第十三話(2)
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
城内の庭園の一角で、私は制服のスカートのすそをつまんで会釈した。次の週末にと、アレクシス様から個人的なお茶会に誘われたのだ。あくまで学友として招かれたのだから着飾るのもどうかと思い、休日ではあるが、私は学院の制服に身を包んで城門をくぐった。
「あたたかくなったね。晴れてよかった」
アレクシス様はめずらしくシャツ一枚のラフな格好だった。つまり今日はとことんプライベートなのだ。
春のバラが咲き乱れる庭園にテーブルと椅子が
アレクシス様の白銀の髪が春の陽光を受けてきらきら輝いている。そういえばアレクシス様とはじめて会ったときも、お城の中庭で、こんなふうに光があふれていた。
私に見つめられて、アレクシス様が髪に手をやった。
「なにかおかしいかな?」
「いいえ……はじめてお会いしたときみたいだと思って」
思ったまま答えると、アレクシス様はまぶしそうに目をすがめて微笑んだ。
「そうだね。あの日もよく晴れていた」
「ええ。それで、殿下の髪がきらきら光ってまぶしくて……」
「『殿下』はなしだ」
「ごめんなさい、つい」
すこし前の過去ではミュフラート邸での夜会に足を運んでいただいたり一緒に花まつりに出かけたりしたが、そもそも学院の外で個人的にアレクシス様と会う機会というのはほとんどない。学院では創立理念にもとづいて学友であるうちは名前でよび合うよう指導されているのだが、状況につられて敬称を用いてしまうと、すかさず注意されてしまった。
アレクシス様はよびまちがいを咎めたわけではなく、冗談めかすように白い歯を見せて笑った。ラフな装いのせいか今日のアレクシス様はいつもより大人びて見えた。
「座って。溶ける前に食べよう」
「ありがとうございます」
そう言ってアレクシス様自ら椅子を引いてくださったので、感謝を述べて腰を下ろす。
白いクロスを敷いたテーブルのまんなかにケーキスタンドが置かれて、焼き菓子とフルーツで飾られていた。そして手もとには銀色のクローシュをかぶった一皿がある。
アレクシス様が私の手もとにあるクローシュを持ち上げると、ふわりと冷気が流れ出た。
「これは……」
「なんだと思う?」
ガラスの器の中央に丸く成形されたクリームのようなものがあって、そのまわりに数種類のベリーが散りばめられている。そっと器に触れるとひんやりと冷たかった。
「もしかして、シャーベット?」
「カティアに手伝ってもらったんだ」
「僭越ながら、わたくしが冷やさせていただきました」
振り返ると、カティア様が冗談まじりにそう言った。カティア様は氷属性を得意とされていらっしゃるから、たしかにシャーベットづくりにも一役買えそうだ。
溶けないうちにとうながされて、私は器に添えられたよく冷えたスプーンを手に取った。氷だからもっと固いかと思ったのに、スプーンが簡単に入った。おそるおそる口に運ぶと、きめの細かい氷が口のなかですっととろける。ミルクとミントかしら。さわやかな味わいだった。
「冷たいです」
「そうだね」
率直な感想を口にすると、アレクシス様がくすくす笑った。
「それにとてもおいしいわ」
「仮病を使いたくなる気持ちがわかるだろう?」
「ええ」
私たちが笑い合っているあいだにカティア様がカップに紅茶を注いでくれる。ふわりと上品なベルガモットの香りがただよった。アールグレイだわ。
「それで、アレクシス様。今日は……」
ただお茶がしたくて私を呼び出したわけではないだろう。思い切ってたずねると、アレクシス様は、うん、とうなずいて持ち上げかけたティーカップをソーサーにもどした。
「生まれてはじめて、胸倉をつかまれたんだ」
「……はい?」
突拍子もない話題に、思わず聞き返してしまう。胸倉をつかまれた? アレクシス様が? 誰に?
王太子に対する暴力として不敬を問われかねない行為だ。
「クライルから君との婚約を解消するのだと聞かされてね。いったいどうしてそうなったのかと理由を
ヘーゼルグリーンの瞳が私を見つめて、私も彼の瞳を見つめ返した。アレクシス様は温厚ではあっても愚鈍ではない。最近の私のまなざしの意味、私が示す態度に気づいているはずだ。
「それでつかまれたんだ」
「胸倉を?」
「胸倉を。その瞬間、ああ、私は絶対に彼には勝てないと悟った」
言葉が出なかった。まさかクライルがアレクシス様に乱暴をはたらくとは思えない。しかし真実だとしたらいったいどんな懲罰を受けるだろう。
私の顔色が変わったことに気づいて、アレクシス様は首を軽く横に振りながら微笑んだ。
「譲るのではない、と言われたよ。ただ、君の幸福を願ったときに、自分にはちがう役割があるからなのだと」
アレクシス様は
不敬罪でクライルを罰するという話ではなさそうなので、ひとまずほっと胸をなでおろした。
「彼は私が君をあきらめきれていないことを、ずいぶん昔から知っていたんだ。リリーと出会って、君と一緒にすごす時間が増えて……正直、うれしかったよ。しかし、私はただ、すべて思い出にするつもりだったんだ」
私はアレクシス様の瞳を見つめながら、だまって彼の告白を聞いていた。好意に気づかない鈍感な女をわざわざ演出する必要はないし、無理に驚いては見せなかった。
「……思い出に、するつもりだったんだ」
アレクシス様は困り顔でそうくり返した。
彼が非常に理性的な人物であることは、誰もが承知している。そして暴君とは対極にあるような慈愛の人だということも。
自分にそんな経験がないから想像ではあるが、恋心を自覚してからずっと、彼はひとりの女性を思い続けていた。そして永遠に実らないと思っていたその恋が指先で触れられるほどの距離まで近づいたとなれば、手を伸ばしたくもなるだろう。
そもそもそうなるよう仕向けたのは私自身だ。アレクシス様然り、クライル然り、他人の感情をもてあそんだと罵られても言い逃れできない。けれどそうすると決めたのはほかならぬ自分だし、いまさらうしろめたさに浸っている余裕もなかった。
「きっと、気づいているだろう?」
「……はい」
私がうなずくと、アレクシス様は伏し目がちになって苦笑した。彼は決して気づかせようとしたわけではないし、時間をくり返していなければ私も自覚しなかったはずだ。
「シュゼットを責められないんだ。この中庭で出会ったときから君を思い続けてきた」
アレクシス様が席を立ち、そっと私の手をとる。クライルの武張った手とはちがって、白く細い指先だった。
「エリーゼ。君がうなずいてくれるなら、ぼくは君と、一生涯を歩みたい。ほかの誰でもなく、君がいいんだ」
アレクシス様はいつもの微笑みを消して、真剣なまなざしを私に向けた。
私とアレクシス様は、もしかしたら似ているのかもしれない。どこか物分かりがよくて、どうしてもこれがほしいと駄々をこねることができない。そしてとりすまして、ひとりでひっそりと後悔するのだ。
きっとクライルはそんな私たちを理解している。私たちの強がりは彼の前では意味を成さない。単純なないものねだりかもしれないが、私もアレクシス様もクライルのまっすぐな気性にあこがれていて、しばしば彼の言動によって卑屈になりがちな自分に気づかされる。
「あなたが必要としてくださるのなら、よろこんで」
私は偽りなく、本心からそう答えた。これですべてがうまく行くのなら、クライルの未来が断たれないなら、こんなにうれしいことはない。この手をとることで王太子妃、ゆくゆくは王妃という重責が待ち構えているとしても、アレクシス様と一緒なら乗り越えられるだろう。
クライルが騎士としてこの国とアレクシス様を支えて行くように、私は伴侶として、優しく愛情深いこの人を支えることができる。それは私の夢のかたちのひとつにちがいなかった。
*
ほどなくして、私とクライルの婚約はアシュテンハイン辺境伯とキャストリー侯爵の承認を得て正式に解消された。あっけないものだった。
それから半月と待たずに私とアレクシス様の婚約が成立した。どちらも手続きだけが簡潔に済まされたのと、王室側から婚約の公表は殿下の学院卒業を待ってから行いたいとの要望があったのとで、いずれもうわさや騒ぎにはならなかった。
「特別おどろくことでもありません。もともとあなたは王太子妃候補だったわけですから」
いつもの家庭教師の時間に、紅茶味の砂糖を飲みながらシャルノンが言った。私はカップを持ちかけた手をとめてシャルノンを見た。
「なんて?」
「そもそもはアレクシス殿下ではなく夭逝されたアルヴィン殿下の、ですが、あなたの場合はアルヴィン殿下が亡くなったあとも王太子妃候補として名前が残っていました」
「でも、私は生まれたときから……」
「父親同士の口約束が政治にまさるとお思いですか?」
私はぐうの音も出ずに紅茶を見つめた。いままでには伯爵家の令嬢が王室に嫁いだ例もあるし、辺境伯令嬢が候補にあがったとしてもそれほどめずらしいことではない。ただ、実際にアレクシス様の婚約者となったシュゼット様をはじめ、私の同年代には我が家よりも身分の高い、王太子妃としてちょうどよい年ごろの令嬢がずいぶん多い。それなのにわざわざ私の名前があがっていたということは……
「シュゼット様のお父様……トレジエ元侯爵は海軍贔屓で有名だったわ。ほかにちょうどよい年ごろの娘がいる家となると、ほとんどが神殿派ね」
「ご想像の通りです。王室としては派閥間の均衡を保つために、王太子妃には騎士派の家系を望んでいた。亡くなられたアルヴィン殿下の母親は、つまりエレイン元王妃ですが、彼女は当時の大僧正の孫娘でしたからね。根っからの神殿派と言って差し支えないでしょう。アルヴィン殿下が
エレイン元王妃の名前を久しぶりに聞いて、彼女からかけられた言葉がよみがえった。
――不吉な色だわ。その子はいつか、破滅をもたらすでしょう。
エレイン様とお会いしたのはあれが最初で最後だったと思う。私は五つか六つか、まだそのくらいだった。はっきりとはおぼえていないが、アルヴィン殿下か、あるいはアレクシス様の誕生日を祝うパーティーだったような気がする。私は父に連れられて、幼いながら着飾って登城した。
私がそのときお会いしたエレイン様は、薄桃色の髪にロゼワインのような色の透き通った瞳をして、どこか儚げでとても可憐な女性だった。だからそんな人の唇から、まさか自分を否定する言葉がこぼれ出るとは思いもしなかった。
エレイン様の発言のあと、周囲が静まり返り、お父様が私の手をしっかりと握った。そのあとのことはおぼえていない。
シャルノンが言ったようにエレイン様のおじいさまは神殿の頂点に君臨する当時の大僧正
不吉な色のうわさはまたたく間に広がり、私は一躍国中のきらわれ者になった。記憶はかなりあいまいだが、アルヴィン殿下が亡くなったのはそれから半年ほど経ったころではなかったかと思う。アルヴィン殿下はやや病弱で、もともと身体が強くなかったらしい。急病のため身罷ったと公表されたが、毒殺だ、暗殺だといううわさも飛び交った。
アルヴィン殿下の逝去にともなって、王位継承権は側室の子で第二王子だったアレクシス殿下にうつろった。我が子を失ったエレイン様はひどく気を落として塞ぎこんでいたという。
そして事件は突然起こった。エレイン様が王太子となったアレクシス様の命を狙ったのだ。近衛騎士たちがエレイン様を取り押さえその場は事なきを得たが、錯乱したエレイン様は処罰の裁断を待つ間に急死した。
美しく哀れな王妃から一転、エレイン元王妃は狂人あるいは嫉妬に狂った女として人々の記憶に刻まれた。というのも、陛下とエレイン様の婚姻はかなり政治的なもので、陛下のお心はもっぱら側室だったアレクシス様のお母さま――アリシア王妃殿下にあったのだ、という流言が広まったのだ。
そうしてエレイン元王妃が悪役になると、不吉な色の予言も妄言であろうということになり、私に向けられた猜疑の目もそれなりにやわらいだのだが……
「あなたはアレクシス様の教育係のひとりでもあるわよね」
「そうですね。ご立派に成長されて、いまはもうほとんどお役御免ですが」
「おかしいと思ったことがあるの。あなたのような人がどうして私の家庭教師なんだろうって」
「……まあ、だいたいご想像の通りでしょう」
シャルノンはいつもの淡々とした調子で言って、肩をすくめた。
この陰気な男は、しかしアルセレニアの非常に優秀な魔導師のひとりなのだ。おそらく彼の知識量は王国一で、魔法の実力もかなりのものだ。見た目はともかく、そんな人材がわざわざ辺境のアシュテンハインまで足を運び、長年にわたっていち辺境伯令嬢の家庭教師を兼務してきたのである。
「はじめてアレクシス様とお会いした日……私がシュゼット様と一緒にお城へ行ったのは、偶然ではなかったのね」
シャルノンはだまって紅茶に口をつけた。
「小さなころ、シュゼット様はあまりお身体が丈夫ではなかったわ」
政治に
クライルが私との結婚を焦ったのも、身を引こうとしたのも、私たちだけの問題だけではなかったのだ。王太子妃の椅子が空席となったいま、そこに私を座らせようとする意見はもちろん出ただろう。ただ、アレクシス様が学院を卒業するまではという
神殿派にとっては渡りに船だっただろう。
私とクライルの婚約解消、そしてアレクシス様との婚約がとんとん拍子に進んだのは、一部においてそもそもそうなるよう望まれていたからと考えるのが妥当かもしれない。
「騙したわけではありませんよ」
「もちろん、わかってるわ」
私は短いため息をついてスミレ柄のティーカップを口もとへ運んだ。
――でも、アレクシス様の気持ちは嘘じゃない。
シャルノンが言う通り誰ひとり私を
政治的な思惑のなかで、それでも私たちは自分の道を自分で決めたのだ――……。
*
それから学院の卒業を迎えるまでの半年と数カ月はおどろくほどおだやかに過ぎて行った。大きな事件や事故が起こることも、リリーが命の危険にさらされることもなく、ただただ日常が続いていた。
公表していないとはいえ私は正式にアレクシス様の婚約者となって、身辺警護を務めるためにカティア様が私付きの騎士となった。彼女の非番にはデニス様かクライルが代役を務めた。元婚約者とはいえクライルはアレクシス様付きの近衛騎士で、接触は避けられない。
それでも私もクライルもお互いにそれほど気まずさを感じてはいなかったと思う。すくなくともお互いにそう振る舞うことができていた。私たちは幼いころから続いてきた兄と妹のような関係にもどっただけなのだ。
――時の円環を抜け出したのかもしれない。
卒業の日の朝、支度を終えた私は自室の冷たい窓に触れた。
王立学院の卒業式は暦上もっとも冷え込む時期に行われる。冷え込むと言っても王都の冬はアシュテンハインの秋くらいのもので、ときどき雪がちらちらと舞うだけで積もりはしない。
これだけなにも起こらないなら、私はついにやり遂げたのではないだろうか。確証はないがそんな予感がした。最近は悪夢を見る頻度も減ってよく眠れるようになったし、食事も喉を通りやすくなった。
――これが正しい未来だったのね、きっと。
アレクシス様が私に注いでくださる愛情は、いつでも春のひだまりのようにあたたかかった。そして彼はついと願いが叶う石に手を伸ばさなかった。やがて石のうわさは煙のように立ち消えて、あっという間に忘れ去られてしまった。
「お嬢様、馬車が参りました」
アニタに声をかけられて、部屋を出る。アニタは今日も薄化粧で素朴な微笑みを浮かべていた。
――誰も失わずにここまできた。
あるとき、暗闇に包まれた馬車のなかで、アニタは死を覚悟して
――不吉な色だわ。その子はいつか、破滅をもたらすでしょう。
学院へ向かう馬車のなかで、私はエレイン元王妃の言葉を思い返した。たしかに私は破滅をもたらしたのかもしれない。時の円環のなかで、何度も何度も悲劇をくり返してきた。彼女の予言は正しかったのだ。
――それでも、乗り越えたわ。
私は破滅を乗り越えて未来を手に入れた。そうでしょう?
馬車を降りるとひやりとした冷気が全身を包む。私の問いかけに答えるように、北風が私の暗いアメジスト色の髪をゆらした。
式典はホールで催され、最初に王妃様のお言葉を賜った。そして王妃様から代表者に学位の授与が行われたのち、そのままダンスパーティーになるのが通例だが、今年はその前にアレクシス様と私の婚約発表が行われることになっている。
「この場をお借りして私から……」
卒業生代表としてあいさつに立ったアレクシス様がスピーチの終わりにそうつけ加えて、私のほうへ手を差し伸べる。彼を見上げて歩き出しながら、アレクシス様のななめうしろに立つクライルと目が合った。クライルは表情を変えずいつもの不愛想を浮かべていたけれど、私には彼が微笑みかけてくれたように見えた。
――これで、あなたと一緒に生きて行ける。
私とクライルは生涯の伴侶ではなくなったけれど、幼なじみであることも、友人であることも変わらない。
アレクシス様のとなりに立って生徒たちをゆっくりと振り返る。最前列に立ったリリーが目に入った。彼女は必死に涙をこらえようとしていて、しかし耐えきれずにぼろぼろと泣き出した。リリーのとなりにはフィリア様がいて、驚きながらもうれしそうな笑みを浮かべている。
ホールは一瞬騒然としたが、すぐに静まり返った。
「この度、エリーゼ・アシュテンハイン辺境伯令嬢と婚約したことを、朋友のみなさまにお知らせいたします」
静かなホールにアレクシス様のおだやかな声が響く。わずかなどよめきが起こったと思うと、号泣するリリーが激しく手を打ち鳴らし、フィリア様がそれに上品な拍手を添えた。そして生徒たちのささやきはすぐにホールに満ちる拍手によって掻き消えた。
リリーの泣き顔があんまりおかしくて、ふっと胸が軽くなった。長い戦いが終わるのだという予感がした。
「エリーゼ。手を」
アレクシス様の声に振り返り、私は言われた通り手を差し出した。
アレクシス様が私の指先を取って、薬指にそっと銀の指輪をはめる。指輪の石座にはどこかで見た、血のように赤い石がとりつけられていた。すうっと血の気が引くような感覚がした。
私は愕然としてアレクシス様を見上げた。
「ともに歩み、泣き、笑い、そしてもし、ぼくが道をたがえたときは君がとめてくれ」
アレクシス様はそう私にささやきかけた。愛の言葉であり、またそれが王子としての彼の覚悟だったのだろう。
私はなにも答えられなかった。だって、いま、私の指に輝いているのは……
「殿下」
突然デニス様がアレクシス様の肩を引き、クライルが私をかばうように躍り出た。
ズシンと肩に重りがのしかかったような衝撃がして、女生徒たちの甲高い悲鳴が空気を裂く。見えない力に押しつぶされるように生徒たちが次々うずくまった。
ミシミシと建物が軋む音がしたが、ゆれているというよりも突然重くなった空気に押さえつけられているような感覚だった。どうやら地震ではない。
なんとか立っていると、ホールの床から火の粉のような赤い粒子がポツポツと浮かび上がるのが見て取れた。通常、空気中の魔力は肉眼ではとらえられない。しかし一か所に集まって高濃度になると、たとえばシャルノンが結界を張ったときのように目視できるようになる。
指輪につけられたたそがれの石が、粒子と同調するように明滅していた。あれはおそらく火の魔力だ。
いつか夢で見た光景が脳裏をよぎった。ホールにただよっている魔力がいまこの場で爆発すれば、王都一帯を一瞬にして焦土に変えるだろう。
「剣を……剣を貸してください!」
強烈な魔力がのしかかるなかで、足を踏ん張ったリリーがさけぶ。しかし動きたくても誰も動けなかった。クライルが重力にあらがうようになんとか踏み出して、剣を鞘ごとリリーに向かって放り投げる。剣は床を滑ってリリーの足もとにたどり着いた。
窮地に陥ったとき、彼女はしばしば過去の記憶をとりもどすことがある。打開策があるのかと思いきや、リリーは剣を拾って鞘を払うと、刃を自分の首筋にあてがった。
「やめて!」
さけんだとき、私は自分の部屋にいた。目の前には『アルセレニア興国史』の九十八ページがひらかれていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます