第十一話

 ささやかな夜会の翌朝、神殿の使いがリリーの制服やかばんを持ってきたので、私とリリーはミュフラート邸から一緒に馬車で登校した。すると校門前がいつになく雑然として、馬車や生徒がしきりに出入りしているようだった。


「なにかあったんでしょうか」


 いつものように髪をおさげにしたリリーが馬車から降りるなりつぶやく。一見して感じ取れる程度に、校門前は何事か事件でも起こったような奇妙なせわしなさに包まれていた。

 私とリリーが周囲の様子をうかがっていると、見知った女生徒がひとり歩み寄ってきた。


「おはようございます、エリーゼ様、リリー様」

「ごきげんよう、フィリア様」


 時間をくり返しすぎてあらゆるできごとがいったいどの時間軸で起きたことなのかはっきりしなくなってきているのだが、フィリア様との関係はだいたいいつでも良好だ。それなりに交流するうち、彼女が大人しい印象でありながら物怖じしない気丈な性質であることもわかった。

 フィリア様はおっとりとあいさつしてから、安堵したような表情を浮かべた。


「昨日、おふたりはいらっしゃらなかったでしょう? 学院パーティーで事故があったんです。幸いけが人はなかったそうですが……」


 やはり事故が起こったのだ。フィリア様の言葉にひやりとしたが、けが人が出なかったのなら思いのほか事がうまく運んだともいえる。私がくり返してきた時間のなかでは常に複数の死傷者が出ていた。


「魔法ガラスに異常があったらしくて、設備点検のためにしばらく休講になるのだそうです。いましがた決まったそうでご覧の通りみんなとまどっていますの」

「しばらくというのはどれくらいかしら」

「サフィアン先生はひとまず一週間の休講だとおっしゃっていました。図書館は今日までやっているそうですわ。明日からは安全が確認できるまで、学院内は立ち入り禁止になるそうです」

「ずいぶん厳重なのね」

「けが人が出なかったのが不思議なくらいですもの。シャンデリアが落ちて、爆発もあったんです。ジェムランプが魔力過多を起こしたのだろうと推理しているかたがいましたわ。もしそうだとしたら、学院内の魔法ガラス製品が全部暴発してもおかしくないということですし……」


 言いながらフィリア様は門の向こうに見える学舎を振り返った。もしそうなったとしたら大惨事だ。燃え盛る学舎を想像して、冷たいものが背すじを這った。


「何事もないといいですね」


 同じように学舎を振り返ったリリーがいつもの無邪気さを消して真剣な表情でつぶやいた。その横顔が私にはやけに大人びて見えたのだが、フィリア様には不安げな様子に映ったらしい。フィリア様は優しい声でリリーを励ました。


「大丈夫ですわ、リリー様。そのための点検ですもの」


 そしてほんのすこしためらってから、フィリア様はおずおずと言葉を続けた。


「あの……もしよろしかったら、ドゥーゼにいらっしゃいませんか。花まつりの時期なんです。昨日の夜のことは、私もすこし動揺していて……一週間もお休みがありますし、休養をかねて帰ってみようと思っているんです」

「ドゥーゼの花まつりか。それは気分が晴れそうだね」


 フィリア様がリリーを気づかって郷里への旅に誘ったところで、おだやかな男性の声がした。フィリア様がはっと振り返って会釈する。


「アレクシス様」

「やあ、おはよう」


 朝の白い陽ざしを背負って、アレクシス様はいつものように微笑んだ。うしろにはクライルとデニス様が控えていた。

 ふとクライルと視線がまじわると、彼はぎゅっと口を引き結んで急にむずかしい顔をした。どうしてそんな顔を、と思ったけれど、よく見ると唇の端がひくりとひきつっている。どうやら笑顔になりそうなのを我慢しているらしかった。


「ドゥーゼならそれほど遠くない。せっかくの機会だ、行ってみようか。優秀な護衛がいれば旅もなお安全だろう」


 アレクシス様はそう言ってちらりとクライルたちを振り返った。


「えっ……あの、アレクシス様もご一緒に、ですか」


 もちろんこれに一番とまどったのはフィリア様で、さすがに声に動揺があらわれていた。眉間を寄せたクライルが口をひらきかけたとき、リリーが突然ポンと手を打った。


「そうですね! みんなで行きましょう!」


 いったいなにをひらめいたのか、リリーはそんなに大きな声を出す必要があるだろうかという声量で、おおげさな抑揚をつけて言った。

 リリー本人に自覚はないが、彼女はこの場でアレクシス様に次ぐ権力を有していると言っても過言ではない。先手を打たれたクライルは小言を飲み込んだらしく、やれやれといった顔でひらきかけた口を閉じた。


「……」


 リリーが私のほうを向いてにやりとうれしそうに笑う。アレクシス様が同行するなら、必然的に護衛のクライルたちも同道することになるから……そうね、たぶん、クライルと私の時間が増えると思って手をたたいたのかもしれないわ。

 無邪気さをとりもどしたリリーが愛おしくて、つられるように私も笑ってしまった。


 そうして私たちは休暇を利用してドゥーゼ子爵領のラナスタという町をおとずれて、フィリア様の生家であるドゥーゼ子爵邸に滞在することになった。

 ドゥーゼの花まつりは春の終わりから初夏にかけて領内のすべての町でひと月に渡って催される。花まつりのあいだは町中が季節の花で彩られて、通りには露店が並び、多くの旅行者でにぎわう。また王都から子爵邸が置かれているラナスタの町まで馬車で半日ほどだから、ドゥーゼ領は王都から気軽に行ける旅行地としても人気が高い。

 ドゥーゼの花まつりは子どものころにも何度か連れてきてもらったことがある。ドゥーゼは冷たく荒々しいアズル海に面したアシュテンハインと比べて驚くほどのどかで、また領民たちもみな柔和な表情をしている。都会的な華やかさと牧歌的なおだやかさが両立されているといえばよいのだろうか。幼心にまるで夢の国をおとずれたようだと感動したのをおぼえている。

 もう何年も昔の記憶だが、久々におとずれたラナスタの町は相変わらず華やかで、そしておだやかだった。甘い花の香りに満ちたあたたかなそよ風に吹かれていると、憂鬱な現実をうっかり忘れてしまいそうになる。


「今年もにぎやかだね」

「毎年いらっしゃるのですか?」

「いや。花まつりの時期にたずねるのは久しぶりだよ。あれはいくつくらいのころだったかな……」


 私の質問に答えて、アレクシス様はすこし遠い目をした。

 人でにぎわう大通りをアレクシス様と並んで歩く。私たちのすこし前をリリーとフィリア様、それからカティア様が談笑しながら歩いて、デニス様とクライルが私とアレクシス様のうしろをだまってついてきている。


「私も子どものころにきたきりで、そのときはアシュテンハインとあまりにちがって驚きました」

「たしかに、風土がまったくちがうからね」


 アレクシス様ととりとめのないやりとりをしていると、リリーたちが立ち止まって花かごを持った若い女性から花を受けとり、私たちを振り返った。


「おふたりもこれを。クライル様とデニス様も」


 フィリア様がひとりひとりに花を配りはじめる。そうして彼女は、通りのまんなかにある白い石造りの噴水を示した。


「花を噴水に浮かべて願いを唱えるラナスタの伝統です。花を浮かべたら目を閉じて願い事をしてください。願いは声に出しても、心のなかで唱えるのでもどちらでもかまいません」


 フィリア様がそう説明するあいだに、旅行者らしき男女が噴水に花を浮かべて祈りをささげる。私たちは誰ともなく顔を見合わせた。まず進み出たのはリリーだった。

 リリーは野うさぎのようにぴょこぴょこと躍り出て噴水に花を浮かべ、胸の前で両掌を合わせて目を閉じた。私たちの作法とはちがうけれど、それが彼女にとっての祈りの姿なのだとはっきりわかった。

 リリーの向かいで若い娘たちがきゃあきゃあと楽しそうに恋の願いを唱えている。その対比のせいか静かに祈るリリーの姿がやけに神々しく見えた。


「どんな願いでもかまいませんけれど、恋の願いは特に叶うといわれていますわ」

「えっ、俺、いや」


 補足したフィリア様の視線が偶然にもデニス様とかち合って、デニス様がうろたえはじめる。カティア様との仲で悩んでいるはずだから、はからずして核心を突かれてしまったようだ。


「それなら良縁でも祈ってみましょうか」

「そっ……」


 カティア様が冗談まじりにつぶやくとデニス様がなにかを言いかけて口をつぐんだ。


「そ?」

「うるさい、だまってろ」


 デニス様をクライルがからかって、私とアレクシス様がくすくすと笑う。いままでの悪夢が嘘のようにおだやかな時間だった。ただただこんな毎日が続けばよいと、私だけではなくきっとこの町の、この国のすべての人がそう思っているはずだ。

 もどってきたリリーと微笑み合ってから、私も噴水へ歩み寄り水面にそっと花を浮かべた。すこし遅れてアレクシス様とクライルが私と並んで花を手放した。


 ――おだやかな日々がずっと続きますように。


 そう祈ってから顔を上げてとなりに視線を向けると、アレクシス様とクライルはまだ祈りの途中のようだった。ほどなくしてゆっくりと瞼をひらいたアレクシス様が私の視線に気づいて振り返り、クライルと私の顔を見比べながらいつもの優しいまなざしで微笑んだ。


「君たちの幸福を」


 私は「ありがとうございます」と答えながら、なぜか安堵した。ディオの一件があったからか、恋という名の執着に必要以上に怯えているのかもしれない。

 花まつりの幸福感に満ちた空気のなかで、このままおだやかな未来がやってくるような気がしながら、しかしあまりにも平穏すぎるがゆえに次はどんな悲劇が起こるのかという不安が芽生える。不安は胸の奥で葉擦れのようにざわめいて、焦燥に似たそれを落ち着けようと思わず息をついた。

 そのとき、クライルが表情なくこちらを見つめていることに気がついて、私は動揺を隠すように微笑んだ。



「エリーゼ様」


 早めの晩餐を終えて割り当てられたドゥーゼ子爵邸の客室で休んでいると、ノックとともにカティア様の声がした。「どうぞ」と応じるとカティア様が顔をのぞかせる。


「すこし散歩しませんか。庭がとてもきれいなんです」

「それならリリーも誘おうかしら」

「リリー様はお出かけになりましたよ」

「出かけた?」

「ええ。クライルがついて行きました」


 期間のあいだ、花まつりは昼夜を問わずに続く。滞在中に夜の町も見に行こうと話していたけれど、リリーがひとりで出かけるなんて奇妙だわ。

 カティア様は私の疑問の表情に気づいたはずなのに、それ以上説明してくれなかった。それとも彼女も詳しくは知らないのかもしれない。


 ――妙だわ。


 百歩譲ってリリーが気まぐれに出かけたくなったとして、それにクライルが付き添うというのも妙だ。そもそもこんな状況のとき、いつもならクライルは自分は屋敷に残ると主張して、結果としてカティア様かデニス様がリリーの護衛につくことになる。

 カティア様が突然部屋をたずねてきて私を散歩に誘うというのも不自然といえば不自然だった。カティア様とはそれなりに親しいつもりだけれど、彼女はあくまでアレクシス様付きの騎士であって、私の友人ではない。


「すこし寒くなりましたから、上着を」


 カティア様がクローゼットから薄手の羽織をとりだして手際よく私の肩にかける。是も非もない。私は散歩に行かなければならないのだ。一抹の不安を胸によぎらせながら、私は上着の胸もとをかき合わせた。

 部屋を出て、派手すぎない品のよい絨毯を踏みしめながらカティア様とともに庭園へと向かう。カティア様は私の前を歩いて、私は彼女の背中を見つめながらついて行った。


「はじめておとずれましたが、よい町ですね」


 カティア様はいつもの口調でそう言って、それきりだまってしまった。私と散歩に行くという雰囲気ではなくて、ただ私を庭園へ連れ出そうとしているように感じられる。


「あの……私、やっぱり」


 ためらって足をとめると、カティア様がゆっくりと振り返る。彼女は困り笑いしながら軽くため息をついた。


「あなたへの贈り物を選びたいからと、クライルがリリー様を連れ出したしたんです。ばか正直だから、彼なりのけじめなんでしょうね……」


 涼しい顔だちのせいで冷淡な印象を与えがちなクライルだが、それはあくまで外見の話だ。

 先夜のバルコニーでの告白のとき、自分で言っていたように、クライルは焦りから私との結婚を急いだ。もともと私は彼の婚約者だし卑怯でもなんでもないのに、クライルとしてはそれがアレクシス様に対して公正ではない、不誠実であると思われるのだろう。それは最近のクライルの態度から十分感じ取れていた。

 つまりクライルは私とアレクシス様がふたりで話す時間をつくるために、騒ぎそうなリリーを連れて出かけたのだ。


「……はい」


 私は小さくうなずいて、カティア様と一緒にふたたび歩き出した。そしてついに薄闇に包まれた庭園へとたどり着いた。


「きてくれないかと」


 薔薇の香りに満ちた夜の庭で、私を待っていたのであろうアレクシス様が振り返った。愚鈍な人ではないから、アレクシス様も私やクライルがすでに彼の気持ちに気づいているとわかっているのだろう。


「見事な庭だ。明かりをちりばめて夜も楽しめるようにしているそうだよ」

「幻想的ですね」


 子爵邸の庭園は花の町をうたうラナスタに相応しく、見事に整備されている。庭木の合間にちりばめられたランタンや小ぶりのジェムランプの灯りが草木に憩う妖精のように見えた。


「寒くないかい?」

「大丈夫です」

「すこし歩こう。カティア、君も一緒に」


 アレクシス様はそう言ってカティア様を振り返り、カティア様もうなずいた。


「誠実に、不誠実を返すわけにはいかないからね」


 歩き出しながらアレクシス様はそう微笑んでみせた。

 クライルとアレクシス様のあいだには確固とした信頼がある。おそらくそれは、たとえば私やほかの誰かが立ち入って簡単にかき乱せるほどもろくないのだ。

 前を向き直したアレクシス様の横顔が暗がりにうっすらと浮き上がって、そのまなざしを見て、ふと彼らの関係がうらやましくなった。自分がふたりの不仲の原因になりはしないかという懸念がなんとも自惚れで、すこし恥ずかしくもなった。


「君とはじめて会ったのも、こんな春の庭だった」

「ええ。天気のよい日でしたね。アレクシス様の髪がきらきら光って、なんてまぶしい人だろうと思ったのをおぼえています」


 夜の庭園を歩きながら、私は小さなジェムランプを見つめて遠い日の記憶に思いをはせた。まだ幼い少女のころ、私はアレクシス様の婚約者となったシュゼット様と一緒に登城し、そこでアレクシス様とはじめてお会いした。

 しかし思い出話をするにしても、シュゼット様の名前を出すのははばかられた。

 こともあろうに彼女はアレクシス様の護衛を務めていた近衛騎士のひとりと駆け落ちしたのだ。


「君だと思ったんだ」


 つる薔薇のアーチを抜けると、小さな東屋があった。そこへ私をいざないながら、アレクシス様が言った。


「……?」


 私が疑問の視線を向けるとアレクシス様はどこか照れくさそうに、子どもっぽい微笑を浮かべた。


「私の称号は『夜明けの光』だろう? 常にみなを導く光であるように、幼心にそれを強く胸に刻んで生きてきた。ただ自負するあまり、張りつめすぎていたと思う。あるときふと思ったんだ。夜明けを迎えるためには夜が必要なのに、私のやすらぎはどこにあるのだろう、やすらぎをどこに求めたらよいのだろう……そんな悩みを抱いていたとき、婚約が決まった。そしてはじめての顔合わせで、まず目に入ったのが君だった」


 白く塗装されたベンチに並んで腰かけて、私はアレクシス様の思い出を聞いていた。

 そう、あの日、臆病なシュゼット様はずっと私のうしろに隠れていた。なにを話したかは忘れてしまったが、隠れたシュゼット様のかわりに私がアレクシス様と二、三言、言葉をかわした。


「私は君を夜だと思った。きっと髪の色のせいだろう。君は星屑を散りばめた、やすらぎの夜なんだと思った。ぼくはすっかり舞い上がってしまって、誤解が解けたのはなんとひと月後だった」

「たしかお茶会にお招きいただいて……」

「そう。その席で私は自分の婚約者は君ではなくシュゼットで、君にはすでに将来を誓った相手がいると知った。私の淡い初恋はひと月にして打ち砕かれたわけだね」


 アレクシス様は笑い話でもするようにおもしろそうに語った。そしてかすかに皮肉がまじったような息をついて、ひとときの沈黙がただよう。カティア様は私たちに背を向けて、東屋からすこし離れたところに立っていた。


「もちろんシュゼットがいやだったわけではないよ。彼女は控えめで優しいひとだった。彼女とすごした時間はたしかに、私が求めていたやすらぎだったと思う。彼女とのことは……私にも非があったんだ。私は彼女にやすらぎを見出しながら、それでもどこか一線を引いていたし、胸の底で君と比べてしまうときもあった」

「……」

「あのとき、偶然、君たちの会話を聞いていたんだ。シュゼットとエヴァンのことは気づいていたから、シュゼットが君に秘密の恋を打ち明けても驚きはしなかった。それよりも、君が怒ってくれたのがうれしかったんだ。それで、気がつかないふりをしていただけで、自分が傷ついていたのだと知った」


 星のように明滅する小さな明かりを眺めながら、アレクシス様はいつかのできごとを語った。

 昼下がり、学院の人気のない庭でシュゼット様が私に秘密を打ち明けて、私は彼女に強く反発した。私たちは幼いころからの友人で、シュゼット様からすれば肯定してもらえると思ったのだろう。

 それから数日後にシュゼット様は恋人のエヴァン様と駆け落ちして、私たちの友情はそれきりになった。私との口論がシュゼット様の出奔のひとつの要因だったかもしれない。けれどあの日反論したことをすこしも後悔はしていない。

 友人だったからこそわかる。シュゼット様は恋にあこがれていただけなのだ。恋に盲目になって、アレクシス様を傷つけている自覚もないまま邪魔者扱いした。私はアレクシス様がどれだけシュゼット様に歩み寄ろうとしてくれているかを知っていたから、やるせなくてしかたなかった。


「シュゼットを責められない。あのとき、君しかいないと思った。私のとなりに寄り添う人は君がいいと思ってしまったんだ」


 私はだまってうつむいた。夜風が控えめに草木をゆらして、それ以外に音はなかった。花まつりのにぎわいも庭園の隅までは聞こえてこない。


「クライルの気持ちがよくわかるよ。だから彼から君をうばおうとは思わないし、君から彼をうばおうとも思わない。……いまは」


 アレクシス様が物騒なささやきをつけ加えたので思わず顔を上げると、彼はいつものおだやかな表情でこちらを見ていた。目が合うと、アレクシス様は困ったように笑った。


「素直に君たちを祝福しているつもりなんだ。でも、自分で思っているより深刻らしくてね。無意識にどうしたら君が手に入るか思案しているときがある。そして我に返って、自分がおそろしくなるんだ。たぶんクライルはそういう私に気づいていて……君にこれまでの思いを打ち明ける時間をつくってくれたんだろう。君にとっては迷惑だろうけど、すこしすっきりしたよ」

「……どうお答えすればよいのか……すみません、思いつかなくて……」

「いいんだ。出会ったあの日から、ずっと君が好きだったと……そういう自分の幼い気持ちを君に知ってほしいと、甘えているだけなんだ。困らせて、すまない」


 私はだまって首を横に振った。どんな言葉をかければよいか、ほんとうにわからなかった。

 私はアレクシス様を敬愛している。彼に愛されたらどんなに幸福だろうかと想像できる。だからアレクシス様の愛情をないがしろにしたシュゼット様が許せなかった。そしてこのひとに幸福になってほしいという強い気持ちもある。

 もしクライルがいなかったら、もし私のなかにクライルを思う感情がなかったら、きっと私はアレクシス様の手をとっただろう。誰より優しくて、孤独を隠した、このひとのやすらぎの夜になろうと思ったはずだ。でもそれを伝えても、なぐさめにはならない。もしもの話なのだから。

 ふとディオのことを思い出して、クライルもアレクシス様も自分の感情との折り合いのつけかたを知っているのだ、と思った。ディオはそれができなくて自死を試みたり、心中を企てたりした。もしかしたら、執着は秘めれば秘めるほど日に日に強くなるのかもしれない。


「……心残りはありませんか」


 今夜がアレクシス様にとってひとつの区切りになるのなら、と思いながら私は静かにたずねた。


「君にはかなわない」


 アレクシス様は困ったように笑って、それからすこしうつむき、ゆっくりと顔を上げた。


「カティア」

「はい」

「クライルにはだまっていてくれ」


 アレクシス様が席を立って、私に向かって手を差し出す。その手をとって立ちあがると、そのまま強い力で引き寄せられた。アレクシス様は今生の別れでも惜しむかのように私をきつく抱きしめた。

 私はクライルよりも華奢なアレクシス様の背中に腕をまわして、同じように彼を抱きしめた。


「これで、心から君たちの幸福を祈れるよ」


 すがりつくように私の肩に顔をうずめてアレクシス様がささやく。


「私もアレクシス様の幸福を願っています」

「……ありがとう」


 夜風で冷えた身体があたたまるまで、私たちはだまって抱き合っていた。

 これから先、アレクシス様が心を許せる伴侶と巡り合えるかどうかはわからない。アレクシス様の立場上、愛情のともなわない婚姻を強いられる場合もあるだろう。それを思うと胸が痛んだ。

 それでもクライルを忘れてアレクシス様の気持ちに応えることはできない。自分にもアレクシス様にも不誠実だ。そして、もし私がそれを選んでもアレクシス様は両手放しではよろこばないだろう。


「すこし早いけれど、結婚祝いに」


 東屋を離れて邸のそばへもどってくると、アレクシス様が小箱を差し出した。


「願いが叶う石だそうだよ。お守り代わりになればと思って」

「ありがとうございます」


 箱の形状からして首飾りだろう。素直に受けとるとアレクシス様はいつものように微笑んだ。


「それじゃあ、おやすみ」

「おやすみなさい」


 何事もなかったかのように、いや、お互いに何事もなかったように装って別れると、私はカティア様をともなって部屋へもどった。カティア様は私を送り届けるとすぐに部屋を去って、私は客室にひとりきりになった。

 ほんのわずかに放心してから、私は上着を脱いでベッドに腰かけた。


 ――人の気持ちというのは、ままならないものだわ。


 ふうと軽くため息をついて、それでも暗い気分にはならなかった。これでアレクシス様の気持ちに区切りがついてくれたらいい。叶わない思いを抱え続けることほどつらいものはないもの。

 そのままベッドに横になって天井を見上げる。静かな夜だった。なにをするでもなく静寂に耳をかたむけていると、気疲れしたのかそのうちうとうとしはじめて、そのまま眠ってしまった。

 そしてまた、何度見たかわからない焼け焦げた大地に立つ夢を見た。

 私はクライルを探して裸足で焦土をさまよっていた。行けども行けども景色は変わらず、消し炭になった焼死体がそこらじゅうに転がっている。クライルはとうとう見つからず、私は結局ぐったりしたリリーとうなだれるアレクシス様に行きあたった。

 投げ出されたリリーの白い手から、銀色のチェーンがこぼれている。いつか見た夢と同じだ、と思っているとどこからかシャルノンがあらわれて、ペンダントを拾い上げた。そしてそれを私に向かって差し出した。

 受けとると銀の鎖に、小ぶりの赤い宝石がひとつ輝いている。そうだわ、いつか図鑑で見たあの石――

 自然に目が覚めると、もう明るくなっていた。予感とともにベッドを抜け出して、私は昨晩アレクシス様からもらった小箱を手に取った。おそるおそるひらいてみると、夢で見たのと同じ赤い宝石を使った銀のチェーンのペンダントだった。

 ドッと胸をたたきつけられたような感覚がして、よろめきながら椅子に腰を下ろす。


 ――炎の夢……全部燃えてしまう夢なんです。私は一面の焦土を見渡して呆然と立ち尽くしていて……もしかしたらそれがこの国を襲う災厄なのかもしれないって……


 リリーの言葉が甲高い鐘のような音になって頭に響いた。そしてその瞬間に、いつのできごとかわからない記憶が押し寄せてきた。


 ――あれは、夢じゃない。


 根拠はない。けれどそう直感して、私はふるえる手でペンダントを小箱にもどした。

 リリーが言ったように、あの炎の記憶こそがアルセレニアを襲う災厄なのだ。炎はすべてを焼いて、想像を絶するほどの犠牲者を生む。そして私は焦土をさまよい、ぐったりとしたリリーを見つける。そして、そして……


「わたしには、できない」


 悲劇を何度もくり返して、剣を握ってうずくまるリリーを見て、私は……


「私がやってあげる」


 そう、だから、私が時間をくり返すのは……

 激しい頭痛に襲われて、私はふらふらとベッドにもどった。夢なのかそれとも記憶なのか、断片的なシーンがぐちゃぐちゃと頭のなかに氾濫している。

 いま自分を襲っている苦しみが夢かうつつかもわからないまま、私は眠りに落ちるように意識を手放した。

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