第十話(2)

 やがてシャルノンは神殿がリリーを迎えるために寄越した馬車で侯爵邸へと去り、邸には私とリリーだけが残った。そこへアニタが湯あみの支度ができたと伝えにきて、私たちは化粧を落とし、ラベンダーの香りのお湯を浴びて部屋着に着替えた。リリーと一緒に部屋へもどってからも、ほのかにラベンダーが香って、静かな夜が一層やすらかに感じられた。何度もくり返した今夜の悲劇が嘘のようだ。


「なにから話しましょうか」


 私はまだドアのそばに立っているリリーにそう投げかけてベッドに腰かけ、ぽんぽんと自分のかたわらをたたいた。リリーは緊張した様子で部屋を見まわしてから、ゆっくりと私のとなりに腰を下ろした。


「なんだか……豪華な修学旅行みたい」


 リリーはそう言って、そわそわと指を組み合わせた。


「修学旅行?」

「えと……私がここにくる前にいた世界の学校行事です。学年のみんなで旅行する行事、って言えばいいのかな」

「やっぱりあなたは異界からやってきたのね」

「そうみたいです。セフィーラっていうひとたちはみんなそうなんですよね。私なんかがこの国を救うなんて、そんな実感全然ないけど……」


 ここは私の部屋で学院ではないから、誰かに聞き耳を立てられることもない。リリーはおだやかな声で素直な心情を吐露した。


「私……」


 ささやいて、リリーは自分の指先に視線を落とした。なにかを言いかけて、迷っているようだった。

 リリーの言葉を待ったが、彼女はひらきかけた唇を閉ざしてしまった。


「きっと、孤独ね」


 私はセフィーラとよばれる女性たちの孤独な戦いに思いをはせながらつぶやいた。

 それは本来ならリリーの身に降りかかるもので、しかし実際はわが身に起こっている。私は偶然にもシャルノンというの相談役を得たが、歴代のセフィーラたちがみなそういった存在を得られたのかどうか定かではない。

 しかも彼女たちは異界からやってくる。家族も友人もいない見知らぬ土地に放り込まれて、縁もゆかりもないその国を救う聖女として信仰されるのだ。心をひらける相手が見つかればよいが、彼女たちの置かれる立場や状況を考えると容易ではないだろう。

 時間をかけて信頼関係を築いたとしても、時空転移が起これば振り出しにもどってしまう。そのときに彼女たちが得る喪失感は私の比ではないはずだ。

 リリーは驚いたように私を見て、泣き笑いのような顔をした。


「孤独。だから、私、全然自信はないけどこの世界にきてよかったって思ってるんです。エリーゼさんやアレクシス様と出会って、私がこの国を救えるならうれしいって思ったんです。私……なんて言ったらいいのかな。いまの私は十六才だけど、本当はもっと大人だったんです。だけどアルセレニアにきたとき、十六才の……高校生の私にもどってた。きっと私の時間は十六才でとまったんです。だから……だから、今度は後悔しないようにって、神様がチャンスをくれたんだと思ってて」


 私はゆっくりと語るリリーの言葉にだまって耳をかたむけた。まとまりはないが、ずっと胸に秘めていた思いなのだろう。

 私が困惑していると思ったのか、リリーは、えへ、とごまかすように笑って見せた。


「よくわからないですよね。変なこと言ってすみません」

「本当のあなたはいくつだったの?」

「……えっと……二十五才くらい……かな。なのにこんな子どもっぽくて、恥ずかしいですね」


 質問すると、リリーは一瞬面食らってからとまどいがちに答えた。


「それじゃあ私より年上ね。カティア様やデニス様と同じくらいかしら」

「あの……信じてくれるんですか」

「まあ。嘘なの?」

「嘘じゃないですけど……」

「あなたの時間が十六才でとまってしまったというのは、どういう意味?」


 セフィーラを、リリーを知れば、いま私を悩ませている現象を解消するヒントが見つかるかもしれない。そんな気持ちでとまどった様子のリリーに聞くと、リリーは表情を曇らせて視線を落とした。そして彼女は不安そうにぎゅっと両手を握り合わせた。


「なんて、言ったらいいのかな……その……十六才のとき、大きな事故があって……私、私だけ、生き残ったんです、他の人はみんな、なのに、私だけ」

「ごめんなさい。いいのよ、無理に話さなくて」


 私は浅い呼吸で語るリリーの手をとっさに握った。


「わ、私、助けられなくて、誰も。友だちも、小さな子も、誰も……。それからずっと、全部自分のせいのような気がして、つらくて、怖くて、閉じこもっていたんです。時間はどんどん進んでいくのに、私だけとまったまま動けなくて、そんな自分がいやで、でもどうしようもなくて……」

「事故だったなら、あなたのせいじゃないわ」


 そうリリーを励ましてはみたけれど、自分を責めずにいられない気持ちもよくわかった。


 ――私は私にそう言ってあげられるかしら。


 時間がくり返すのもリリーが死んでしまうのも、私のせいではないと言えるだろうか。言えたとしても、心から信じることはできるだろうか。いや、そう信じようとする自分に罪悪感をおぼえるかもしれない。

 リリーの華奢であたたかい手を握りながら、はからずして胸がつかえた。


「……」


 リリーは私のほうへ顔を向けて、悲しそうに微笑みながら小さく首を横に振った。


「それが私の後悔で、罪で、過去なんです。でも私はこの世界へきて、十六才にもどって、生まれ変わったから……こんな私が今度こそ誰かを守れるなら、ほんとうに救われるんです。この世界に昔の私を知っているひとは誰もいないけど、みんな親切で優しくて、エリーゼさんみたいな素敵なお友だちだっていてくれる……。だから私、みんなを、エリーゼさんを守れるなら、どんな試練だって乗り越えたい。もう絶対に、後悔したくないんです」


 おだやかに語るリリーの瞳には決意が宿っている。私はブラウンクォーツのようなリリーの瞳を見つめながら、だから彼女はセフィーラなのだ、と悟った。

 リリーは強がっているのでも、セフィーラとしての義務を語っているのでもない。誰かを守りたい、もう後悔したくない、それがリリー自身の悲願なのだろう。そうだとしたら言葉通り、彼女はどんな試練をも乗り越えようとするにちがいなかった。


 ――なにかしらの制約がはたらいて「リリー」からあなたに主体性が譲渡されたのかもしれません。


 シャルノンの考えが正しければ、いま私に降りかかっている困難は本来リリーが負うべき運命だったはずだ。しかしどこかでなにかが食いちがって、時空転移の主体が私に移ってしまった。

 努力はしているけれど、果たして私にリリーほどの覚悟があるだろうか。彼女に代わって私はすべてを救うことができるのだろうか。


「なんて、言うだけなら簡単ですね。なにが起こるかもわからないのに。私、弱虫だし、自信はないけど……でも絶対にあきらめないって、それだけは決めているんです」


 そう言ってリリーはいつものように笑った。

 この運命をリリーに返せたらそれが一番よいのだろうが、いったいどうすれば叶うのか皆目見当がつかない。リリーが言ったように、いまできるのはあきらめずに進み続ける、それだけなのかもしれない。


「あなたの力になれるように、私も努力するわ」


 リリーの悲願はいま、私に託されている。彼女の決意を聞いてしまった以上簡単に心折れるわけに行かなくなった、と思いながら、かすかに心が奮い立った。その気持ちのまま伝えると、リリーはまつ毛を伏せて微笑んだ。


「私……悪い夢をよく見るんです。どれもはっきりとはおぼえていないんですけど、うなされたり、泣きながら目覚めたり、ひどい悪夢だったという気持ちが残っていて。その夢のなかで、いつもエリーゼさんは私を助けてくれるんです」

「……」

「夢の話だけど……私にとってエリーゼさんはとても大きな支えなんだろうなって。あは、なんか重いですね。ちょっと気持ち悪いかも。ごめんなさい」

「いいえ。あなたの支えになれているならうれしいわ」


 シャルノンが言ったように、リリーにはくり返す時間の記憶がかすかに残っているのだろう。そう、本当にひどい悪夢ばかりだ。


 ――でも、いつも犠牲になるのはあなただわ。


 そんなもの悲しさをおぼえながら、私は微笑んでみせた。するとリリーは安堵の表情を浮かべて花がほころぶように笑った。


「私、エリーゼさんの幸せを心から願っています」

「それは私もよ。あなたは……もしかしたら自分が傷つくことをいとわないかもしれないけれど、あなたの幸福を願っている人間がここにいることを忘れないでね」


 私の言葉に、リリーは微笑んだまま大人びた目をして無言でうなずいた。

 そのあと私たちがかわしたのは、なんのことはない日常についてのとりとめのない会話だった。夜も更けてきたのでふたりで布団にもぐりこんで、眠りに落ちるまで途切れ途切れに小声でおしゃべりを続けた。


「私……ひとつだけおぼえている夢があるんです」


 私がうとうとしながら天井を眺めていたとき、リリーが低い声でささやいた。


「炎の夢……全部燃えてしまう夢なんです。私は一面の焦土を見渡して呆然と立ち尽くしていて……もしかしたらそれがこの国を襲う災厄なのかもしれないって……」


 たしかに聞いたと思ったけれど、そのときの私はほとんど夢うつつでリリーのささやき声がやけに遠く聞こえていた。

 そして私は焼け焦げた大地に裸足で立つ夢を見た。

 私以外なにもない、一面の焼け野原だった。空は暗く、地平のきわが赤く輝き、熱風がそよいでいた。すべてを焼き尽くした炎がまだ燃えているのだ。ただ茫然と立ち尽くしていた私だが、ふと友人たちの身を案じる気持ちが湧いてきた。


「リリー」


 乾いた唇で、私はリリーの名前をささやいた。


「私、できなかった」


 背後から聞きなれた声がして振り返ると、すすにまみれたリリーが裸足で立っていた。私がリリーと鏡のように向かい合うと、彼女の泣きはらした瞳から、か細い涙が伝って落ちた。


「ごめんなさい、エリーゼさん。わたし……わたし」


 そのとき、誰かが私の肩をたたいた。シャルノンだった。

 シャルノンはいつものやぼったい格好で、前髪のすきまから感情のない目で私を見つめた。そして彼は私の手に武骨な短剣を握らせた。


「さあ、時間をもどしましょう」

「……」


 私は炎を照り返して鈍く輝く刃を見つめたあと、リリーを見た。

 そうか、なにもかも燃えてしまった。これは失敗だ。だからやりなおさなければならない。そのためには――

 ハッと息を吸って目が覚めると、ベッドの上だった。小鳥のさえずりがして、うっすらと朝の気配がただよっている。

 となりでは背中を丸めたリリーがこちらに顔を向けてすやすやと眠っていた。


 ――時間がもどったわけではない。夢だわ。


 いやな夢だった、と思うと同時に、それはありうる未来なのだと胸に冷たいものが差した。もし災厄が本当におとずれて、とり返しのつかない状況になったとしたら、そのとき私は……。

 自分の体をやけに重く感じながら、なんとか身体を起こした。乱れた呼吸を落ち着けてリリーのおだやかな寝顔を見下ろす。そして、とにかくいまはひとつの夜を乗り越えたのだと自分に言い聞かせた。

 はじめておとずれる今日という朝を迎えて、つまり私は昨夜の悲劇を回避することができた。ほんのわずかではあるが前進したのだ。


 ――どうかこのまま、次の夜明けがおとずれますように……。


 夜明けのひんやりとした静寂のなかで、私はアルセレニアを見守っているであろう女神にそう祈った。いま見た夢のせいか、新しい朝に安堵するよりも、私の胸は未知への不安で満たされていた。

 神殿の祈りの作法にならって握った左手を右手で包み込み、自分の額に軽く押し当てる。リリーのために、アルセレニアのために、いいえ、自分自身のために。なにが起こっても、あきらめずに歩き続ける。それしかないのでしょう、女神さま。

 そう問いかけても女神からの返事はなかった。代わりにとなりで眠る女神の化身が「ふうん」と声とも息とも言い難いあいまいな音を出して、微笑んだように見えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る