第十四話(1)

 リリーが泣いている。彼女は緋色の絨毯の上にうずくまって、飾り気のない短剣を握っている。私はそんな彼女の背中を眺めている。いままでも何度か見た夢だった。


「できない……できないよ……」


 リリーは華奢な肩をふるわせてそうささやいた。彼女は自分の命を投げ出すことをためらわない。それは彼女がセフィーラで、自分の死によって時がもどると自覚しているからかもしれない。

 だから、リリーはあの短剣で自分の喉や胸を貫こうとしているわけではない。ではいったいなにができないというのだろう。


 ――ここはどこ?


 私はリリーの背中から視線を移して、周囲を見渡そうとした。しかし、もやがかかったようで判然としない。あたりを見まわしながら振り返ると、誰かが立っていた。


「王妃様……」


 人ひとりいない城内の長い廊下に、青白い顔をしたエレイン元王妃が立っていた。


「破滅よ」


 エレイン様はそうささやいて、私に向かって両手を伸ばした。細い指先が私の喉をとらえようとしたとき、目が覚めて、私は自分の部屋の天井を見上げていた。


 ――不吉な色だわ。その子はいつか、破滅をもたらすでしょう。


 エレイン元王妃の予言が耳もとによみがえる。私が破滅を招くのだとすれば、ではリリーは、あの短剣で私の胸を貫こうとしたのだろうか。


 ――それならなぜ、私をかばうの?


 リリーは私をかばって何度も命を落とした。私の死を必死に避けようとしているようでもあった。


 ――みんなを、エリーゼさんを守れるなら、どんな試練だって乗り越えたい。


 もうずっと遠い記憶に思えるけれど、リリーは私にそう語った。そして彼女はひとつの答えにたどり着いて、剣を握った。しかし、どうしても果たせなかったのだ。

 私はため息まじりに寝返りを打った。エレイン様の予言は幼い私の心と名誉を傷つけたが、あながち嘘でもなかったのかもしれない。破滅を逃れられなければ、つまり私が破滅をもたらしているも同然なのだから。


「――」


 エレイン様の冷たいまなざしを思い浮かべたとき、私の思考は彼女の起こした騒動に結びついた。


 ――彼女が未来を予知する力を本当に持っていたとしたら……


 その瞬間、悪魔に心臓をつかまれたような心地がした。それはひどくおそろしい予感で、しかしすべてがつながるようにも思われた。


 ――いいえ、まだ、私の想像でしかない。


 もしリリーが同じ答えにたどり着いたのだとしたら、たしかに、彼女にはできないだろう。

 夜明けの気配がただよう薄闇のなかに、自分の鼓動だけが響いている。いてもたってもいられずに、私は体を起こして、よび鈴を鳴らした。使用人たちはもう朝の支度をはじめているころだろう。


「どうされました」


 ほどなくしてアニタがやってきて、案じるように言った。よほどのことがない限り、こんな時間に私が人を呼び出すことはない。急病とでも思ったにちがいなかった。


「あたたかい飲みものを、お願い」


 汗が噴き出るような興奮のあと、今度は血の気がひいて、ひどく寒くなった。ふるえだしそうな身体をぎゅっと押さえつけるように抱きながら、私は乾いた声でアニタにそう頼んだ。



「彼女が亡くなる瞬間以外は、たしかにぼくもその場にいました」


 突然の呼び出しに応じたシャルノンは、私の質問に答えながらシュガーポットにスプーンを差し入れた。

 幸いにと言うべきか、今日は祝日だった。アルセレニアでは月に一度、神職が総出で女神に祈りを捧げる「祝福の日」が暦に定められている。この日は軍事ならびにいさかいをつつしみ、労働の手を休め、女神へ感謝の祈りを捧げる日とされていて、学院ももちろん休講だ。

 私はコリンを使いに出して、朝一番にシャルノンをよびに行かせたのだが、シャルノンが私の部屋をおとずれたのは午後になってからだった。こう見えて彼は王国魔導師で、暇人ではない。今日は神事もあっただろうし、まだ日が高いうちにたずねてくれただけありがたかった。


「アルヴィン殿下はあの年に流行した熱風邪の犠牲者です。毒殺などではありません」

「それじゃあ、エレイン元王妃が我が子をうばわれた復讐心からアレクシス様を手にかけようとしたというのは……」

「ただのうわさ、でたらめですね」


 シャルノンは砂糖をよく溶かしてから、紅茶に口をつけた。そしてティーカップを下ろしながら軽くゆらして、ゆれる紅茶の表面を見つめているようだった。


「あの日は――」


 シャルノンは十数年前の記憶をたどって、エレイン元王妃が起こした騒動について彼の見たすべてを語ってくれた。

 エレイン元王妃の子どもで第一王子だったアルヴィン殿下が熱風邪をこじらせて亡くなった。エレイン様はひどく憔悴し塞ぎこんでしまった。そしてアルヴィン殿下の逝去から十日と経たないその日、シャルノンがアレクシス様の個人授業のためにアレクシス様の私室をおとずれると、なにやら周囲が騒然としていた。部屋をのぞくと、呆然とするアレクシス様と近衛騎士たちに取り押さえられるエレイン様の姿があった。エレイン様はやせ細った体ではあったがひどく抵抗して暴れながら、大声でわめき散らしていた。


 ――呪われた子よ。破滅をよぶわ。滅びるのよ、すべて……


「彼女はそのまま引きずり出されて、ぼくはアレクシス殿下のおそばに残りました。ですから、彼女がどう亡くなったのかは知りません。発作を起こしたようだと人づてに聞いただけです」

「エレイン様は本当に正気を失っていたの?」

「さあ。取り乱しているように見えはしましたが……もともと大人しく、理性的なかたでしたからね。普段の彼女の姿を知っていればこそ、気が触れたようにも映ったでしょう。事実、あのときの彼女は心労極まる状態にありました」

「わめいた内容を考えれば、エレイン様を狂人扱いしなければ争いの火種になるわね」

「ええ。ただのお妃様ならいざ知らず、彼女は預言師の血筋でしたからね。それを予言とするかどうかという問題はありますが、実際、日常のささいな点においてエレイン元妃の勘は非常によくあたりました」


 シャルノンは一度そこで言葉を区切って、ティーカップに口をつけた。そうしてひと息ついたのち、前髪の隙間からペリドットの瞳をのぞかせて私を見た。


「彼女の遺体を拝見しましたが、鬼のような形相でしたよ。発作を起こしたというより、毒でも飲まされたように見えましたね。狂気に満ちた女の最期にふさわしい表情かおでした」


 こんななりをしているが、シャルノンの慧眼けいがんはたいしたものだ。おそらく彼の読みはあたっているものと思われた。

 アレクシス様を自ら手にかけようとしたくらいだから、エレイン様を生かしておけば彼女は何度でも自らの予感をさけぶだろう。そして私のときのようにアレクシス様を「呪われた子」とするうわさが広がれば、王位の継承争いに拍車をかける。

 エレイン様を狂人に仕立て上げ口を封じてしまえば、アレクシス様への不信感は抑えられるし、なにより神殿派に対する牽制けんせいにもなる。実際、この事件を利用して騎士派は王太子妃候補から神殿派の息のかかった家系を駆逐し、その座に騎士派の筆頭ともいえるトレジエ侯爵家のシュゼット様をえることに成功した。


「リリーにも同じ話をした?」


 私は紅茶に口をつけて、緊張を隠しながらシャルノンに聞いた。シャルノンは首をすこしかたむけて髪の隙間から両目を見せ、微笑んだ。


 ――シャルノンは、すべて知っている。


 ペリドット色の瞳を見つめながらそう思った。シャルノンはこの運命がリリーのものだったときから、くり返した時間のすべてを見てきているはずだった。

 けれど彼に答えを求めたところで教えてはくれないだろう。シャルノンいわく、それはことわりを乱す行為なのだ。


「ずっと昔にしたような気もしますね」


 そう言ってシャルノンは両目を前髪に隠した。

 シャルノンの昔話によって、私の想像は十分に補完された。そしてそれはおそらくリリーがたどり着いた答えでもあったはずだ。

 エレイン様が幼いアレクシス様の命をうばおうとしたとき、彼女を支配していたのは狂気でも怨恨えんこんでもなかった。おそろしい未来を予感して、それを食いとめようとしたのだ。その未来は彼女が私に抱いた破滅のヴィジョンよりもずっと鮮明だったのだろう。そうでなければエレイン様はあのとき、瞬時に幼い私の首を締め上げたはずだ。

 朝はあんなに取り乱したのに、いまは落ち着いていた。私はティーカップのスミレ模様を見つめながら、あきらめにも似た感覚になりながら微笑んだ。


「あなた、本当は全部知っているんじゃない?」


 私は冗談めかしてそう言ってみせた。


「未来はぼくにもわかりません」


 どうせはぐらかされると思ったが、シャルノンは前髪の隙間にまつ毛を伏せて、愛おしそうに微笑んだ。


「だから、とことんあなたにつきあいますよ」


 もし、いまから選ぶ道がまちがいなら、また時間がもどるだろう。けれど私にはそれが私がリリーからとりあげた成すべきことのような気がしていた。


 ――私がやってあげる。


 そう言って私はリリーの手から短剣をとりあげた。時がくり返すことで、一見彼女のセフィーラとしての運命を肩代わりしたようにも見える。しかし、私はほかの人々と同じようにただ時の円環のなかにいるだけで、実際に時間をもどしているのはリリーなのだ。

 私はただ、彼女が踏み出せなかった最後の一歩を引き受けただけ。そんな予感がしていた。

 望まずしてともに破滅の星のもとに生まれたのだと思うと、同情ではなく、純粋にアレクシス様が愛おしくなった。私たちは朝と夜、ふたりでひとつのような、そんな愛しさだった。

 それから私はその愛情を隠さなかった。そしてあの雨の日、ふたりきりの温室で決着をつけることにした。

 アレクシス様のそばには常に三人の近衛騎士が控えている。彼らの目をかいくぐろうとするのは非常に困難だ。特にクライルは私の一挙一動に敏感だから、確実に不在になる日がチャンスだ。カティア様はアレクシス様が抱える事情を知っているから、いまの距離感で私がアレクシス様とふたりで話がしたいと言えば気を配ってくれるはずだった。

 私は決行を前にリリー宛の手紙をしたためた。私の失態はつまりアシュテンハイン辺境伯家の不手際となる。家族への迷惑はどうしても避けられない。けれど私の思いをつづって、リリーに家族の助命を嘆願しておけば、うまくいけば彼女の口添えで減刑されるかもしれない。リリーとの友人関係を利用するようではあるが、彼女の代わりに成し遂げるのだから、これくらいは許してもらいたいものだ。

 決行前日、私はリリー宛の手紙をシャルノンに託し、ねだっておいたアニタのアイシングケーキをお気に入りの茶葉とともに夜食として楽しんだ。


「エリーゼ様」


 スミレ柄のカップを見つめて思い出に浸っていると、ノックのあと、若いメイドが遠慮がちにドアをひらいた。


「どうしたの」

「あの……クライル様がお見えです」


 外は霧雨になっていた。こんな夜遅く、クライルが意味もなくたずねてくるとは思えなかった。婚約の解消を提案しにきたのかもしれない。以前よりかなり早いタイミングだが、いまの私のアレクシス様に対する態度を考慮すればそれなりに妥当だろう。


 ――会わないつもりだったのに……


 最後にクライルと会おうかどうか、ずっと迷って、会わない決心をしていた。クライルとふたりきりで向かい合ったら、弱音や言い訳がふと口をついてしまいそうだったからだ。

 明日私はクライルを裏切る。それもひどく屈辱的な形で。誰よりも彼の幸福を願いながら、自分の心も彼の思いも踏みにじるのだ。


「行くわ」


 短く答えて私は椅子を立った。夜も遅いし、話はまた今度にしようと言って引き上げてもらえばいい。だから、もしかしたら本当に最後かもしれないから、顔を見るだけ。そのくらいはしても許されるだろう。

 ランプを持って階段を降りると、わずかなジェムランプが照らすばかりのうす暗いエントランスに人影があった。陰影のなかで見るクライルは、いつもより大人びて感じた。ずいぶん大きくなったものだわ、といまさら感慨深くなった。


「どうしたの、こんな時間に」

「いや……」


 クライルはめずらしく言葉を濁した。髪とマントが濡れているようだった。


「なにか拭くものを」

「いいんだ、すぐに帰る。すまない、こんな時間に押しかけて……」

「どうかしたの」

「いや……」


 自分の首に手をあてて、クライルは口ごもりながら視線を下げた。

 叶うことならいますぐ彼の胸に飛び込んで、きつく抱きしめてほしかった。こんなふうに甘えた気持ちが湧いてくるのは兄妹のように育ったせいだろうか。

 絶対に言わないだろうけれど、もしクライルがすべて捨てて逃げてしまおうと手を差し伸べたら、その手をとるかとるまいかうっかり悩んでしまうだろう。


「なにがあっても君の味方だと、伝えておかなくてはいけない気がして」

「……」


 私は微笑みながらうつむいて、首をかすかに横に振った。

 うまく立ちまわっているつもりなのに、どうして見透かされてしまうのだろう。


「それだけなんだ。こんな時間に、ごめん」

「明日は演習だと聞いたわ。けがをしないでね」

「そんなやわじゃない」


 動揺を世間話でごまかすと、クライルは私を安心させようとしたのか冗談っぽく言って、不器用なつくり笑いを浮かべた。クライルなりに自分の感情を押し隠そうとしているように見えた。

 私を心配して駆けつけたのだろうから、いつものクライルなら強引に私を抱きしめるくらいはしたかもしれない。けれど彼は距離を保って立っているだけだった。私の心がアレクシス様に向かっていると気づいているからだろう。


「……それじゃあ、おやすみ」


 そう言ってクライルは名残惜しそうに、けれどきびすを返した。私はうす暗いエントランスを去って行く彼の背中を見つめていた。


「クライル」


 よびとめてはいけないとわかっていて、それでも最後に、最後に自分の気持ちを伝えるくらいは許されないだろうか。

 薄闇のなか、クライルが足をとめて振り返った。表情はほとんど見て取れなかった。


「私、あなたが好きだった」


 おやすみなさい、とささやいて私は彼に背を向け、階段を登った。クライルは私を追ってはこなかった。部屋に入る前、振り返ると遠くに人影が立ち尽くしているように見えた。

 部屋へもどるとテーブルの茶器はすでに片づけられて、明かりも落とされていた。私はそのままベッドに入り、泣き出す前に眠ってしまおうと深呼吸して瞳を閉じた。



 翌日は朝から雨で、リリーは魔力熱で学院を休んだ。ちょこちょこと以前とはちがうできごともあったがおおむね筋書き通りだ。


「あの……アレクシス様」


 昼休みはやはり温室ですごすことになり、研究棟の温室へ向かう道すがら、私は小声でアレクシス様にささやきかけた。


「その……」

「うん」

「できればふたりきりでお話ししたいことがあるのですが……」


 アレクシス様はすこし驚いた様子を見せて、しかしだまって微笑んだ。

 温室に到着するとまずはデニス様とカティア様が交代で温室のなかを改める。危険がないことを確認すると、彼らは以前と同じ配置についた。デニス様は入り口の前、カティア様は私たちの座るベンチに背を向けて一、二メートルほどの距離に立っている。


「魔力熱だそうだよ。かわいそうにね」


 昼食をとりながら、私たちはいつかの会話をくり返した。

 そしてアレクシス様の横顔を見つめていた私は、そこに疲労の色を見て取った。


「お疲れのご様子ですね」

「そうかな。どうにも最近、夢見が悪くて。よく眠れていないのかも」

「どんな夢を?」


 アレクシス様は困り笑いを浮かべてからカティア様をよんだ。


「カティア」

「はい」

「エリーゼとふたりで話がしたい。デニスと外に出ていてくれないか」

「……かしこまりました」


 カティア様はとまどいながら、それでもアレクシス様の要求を承知した。温室に不審者がいないことはあきらかだし、侵入経路も入り口以外にない。それにまさか、アレクシス様のとなりに座っている辺境伯令嬢が武器を隠し持っているとは思いもしないだろう。

 カティア様とデニス様が去ったのを確かめてから、アレクシス様が口をひらいた。


「よく見るのは炎の夢だ。劫火がすべてを焼き尽くして、ぼくは呆然と焦土を見渡している。しばらくすると黒い骸骨が――焼け死んだ者たちがお前のせいだと呪いながら、ぼくの手足をつかむ。気がつくとぼくは積み重なったおびただしい髑髏の上にいて、崩れるようにそのなかへ埋もれて行く」


 その光景を想像してゾッとした。焦土の夢は――おそらく私やリリーの脳裏に焼きついているのと同じ、災厄の記憶だろう。そのあとはアレクシス様の深層心理にもとづくものかもしれなかった。時がもどって記憶を失っても、アレクシス様の胸には自責の念が降り積もっているのかもしれない。


「悪夢を終わらせましょうと言ったら……」


 私は左手でバスケットの影に隠した短剣を握った。護身用にと十五の誕生日にお父様が贈ってくださったものだ。護身用というだけあって飾り気はないが、アシュテンハインの職人が鍛えた業物わざもので、錆も刃毀はこぼれもない。殺傷能力は十分だ。

 アレクシス様はきょとんとした顔で私を見て、そのあといまにも泣き出しそうな、安堵の表情を浮かべた。


「リリーは、できないと……」


 リリーの身にときどき起こる、知らないはずの記憶が急によみがえったような声でアレクシス様がささやいた。私は短剣をゆっくりと鞘から引き抜いて、柄を両手で握った。


「私にはできます」


 もし相手がクライルだったら、私はリリーと同じようにうずくまっていたかもしれない。けれどきっと最後には覚悟を決めたはずだ。クライルのこともアレクシス様のことも愛しているはずなのに、なんて冷酷な女だろう。


 ――私がやってあげる。


 だからあのとき、あんなふうに言えたのだ。

 私はリリーほど純真ではいられない。クライルを失ったときも、アニタを見捨てると決めたときも、ときには犠牲もやむなしと受け入れることができてしまう。それが現実だからこそ、私はリリーを守りたい。そうありたかった自分のために、リリーの甘さを許してあげたい。

 私はアレクシス様に向き直って、彼に切っ先を向けた。アレクシス様は抵抗しないだろう。あとはこれを突き立てるだけだった。


「つらい思いをさせたね」


 私が意を決して息をついたとき、アレクシス様はそうささやいて私を抱き寄せた。はたから見れば恋人同士の抱擁に見えただろう。

 私は短剣をきつく握って、アレクシス様のみぞおちに刃先を押し込んだ。アレクシス様はわずかにうめいて、すがるように私を抱きしめた。


「あなたをひとりには、しません」


 私がささやくと、アレクシス様が微笑んだ気がした。彼はなにか言おうとして、しかし言葉にならないようだった。アレクシス様は悲鳴もあげずにただ苦痛に耐えていた。


「私もすぐに行きます」


 それが私が彼に示せる最大の愛情で、つぐないだった。こんなに優しい人にひとりで犠牲になれだなんて、そんなさびしい思いはさせられない。


 ――つらい思いをさせたね。


 その短い言葉に救われた気がした。ずっと孤独な戦いだったのだ。

 もしこれが正解で、時間がもどらなかったら、私の名前は罪人として歴史に刻まれる。誰も私がこの国を救ったなどとは思わない。ほらやっぱり、王妃様の言った通り、破滅をもたらした――。

 でも、ただひとり、この人だけは私の苦しみを知っている。いま私がどんな思いでいるかわかってくれている。

 アレクシス様の身体から力が抜けるのを待って、私は彼の身体から短剣を引き抜いた。アレクシス様の体がベンチにもたれるように倒れ掛かる。

 いつかのディオにならって、刃には致死性の麻痺毒を塗布しておいた。シャルノンが用意してくれたものだ。私が毒を求めると、彼はなにも聞かずに調合用の薬品を提供してくれた。

 私はアレクシス様の血にまみれた短剣を自分の喉もとに向けた。これで解放される、という安堵すらあった。


「エリーゼ!」


 切っ先をまさに自分の喉に突き立てようとしたそのとき、突然背後から拘束されて、折れるほどの力で手首をつかまれた。


「離して! あっ……!」


 必死に抵抗したが、さすがに男性の力にはかなわなかった。手首をねじ曲げられて、短剣が床に落ちる。


「カティア、殿下の処置を。デニス、治癒師をよんでくれ」


 もう二度と聞くことがないと思っていたクライルの声が押さえつけられた背中を伝って響いてくる。彼は演習で、ここにはこないはずなのに。


「お願い、一緒に行かせて」


 私は泣きながらクライルに訴えた。

 カティア様がアレクシス様を慎重に仰向けにする。アレクシス様の顔は蒼白で、腹部は血に染まっていた。刺し傷だけならまだしも、毒がまわっているはずだから助からないだろう。


「ひとりにしないと約束したのよ、お願い」


 涙と、胸をされているのとで呼吸がままならない。あえぐように言ったあと、私はあっけなく意識を手放してしまった。

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