ」


 ジョーンズの声が聞こえてくる。アニスは無我夢中で彼の頬に手を当てた。


「生きてるっ」

「ああっ」


 ジョーンズも涙ぐんでいた。唇を塞がれ、息ができない。ようやく体を離した時、酸欠になるかと思われた。温かい体に健康な肌色の体。アニスはようやく自分の手と体を眺めた。白金の髪が濃い金色に輝いている。吐き出す息には息吹が含まれている。


「アニスはサマークイーンだ」


 ため息をついたフェンネルの声がした。

 声のした方へアニスが振り向くと、フェンネルの隣に立つ白い影に茫然とした。


「ラベンダー……」


 地上まで届く銀髪。

 紫の瞳、唇は薄桃色で、鼻筋の通った美しい人が、そっとたたずんでいた。


 羽が――。


 無色透明のあの立派な羽が、ラベンダーの背中から離れて地面に横たわっていた。

 ラベンダーは茫然として羽を眺めていたが、手に握られていた剣がラベンダーに吸い込まれ、すうっと消えてしまった。

 ラベンダーはおそるおそるしゃがむと、自分の羽を持ち上げて胸に押し当てた。

 白い顔がいっそう白くなる。

 とたん、冷たい涙がぽろぽろと溢れだし、地上へ吸い込まれてしまった。


「どうして……?」


 アニスは、ラベンダーに近寄った。


「ラベンダーが、なぜ、ウインタークイーンなの?」


 ラベンダーが顔を上げた。無表情の顔に一瞬、笑みが浮かんだ。


「アニス」


 手を伸ばしたラベンダーに、アニスはすがりついた。凍るような冷たい手だった。


「わたしが望んだの」


 ラベンダーが呟いた。彼女は羽を撫でて俯いていたが、やがてまっすぐ顔を上げた。


「わたしは北へ行きます」


 ラベンダーは涙をぬぐいフェンネルに言った。ふわふわと浮いていたアレイスターが、ラベンダーの腕に向かって漂っていく。ラベンダーは愛しそうにアレイスターを見つめた。


「わたしが彼を育てます」

「なぜ……」


 フェンネルが何か言おうとするのを、彼女は手で制した。


「安心してください。わたしは決して彼を誤った道へ行かせはしない」


 決然と答えるラベンダーの姿は以前とは全く異なっていた。すらりとした水色のシンプルなドレスに身を包み、頭上には水晶をちりばめた小さいティアラが乗っている。羽はぴくりともしなかった。


「アニス、この羽をあなたに」


 差し出された羽は柔らかくラベンダーの匂いがした。震える手で受け取った時、言いようのない気持ちに駆られた。


「大事にするわ」


 アニスの目から涙があふれた。


「これはラベンダーだもの」

「泣かないで、アニス」


 変わらないラベンダーの温かみのある優しい声が包み込んでくれた。ラベンダーは、アニスの薔薇色の頬を優しく撫でた。


「アニス」


 ラベンダーから強い力が溢れていた。


「南の守りを固めてから扉を閉じましょう。でも、その前にわたしを尋ねてきて、アレイスターを無事に育てあげたら、わたしもあなたと共に扉を閉じます」

「ああ、ラベンダー」


 アニスは今すぐにでも変わりたかった。けれど、彼女はずっとこれを望んでいたのだ。


「ラベンダー、ローワンは?」

「リリーオブが次の女王となります。彼はリリーオブと結婚をしなくてはならない」

「わたしが聞いているのはそうじゃないのよ」


 ラベンダーは、一瞬、動揺した。息を呑んでから静かに答えた。


「……ローワンは、わたしを愛していないの。結婚した理由はわたしが女王だったからだって言われたわ。だから、次期女王となるリリーオブであれば文句はないはずよ」


 アニスは叫びたかった。

 ローワンの気持ちではなく、ラベンダーの心が心配だった。


「アニス、あなたのこと、とても大事に思っているわ」


 ラベンダーがそう言って、くるりと背を向けた。


「待ってっ」


 アニスが手を伸ばすと、ラベンダーは背を向けたまま、目の前に息を吹きかけた。瞬間、白い雪に覆われた世界が現れた。


「わたしが守るべき場所へ」


 ラベンダーは呟くと、優雅に歩き始めた。アレイスターがその後をふわふわと漂っていく。


「ラベンダーっ」


 アニスは叫んだが、ラベンダーは一度も振り返らなかった。

 雪の世界へと足を踏み出し、白い世界が閉じられた。


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