第十三話(1)

 気が遠くなるような時間をふたたびくり返して、やっと花まつりの日までこぎつけた。私はアレクシス様からペンダントを受けとるとすぐにラナスタの町を離れた。そしてついにペンダントを海に投げ捨てようとしたとき、ラナスタが魔獣に襲われたという知らせが飛び込んできた。結局また私はクライルを失って、リリーも深手を負い、彼女は高熱に苦しんだあとで私を勉強机の前へともどした。


「あくまで推測ですが……クライル様が命を落とすのは、たそがれの石があなたの手に渡ったからとは考えられませんか。持ち主に災いをもたらすとしたら、女神の化身セフィーラはつまり女神そのものとほぼ同義ですから、彼女が石を持った場合にアルセレニア全土に災厄が降りかかるのでは? その理屈で言えば、王族であるアレクシス殿下の手に石がある場合も国家規模の災いをもたらす可能性がありますが」


 時間をさかのぼったその夜、私はふたたび用事を終えたシャルノンを部屋によんで丸テーブルをはさんで向かい合った。シャルノンがぐるぐると紅茶をスプーンでかき混ぜながら述べた見解に、ふむ、と呼吸で相づちを打つ。


「石を手に入れてすぐ事件が起こったわけではないし、タイミングもまったくちがったわ。たそがれの石が原因という前提あってこそだけど……そもそもアレクシス様の手に渡らないよう阻止する必要があるんじゃないかしら」

「そうなると問題はいつどこで殿下が石を手に入れるかですね」

「結婚祝いにと用意してくれたのだから、学院パーティーのあとかしら……。でも、ラナスタへ発つまでそれほど時間がないわ。ラナスタで手に入れた可能性もあるかしら。もしかしたら結婚祝いというわけではなく、いつか渡そうともっと前に用意していた可能性もなくはないわよね……」


 相手が王太子となると側近でもない限り常に行動を監視するのはむずかしい。だからといってクライルやカティア様にアレクシス様を見張るよう頼むわけにもいかない。そもそも私がアレクシス様の一挙一動を知りたがるという時点でおかしな話になってくる。


「すくなくとも私よりあなたのほうがアレクシス様の私生活に詳しいわよね。商人をよぶとか、なにかそういう素振そぶりはなかったの?」

「ぼくの知る限りではありませんね。ただ、城内でいっとき願いが叶う石というのがうわさになりました。神殿にそういう石が持ち込まれたらしいとかなんとか」

「それだわ」


 ――願いが叶う石だそうだよ。お守り代わりになればと思って。


 アレクシス様はそう言って私にペンダントを差し出した。ぴんときて、私は思わず身を乗り出した。


「願いが叶う石とよぶのは語弊ごへいがあるように思いますが、火の力を持つ石は持ち主の感情を強めます。願いや欲望があれば成就させようとする思いが強くなるでしょうね。それが努力や行動に反映されればおのずと願いも叶うでしょう。ただし、叶わなければひたすら渇望させるだけです」


 砂糖を山のように溶かした紅茶に口をつけながら、シャルノンが知識を披露する。本当に便利な辞書だ。


「神殿では話題にならなかったの?」

「そんな話がどこから出たのかみんな不思議がっていました。すくなくともぼくが知る限りではたそがれの石が神殿に持ち込まれたという事実は確認できていません」

「そうなると神殿を経由してアレクシス様に渡ったとは断言できないわね。神殿やアレクシス様のことでなにか気づいたら教えてほしいのだけど、それはできること?」

「判断のための情報収集であれば問題ないでしょう」


 感情的になったところで、解決できなければ時は永遠にくり返す。だんだんと無感情になっていく自分がどこか空虚にも感じるが、とにかく情報を整理してあらゆる可能性を理性的に試してみるしかない。この状況に慣れてしまった、というのもたしかにそうだし、それが自分の運命だと受け入れたふしもある。

 今日の私が異様に落ち着いているのは、心持ちがとうとうその段階にたどり着いたからだろう。


 ――前回はひどかったもの。


 はじめてクライルを失って起点へもどった私は、その夜にクライルをよびつけて彼にすがりついて泣きじゃくった。そして泣き疲れて眠るまでクライルを離さず、結局クライルは朝まで私に添い寝する羽目になった。

 さすがに愛想を尽かされて道筋が大きく変わるのではと危惧したが、クライルとの距離が全体的にほんのすこし近くなっただけで、ほかはたいして変わらなかった。

 今後の方針を立てたあとシャルノンを見送り、思ったよりも遅くなったのでそのままベッドに入った。特別寝つけないということもなく、気持ちも落ち着いていたが、夢見は悪かった。


「今日、城内で例のうわさを耳にしました」


 謹慎が解けリリーと出会い、もう何度くり返したかわからない日常をすごすなか、家庭教師としてやしきをおとずれたシャルノンがついにそう切り出した。

 学習に関しては同じところをずっとやっていてもしかたないから先へ先へと進んでいるが、いままで使っていた興国史のテキストはとっくに終わってしまって、このところはシャルノンが見繕ってきた神話学を学んでいる。そしてすくなくとも家庭教師の時間の半分は情報交換や作戦会議にあてられている。


「願いが叶う石のうわさね」

「ぼくが聞いたのはストラチアの遺跡から発掘されたもので、神殿に納められたらしいという話です」


 言いながらシャルノンは紅茶に何杯も砂糖を加えた。

 ストラチアはアルセレニア王国の東の辺境に位置する不毛の土地で、周辺から古代の遺構が数多く発見されている。


「ついこのあいだ新たな祭祀さいし遺構が見つかったのですが、うわさではその遺構からの出土品らしいということです。太陽崇拝の痕跡が見られるそうなので、たそがれの石もとい太陽の石の出どころとして一応筋は通っています」

「神殿のほうはどう?」

「何人か神官をあたってみましたが、誰も心あたりはないそうです。うわさの発生源はいまのところ特定できていません」


 私はふうん、と息をついて持ち上げかけたティーカップを置いた。


「ありがとう。またなにかあったら教えてちょうだい」


 シャルノンは前髪に両目を隠したまま「はい」と短くうなずいた。

 きっとすこしずつ前進しているはずだ。そう信じようと自分に言い聞かせて、背中を丸めたシャルノンが紅茶に口をつけるのと一緒に私もスミレ柄のカップを持ち上げた。


 翌日はあいにくの雨模様だった。学院にもどってからは天気のよい日が続くから、この日のことはそれなりに記憶に残っている。いつかと同じ道筋をたどるなら、今日はリリーは学院を休むはずだ。

 理由はたしか魔力熱で、許容量を超えて魔力を駆使したときなどに、反動として大気中の魔力を過剰に取り込んでしまうことで発症する。あくまで突発的なもので風邪のように伝染することはない。魔力の過剰摂取は身体の成長にともなって制御できるようになるから、基本的には子どもに多い症状だ。

 しかし子どものほか、歴代の女神の化身セフィーラの多くも魔力熱を発症している。彼女たちがもともといた世界の魔力の濃度や性質との差によって引き起こされるらしいから、リリーの場合はそれが原因だと思われた。


「魔力熱だそうだよ。かわいそうにね」


 私とリリーとアレクシス様の三人でとるはずだったランチは、リリーの不在によってふたりだけの昼食会になった。とはいえいつも通りカティア様とデニス様も一緒だから、アレクシス様とふたりきりというわけではない。ちなみにクライルは騎士団の演習があるとかで今日は護衛の任務から外されている。

 こんな天気なので、私たちは人のすくない研究棟の温室をおとずれることにした。リリーとクライルの欠席もこの場所も、いつかの記憶にある通りだ。

 雨がガラスをしきりにたたくので、温室には雨音が満ちている。ちょっとやそっとの物音は掻き消されてしまいそうだ。


「私も子どものころにやったんだ。あれはつらかったな」

「魔力があればあるほど症状が重いといいますものね」


 デザートのブドウを一粒つまんで、アレクシス様がしみじみとつぶやく。私も幼いころ何度か魔力熱を出したが、いずれも軽症で済んだ。王族のアレクシス様はつまり私よりもずっと強い魔法力をお持ちだから、そのぶん苦しんだにちがいない。

 私はあたりさわりのない受け答えをしながら、ちらりと温室の入り口に立っているデニス様を見た。デニス様は私たちに背を向けて、外の様子に気を配っている。私たちからそう離れずに立っているカティア様もこちらに背中を向けていた。この雨音ではデニス様には私たちの会話は聞こえないだろう。


 ――カティア様はきっと、アレクシス様のお気持ちを知っているのね。


 デニス様はあの通り隠し事に向かないタイプだからなにも知らないのだろうが、いつもならカティア様は私やリリーをにこにこと見守っている。そんな彼女が今日に限ってすこし離れて背中を向けているのは、アレクシス様への気づかいのように思われた。

 以前はそれほど気にしなかったが、今日のアレクシス様はいつもより口数が多い。リリーがいない代わりに一生懸命話してくれているのだと思っていたけれど、たぶん、ちがうわね。

 温室にはカティア様とデニス様がいるもののふたりとも背を向けているし、雨音も手伝って私たちはほとんどふたりきりのようなものだった。それに……


「三日三晩高熱に苦しんだよ。体もあちこち痛くて、死ぬのではと思ったほどだ。そのとき料理長が特別に氷菓子をつくってくれてね。それがおどろくほどおいしくて、どうしてもまた食べたくて、あとになって仮病を使ったことがあるんだ」

「まあ。アレクシス様が仮病を?」

「そう。けれど嘘だとばれて、母上からひどく叱られた。氷菓子にもありつけなかったよ」


 アレクシス様は茶化すような口ぶりで幼少期の思い出を語った。そしてそれを私が楽しそうに聞いているのを見て、うれしくてしかたないという顔で笑う。リリーをはさまない私たちの関係は、遠目から見たら思いを寄せ合う男女の姿に見えるだろう。令嬢たちが私とアレクシス様の仲を疑うのももっともだった。

 優しいヘーゼルグリーンの瞳がおだやかに私を見つめている。クライルの瞳の奥に燃えているのが情熱なら、アレクシス様の瞳には慈愛があふれていた。思わずどきりとして目をそらす。


「そういえば、シャルノンから聞いたのですが……最近城内で願いが叶う石のうわさが流行っているとか。ご存じですか?」


 私はごまかすように話題を変えた。今日の本題だ。


「ああ、知っているよ。どんな願いでも叶えてくれるんだってね」

「信じていないんですか?」


 意外にもアレクシス様はあまり興味がなさそうだった。彼は困ったように笑った。


「いや……まったく信じていないわけではないけれどね」


 アレクシス様はめずらしくごまかすような口調で言った。そして私を見つめて、一瞬真剣な顔をしたがすぐにいつもの微笑みをとりもどした。


「……もしそんなものが本当にあったら、君はなにを願う?」

「私ですか? そうね、なにかしら……」


 ありきたりな質問なのに、ぱっと答えが思いつかなかった。

 いい加減このくり返しから解放されてなんでもない日常をとりもどしたいとは思っているが、まさかそのまま答えるわけにもいかない。


「ハッピーエンド、でしょうか」


 しばし考えて、なんとかその単語を導き出す。


「ああ、いいね。私も一緒だ」


 アレクシス様はそう言って微笑んだが、どことなくさびしそうだった。

 願いが叶う石に興味のなさそうなアレクシス様にも、いまの微笑みにも、なにか違和感がある。この違和感の正体はいったいなんだろうと探ろうとして、私は花まつりの夜に聞いたアレクシス様の告白を思い出した。


 ――無意識にどうしたら君が手に入るか思案しているときがある。そして我に返って、自分がおそろしくなるんだ。


 私はアレクシス様を見つめた。アレクシス様の瞳には優しさがあふれていて、それが孤独を覆い隠している。アレクシス様はいつもおだやかで満ち足りているように見える。そう見えているだけなのだ。


 ――興味のないふりをしたのでは。


 私がひとつの予感にたどり着いたとき、アレクシス様は私を見つめ返していた。遠くでゴロゴロと小さく雷鳴がした。そういえば今日は午後から雷が鳴りだすのだった。

 アレクシス様の瞳を見つめながら、私はひび割れた石畳に投げ出された、つま先を空に向けたブーツを思い出していた。それが一度目のクライルとの別れの、最後の光景だった。


 ――問題はいつ、どこで、どんな経路でアレクシス様が石を手に入れるか……


 タイミングから考えても、アレクシス様は私の結婚祝いのために石を手に入れたのではない。まさか本当に願いが叶うと盲目的に信じたわけではないだろう。ただ誰にも打ち明けられない気持ちを抱えて、孤独のなぐさめとして手を伸ばしたのかもしれない。

 そして彼は私への想いを断ち切ると決心して、石を私に贈ることにした。私の願いが叶うように。ただただ私の幸福を祈って。そんなふうには考えられないだろうか。


 ――未来は誰にもわからない。


 私は生まれてからずっとクライルの婚約者だった。いま、私がクライルに抱いている気持ちが恋心なのかどうかはっきりとはわからない。クライルとの関係性にとまどったこともあった。しかし、私は彼と結婚して彼と寄り添って生きて行くものだとずっと信じていて、それが私の、私とクライルの未来なのだと疑わなかった。

 それが思い込みだったら?

 それが破滅を招くピースのひとつだとしたら?


 ――アレクシス様が私を得ることで満たされるとしたら……


 彼は願いが叶う石を求めなくなるのではないか。過去の私なら自惚うぬぼれにもほどがあると一笑にしたかもしれない。しかし何度もくり返したからこそ、この予感はまったく見当はずれでもないように思われた。


「……もし、なにかお悩みであれば、私でよければ聞かせてください」

「えっ」


 わずかな沈黙を破ると、ぼうっとしていたアレクシス様が我に返った顔をした。


「ときどきさびしそうなお顔をなさるんですもの」

「……」


 アレクシス様は微笑みを浮かべてごまかそうとして、失敗した。眉は下がり、口もとはぎこちなくひきつって、悲しいのとうれしいのと両方が混ざってしまっていた。


「君にはかなわない」


 そう言ってなんとかいつもの笑顔をとりもどしたアレクシス様に、私は愛情を込めて微笑み返した。恋ではなくおそらく敬愛という言葉が最も近いと思うけれど、私がアレクシス様を想っていることにかわりはない。

 ただその道を選ぶために、私はクライルとの未来を手放さなければならない。

 クライルとの二度目の別れで最後に見たのは、キャストリー侯爵家を象徴する百合の紋章が刻まれた白い棺――それも、からの棺だった。ラナスタを襲った魔獣の群れは人々を食い散らかしたあげく、腐敗の毒をもたらした。そのため、あんなに美しかったラナスタの町は犠牲者もろとも焼き払われて、灰燼かいじんと化してしまった。一度目よりも悲惨な結末だったと言ってよい。

 シャルノンが言ったように、たそがれの石が持ち主に災いをもたらすのだとしたら、私はクライルにとっての死神だったのかもしれない。彼の手を離せば、彼が存在しない未来を避けられるのかもしれない。

 そんな可能性にたどり着いて、感傷が胸に押し寄せる。ひどくもの悲しかったが、クライルを永遠に失ったと知ったときよりはずっとましだった。想い合っても結ばれない恋人たちはごまんといる。ありふれた話だ。

 ディオの妹のミモザ様が陰口で私を悪役令嬢とよんでみせて、一部の生徒たちに浸透した。彼女には先見せんけんめいがあったのかもしれない。この舞台に必要なのは悲劇のヒロインではなくて、目的のために手段を選ばぬ悪女なのだ。


「もし、ほかに人がいては話しづらいのであれば……こっそりと」


 私はなにも知らないふりをして、リリーのように無邪気に、また友人らしくユーモラスな印象でささやいた。アレクシス様を狙う令嬢たちと同じ場所に立ってはいけない。突然アレクシス様に乗り換えたととらえられてはいささか不自然だし、一途が美徳とされる世の中においては心象もよろしくない。大丈夫、時間はまだある。

 アレクシス様はさびしそうなまなざしをして、しかし愛情を隠さずに微笑んだ。


 雷鳴は終業のチャイムが鳴るころにはおさまり、絹糸のような雨だけがシトシトと夜更けまで降り続いた。翌日は夜までの雨が嘘のようにからりと晴れて、気温も上がってあたたかかった。

 朝はいつものように支度を整えて邸を出た。リリーの魔力熱はひと晩ですっかりよくなったそうで、学院の正門の前ではち合わせた。

 魔力熱は体内の過剰な魔力さえ放出してしまえばおさまるから、三日三晩苦しんだというアレクシス様と比べればずっと軽く済んだようだ。リリーの後見になっているオルバド侯爵の抱える料理人がリリーを気づかってシトラスのシャーベットをつくってくれて、それがとてもおいしかったのだと彼女は雨上がりの草原よろしくまぶしい朝日にきらきらと瞳を輝かせた。

 昼食はいつものようにリリーとアレクシス様と私の三人で、ばら園のベンチでとった。リリーとアレクシス様はシャーベットの話で盛り上がって、私がそれをうらやましがった。

 アシュテンハインは王都と比べて冷涼で、こと冬に関しては極寒となる。氷菓子が流行るような土地でもないから実を言うと食べたことがないのだ。そう伝えると、リリーはおおげさに驚いていた。

 彼女の故郷では氷菓子はデザートの定番で、氷菓子を専門に扱う店もあれば、商店で気軽に購入することもできるのだという。この国では高級品だと教えると、すっとんきょうな声をあげて飛びあがっていた。

 氷菓子をつくるとなると基本的には氷の魔力を封じ込めた魔石を用いる必要がある。魔石はガラスや鉱物などに人工的に魔力を蓄積させたもので、ジェムランプもこの魔石の一種だ。しかし、日常的に使用されるジェムランプのような量産の製品と比べると、上質な氷の魔石はかなり高価になってしまう。

 氷魔法の扱いが得意なシェフなら自前の魔力で解決できるかもしれないが、そもそもシャーベットをつくれるくらい安定して魔力を扱える人材は料理人ではなく神官になったり魔法関係の仕事に就いたりする。ゆえにいまも昔も氷菓子はのままなのだ。

 日常はいつも通り生ぬるくて、談笑しているあいだはすべての悪夢が嘘に思える。そして会話が途切れたほんのわずかな瞬間にすっと胸が冷えて、ひどく悲しくなる。守らなければと思うと同時に、また失うかもしれない、という気持ちになる。でも、心がすこしでも動くうちはまだましなのかもしれない。飽きるほどくり返せばそのうち慣れて、感情自体が麻痺してしまうかもしれない。

 ただ、そんないつもの日常もいままでとはすこしちがう。私は私を見つめるアレクシス様に気づけば、ひっそりと彼のヘーゼルグリーンの瞳を見つめ返した。そしてときには私から視線を送った。

 クライルへのうしろめたさはほとんどなくて、あるのは荒涼としたもの悲しさだけだった。お気に入りの人形を物分かりよく手放すような、さびしさと切なさだけがずっと胸の奥にわだかまっている。

 私の心変わりにクライルが気づかないはずもなく、その日の夜、彼はわざわざ私に許可を取って邸をたずねてきた。アレクシス様のそばに控えているときは、つまり職務中なので、クライルがあけすけに私を見つめるようなことはない。それでもごく短いあいだだったり、視界の端だったり、彼が私を見守っているのは知っている。ちょっとした危機を予測して、たとえば私がほんのすこしの段差につまずけば、いつの間にかそばにいて無言で支えてくれる。


 ――いつでもそうだ。


 クライルはあの涼しく鋭いまなざしで私の心を読んでしまう。そしてなんでもないようにそばへきて、ほしい言葉をかけてくれる。

 私の部屋をおとずれたとき、クライルは硬い表情をしていた。怒っているように見えるが、これは緊張しているときの顔だ。


「どうしたの」


 私がなんでもないふうにたずねると、クライルはだまって軽く首を振った。

 私は彼をバルコニーに招いた。冷たい夜風がハリエンジュの香りを運んでくる。いつかの思い出の夜と同じ状況だった。クライルは欄干に手を添えて、だまって夜の庭を見渡していた。

 沈黙は決して気まずくはなかった。愛をささやきあうよりもずっと、お互いの想いを確かめ合えるように思えた。私たちはお互いに愛する人を手放そうとしているのだ。


「……十八になるまでに君の気持ちが変わったら、婚約を解消する約束になっている」


 私たちを包む夜を見つめながら、クライルは私に横顔を向けたままささやいた。


「……ええ」

「知っていたのか?」

「以前お父様が話しているのを、偶然聞いたの」


 いまさらなにも知らないふりをできる気がしなくて、そうごまかした。

 クライルは「そうか」とつぶやいてまただまり込んでしまった。


「どうして、いま?」

「伝えておくべきだと思ったんだ」

「……」


 私は困った顔をしてみせた。

 私とアレクシス様はこれまでも並んでいるだけで人のうわさになった。そこにアレクシス様を見つめるまなざしを加えれば、おおげさな振る舞いをせずとも自然に心変わりを表現できた。

 いつかの口づけをクライルはおぼえていない。彼はあくまで私の表情や仕草から心情を慮っているのであって、心そのものを読めるわけではないのだ。いままで無意識にクライルへ送っていた視線は、意識してアレクシス様へと向ける努力をした。そんな私のささいな態度や仕草の変化から、クライルは私の心が自分から離れつつあると自覚したはずだ。


「ずっと気づかないふりをしてきた。それに余裕もあったんだ。でも彼女があらわれてから、状況が変わった。アシュテンハイン卿との約束は君の十八の誕生日まで。あと半年逃げ切れば俺の勝ちだ。でも、そんなのは卑怯じゃないか」

「なんのこと?」


 クライルがなにを言いたいのか、私とクライルとアレクシス様の関係のことだとは思うが、はっきりと意図が汲み取れなかった。彼女があらわれてから、というのは、リリーのこと?


「……殿下はずっと君を思い続けてる。もしかしたらトレジエ元侯爵令嬢の騒ぎが起きる前から、ずっと」


 私がアレクシス様の気持ちに気づいたのはつい最近で、それも何度か時間をくり返してだというのに、クライルはとうの昔から感づいていたらしい。それでもこの話題を持ち出さなかったのは、私の関心がアレクシス様に向けられていなかったからで、そもそも私とアレクシス様の接点も限られていたからだろう。

 そして、たしかに、彼女リリーがきてから状況は変わった。私は毎日のようにアレクシス様と顔を合わせ、談笑するようになった。接点のすくなかったふたりの距離が一気に縮まったのだとも言える。

 リリーはアルセレニアを救うためにやってきた。そして運命はリリーと私をめぐり合わせて、私は彼女の折れそうな肩から、彼女の運命を引き受けた。リリーが私とアレクシス様の仲を勘違いしたのは、もしかしたら本来そうあるべきだったからと考えられなくもない。


「でも、私はあなたと……」 

「だから伝えておくべきだと思ったんだ。君は、君が望む未来を選んでいい。俺は……」


 クライルの青色の瞳が私を見つめている。クライルは熱の入りかかった声を飲み込んで、言葉を区切った。


 ――私が望む未来……


 ばらのとげだった。その言葉がチクリと胸を刺す。なにもかも望むままにうまく行く、そんな都合のよい未来なんて、でも、存在しないじゃない。


「君が幸せなら、それでいいんだ」


 クライルはひと呼吸おいてから、大人びたまなざしで言った。彼の声にも瞳にも嘘はなかった。

 私は口を引き結んでうつむいた。


「わたし……」


 いばらのつるが胸に絡んで締めつけられる心地だった。けれどこの問題をうやむやにしたまま先には進めない。ちがうやりかたがあるかもしれない。しかしそれを探すにしても、とにかくできることや思いつくことを試すしかなかった。


「小さなころ、俺をお兄さまとよんでいただろう?」

「……」

「君を思う気持ちはあのころから変わらない。いままでもこれからも、俺は君のお兄さまでいるよ、エリー」


 そうだ、私はずっとクライルとの距離感にとまどっていた。成長するにつれて、兄妹から恋人へと移り変わろうとするその変化をすんなりと受け入れられなかった。

 あの日の口づけをクライルはおぼえていない。時間がもどったのだもの。


 ――気づいていたのね。


 クライルは私がとまどっていることを知っていた。以前は自分の心境の変化を態度や言葉で示していたけれど、それもなければ、いまの私は彼の目には運命の恋を見つけた少女とでも映るのだろう。実際に私はそう振る舞ってきた。控えめにではあるが、アレクシス様に対する好意を示してきたのだ。


「ごめんなさい」


 私はうつむいたままささやいた。こみ上げた感情が喉につかえて、押し殺したような声になった。


「ごめんなさい、クライル」


 古代の人々はたとえば精霊の怒りを鎮めるために、生贄として愛する者を差し出した。そして精霊は供物を天秤に乗せ、それと等しい対価をもたらしたという。

 味わった苦痛のぶんだけ、いつか報われるなどというのは幻想だろう。しかし、もしかしたら、私がこの世で一番手放したくなかったものを手放したのだとしたら、報われなければ割に合わない。


「君はなにも悪くない」


 言い聞かせるように言って、クライルは子どものころそうしたように、ぽんぽんと私の頭をなでた。

 失望される覚悟をしていたのに優しくされて、とうとう涙がこぼれた。そのひと言がどれだけ私を救ったか、クライルは気づいていないだろう。

 ああ、ほんとうに、この人が好きだと思った。


 アレクシス様と結ばれるために、私はクライルとの婚約を自然に解消する必要があった。まんまとうまく行ったのに、その日はひどく悲しくて、ベッドに入ったはよいものの夜が明けるまでぼうっと天井を見つめていた。

 アメジストはびないけれど、曇ることも割れることもきっとある。けれど自分の弱さを知って、前より強くなれた気もしている。それでもこのまま打ちのめされ続けたら、そのたびにすこしずつひび割れて、いつか砕けてしまうかもしれない。そのときはいったいどうなるのだろう。


 ――私が立ち止まっても、時間は流れる……


 そして破滅の未来を回避するまで永遠にくり返す。時の牢獄に囚われたまま、永遠に……。

 真っ暗だった部屋に夜明けの気配がただよいはじめる。歴史に名を残す過去のセフィーラたちはみな、過酷な試練を乗り越えた。それは彼女たちの強い意志によるもので、いや、それとも、乗り越えざるを得なかったのかもしれない。

 いまと同じ仕組みなら、彼女たちがもう解放されたいと自ら命を絶ったとしても、時間が巻きもどるだけで円環からは逃れられない。錯乱してもおかしくないのでは、と他人事ひとごとのように思い浮かべた。

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