第九話

 これで何度目だろう。

 ふたたび謹慎が明けて、私はまたリリーと出会った。彼女は私をおぼえていなかった。シャルノンと私以外、すくなくとも私が顔を合わせる誰かは、誰ひとりくり返しに気づいていない。

 学院パーティーの日、私がアレクシス様のダンスを断るとシャンデリアは落ちてこなかった。その代わり魔法ガラス製のシャンデリアから火の魔力がもれて、それにろうそくの火が触れて爆発した。天井が崩れるほどの衝撃だった。そしてリリーはまた私を突き飛ばして、倒れてきた柱の下敷きになった。

 その次は、私は仮病を使ってパーティーを休んだ。すると知らないうちに勉強机の前にもどされていた。私が参加してもしなくても、学院パーティーで事故が起こるらしい。

 私がリリーのドレスをつくらないことにすると今度はアレクシス様が仕立ててしまう。こうなるとリリーが学院パーティーへ参加しないよう、なにかしらの手を打つ必要があった。

 そこで私は自邸でのちょっとした夜会を持ちかけた。そのほうがリリーも気楽だろうし、まずは練習をしましょうとつけ加えると、私の提案は難なく受け入れられた。

 ミュフラート邸でのパーティーには、リリーのためにアレクシス様がお忍びでいらしてくださることになって、短いながらも楽しい晩餐会が執り行われた。リリーはアレクシス様とダンスの練習に取り組んで、お手本にとデニス様がカティア様の手をとった。

 そしてパーティーがおひらきになって、リリーは神殿が寄越した迎えの馬車で侯爵邸へ帰って行った。これで明日がやってくると安堵したのも束の間、気づいたときには私の目の前には興国史がひらかれていて、となりにシャルノンが座っていた。


 ――どうしたらいいの。


 唯一の幸いは、クライルとシャルノンとともに魔狼ワーグに襲われた一件以来、バラ園へ向かう回廊で脅威に遭遇しなくなったことだろうか。死霊文字のメモも見つからなくなったので、あの場所でシャルノンと鉢合わせるのもあれきりだった。

 朝起きて靴を右から履くとフィリア様に会って、左から履くとミモザ様に会う。そんな具合に、ささいな言動のちがいが影響することもわかったから、ディオに関しては私が無意識にとった行動がよい方向にはたらいているのかもしれない。

 リリーの死を回避するために事前にホールの点検を提案をしたときもあったし、思いつく限りの対策と変化を試した。それでも学院パーティーの日に、学院パーティーに参加してもしなくても、リリーは必ずなにかしらの事故に巻き込まれて死んでしまう。


 ――失敗しても、どうせもどるわ……


 くり返すリリーの死に、感覚が麻痺してくる。彼女を失うのがあんなにつらかったはずなのに、最近は倒れたリリーを見て、ああ、また、とうんざりした気分にさえなる。


「大丈夫ですか」

「……」


 興国史の九十八ページを前にして、私はシャルノンの問いかけを無視した。それほど案じてもいなそうな、淡々とした声だったからだ。

 私は興国史を閉じて額を押さえた。終わりが見えない。


「頭がおかしくなりそう」


 自分を我慢強いほうだと思っていたけれど、過信だったのかもしれない。泣きわめきたい気分になりながら、私は弱音をもらした。


「たまには気分転換をしてみては?」

「あなたはのんきでいいわね」


 のんびりと言うシャルノンに腹が立って、きつい口調になる。


「気は長いほうなので」

「そうね、私は短気だものね!」


 やつあたりなのも、シャルノンに悪意がないのもわかっているが、かちんときて机をたたいてしまった。思ったよりも大きな音が響いて、バサバサと小鳥たちが飛び立つ音がした。


「……ごめんなさい。やつあたりなの」


 自分に幻滅しながら、私は小さな声で謝った。


「今夜の授業はやめましょう。ゆっくり休んでください。明日はいつも通りおうかがいできないので、明後日顔を出します」


 シャルノンがいつもと変わらない声で言って、椅子を立つ。私はうつむいたまま遠ざかる足音を聞いていた。


「ご自分を責めてもしかたありません。もとより、あなたのせいではないのですから」


 シャルノンは私の背中にそう声をかけて部屋を出て行った。

 私は唇を噛みしめて、込み上げてきた涙をこらえた。私を気づかうシャルノンの言葉が傷口に突き刺すようにしみた。

 時の円環をつくりだしたのは私ではない。シャルノンの説をとればリリー――セフィーラの力によるものだが、もしそうでなかったとしても、そもそも私に時空を操るような力はない。

 時空を操る魔導師はおとぎ話には登場するが、史実にはひとりとして名を残していないから「セフィーラの円環」説は非常に有力だ。

 では、セフィーラの力が時空を操っているなら、リリーが悪いのかといえばそういう問題でもない。セフィーラはアルセレニアを悲劇から救うためにあらわれる。この円環はアルセレニア、そしてアルセレニアに生きる私たちを救うために生じたはずなのだ。


 ――……アルセレニアを救うために? いったい、なにから?


 そう気づいて、私は興国史の表紙を見つめた。「アルセレニアを救う」という大仰な表現を用いるほどの災厄に、私はまだ遭遇していない。

 扉をたたく音がして、アニタが入ってくる。私は目じりにたまった涙をさっと指でぬぐった。


「お嬢様。お茶をお持ちしました」

「……ありがとう」


 アニタを振り返って、オールド・ミストのスモーキーな香りに包まれながら、私はシャルノンの言葉を胸のうちでくり返した。


 ――たまには気分転換をしてみては?


 いままで、リリーの死を回避しなければと躍起になっていた。たしかにそれは円環を抜け出るための条件で、しかしそれがすべてではないのかもしれない。


 ――人は、思い込みでものを見るものだ。


 勝手な思い込みをして、私は大事なものを見落としているのではないだろうか。


「今日はお嬢様のお好きなアイシングケーキを」


 言いながら、アニタが丸テーブルにレモンアイシングのケーキを置く。


「お嬢様?」

「……ええ。ありがとう」


 アニタの手もとをぼうっと見つめていた私は、我に返って丸テーブルに移った。


「ねえ、アニタ」

「なんでしょう」

「クライルがたずねてきたら、通してくれないかしら」

「かしこまりました」


 私が頼むと、アニタは優しく微笑んだ。

 気まぐれなくらいまったくちがうことをしてみよう、という気持ちになりながら、私は砂糖がけのケーキにフォークを差し入れた。アイシングがシャリっと音を立てて割れる。


「あと、ケーキをもう一個食べたいわ」



 私はの午後を書斎ですごした。本棚の端から背表紙をなぞって、ひとつひとつタイトルを読みながら歩く。祖父母や両親が集めた本のなかに私が子どものころ気に入っていた絵本やねだって買ってもらった冒険小説が混じっていて、懐古的な心地になった。

 そのうち陽が落ちて文字が読めなくなってくると、私は子どものころ買ってもらった鉱物図鑑を引き出して、書斎のソファに腰かけた。 そして図鑑をひざに乗せたまま、なにをするでもなく暗い部屋にぼうっと座っていた。


「お嬢様?」


 アニタの不安そうな声で我に返って、振り返る。


「明かりもつけずに……」


 アニタが壁の紋章に触れて、ジェムランプに灯が入る。書斎がぼんやりと明るくなった。アニタはなにか言いたそうな顔をして、けれど言葉を飲み込んだようだった。


「クライル様がいらっしゃいました」

「ええ……私の部屋に案内してちょうだい。お茶をお願い」

「かしこまりました」


 去って行くアニタを見送って、私は腰を上げた。窓の外はすっかり夜になっている。いつの間にこんなに暗くなったのだろう。

 私は鉱物図鑑を持って書斎を出た。階段をのぼり二階の自室へもどると、アニタが丸テーブルにお茶の用意をしていて、クライルはバルコニーを眺めていた。

 クライルはいつでもまっすぐ背すじを伸ばしている。今日の務めは終わったのか、それとも休憩時間だろうか。騎士服姿の背中を眺めながら、転んだ私を負ぶってくれたときの幼いうしろ姿を思い出した。

 視線に気づいたのか、クライルが振り返る。


「ごゆっくりどうぞ」


 お茶の支度を終えたアニタが頭を下げて出て行く。

 私とクライルは立ったまま、しばし無言で向かいあった。そうよね、ずっと訪問を拒んでいた私が急に招き入れたのだから、クライルだってとまどうわね。


 ――なかったことになってしまったものね。


 何度もくり返した日々は、クライルのなかには残っていない。目の前に立つクライルは、私が選ぶドレスの色を知らないのだ。


「このあとは、お城にもどるの?」

「ああ」

「それじゃあ忙しいわね。ごめんなさい。お茶くらいは飲んで行ける?」


 聞きながら、私は目をそらして図鑑をテーブルに置いた。


「特別、用があるわけではないの。ただ……」


 会いたかっただけ、とささやく前に、クライルが私の手を引いて自分の胸にすっぽりと収めてしまった。


「ちゃんと食べてるのか」

「今日はケーキをふた切れ食べたわ」

「全然足りない。ずいぶん痩せた」


 クライルの抱擁は、抱きしめるというより、すがりつくようだった。

 氷の貴公子のわりに、クライルはあたたかい。そう思うとおかしくて、私はくすくすと忍び笑いをもらした。


「笑っている場合じゃない」


 クライルは咎めるように言って、私を抱く腕に力を込めた。


「……あなたでよかった」


 くり返した日々を思い返しながらささやいて、私はクライルの胸に体重をあずけた。

 何度くり返しても、クライルはいつでもまっすぐ私を見つめてくれる。そして私の味方でいてくれる。そして、私を抱きしめてくれる。

 あふれそうになる涙をこらえて、私はあたたかな胸に頬を押しつけた。


「私、冷たい人間なの」


 私は何度もリリーを死なせた。何度も何度も無意味な死を彼女に与えた。それなのに、今日目覚めて「ああ、また」とうんざりしたのだ。リリーは私をかばって何度も命を落とした。それなのにうんざりして、目の前の現実から逃げてしまいたいとさえ感じているのだ。


「君は、あたたかいよ」


 クライルは私を強く抱きしめて、とても優しくささやいた。

 あたたかいのはあなただわ、と思いながら、しばらくのあいだ私は彼のぬくもりに身をゆだねていた。

 やがてすっかり冷めた紅茶を残して、クライルは公務にもどって行った。

 私はアニタに頼んでスープを部屋に運んでもらい、遅めの夕食を終えると、早々にベッドに寝そべった。冷たいシーツにもぐりこむと、クライルがいればいいのにという気持ちになる。そうすればあたたかいのに。

 私は枕もとに置いたランタン型のジェムランプの明かりをつけて、鉱物図鑑の表紙をひらいた。


 ――アメジストを調べたくて買ってもらったんだわ。


 旅の詩人が私の髪を「夜を飲み込んだアメジスト」とうたったその日、いったいどんな宝石だろうとベッドのなかで夢想した。

 図鑑にえがかれた石はどれも繊細な彩色がほどこされていて、とても美しかった。ページをめくって行くとアメジストがあらわれて、それからアクアマリン。シャルノンの瞳のようなペリドット、カティア様の髪と同じ色のカーネリアン。

 貴石の章が終わると、次は伝説の章だった。人魚の涙の結晶や、ドラゴンの心臓とよばれる核石、さまざまな伝承に登場する宝石が言い伝えとともに載っていた。


 ――たそがれの石。暗い暗い闇の国に眠る石。悪しき竜を倒すため、凍てつく国ノスミリアの王は洞窟を抜けて闇の国へたどり着いた。そこで王は悪しき竜にとらわれた竜人の姫と出会い、悪しき竜を倒すとこれを救った。竜人族は王をたたえて姫を差し出し、王は姫を妃とした。姫は悪しき竜にうばわれていた「太陽の石」を王に与え、宝珠は常冬の凍てつく国ノスミリアに春をもたらした。しかし王はひとりの人間の娘に恋慕し、娘を妃とするため竜人の姫を殺めた。そののち「太陽の石」は凍てつく国ノスミリアを焼き尽くし、旅人のふところを経て、次なる北の王にもたらされた。石は氷の国々を焦土と化し、破滅をもたらすものとして語られる。北の国の人々はこれをおそれて「たそがれの石」とよぶ。


 レッドアンバーに似た赤い石に、そう書き添えられていた。

 なぜか不安になって、自分の唇に触れた。この石をどこかで……どこかで見た気がする。


 ――ディオの瞳と同じ色だわ。


 記憶をたどって、思い出せたのはそれだけだった。

 不安をまぎらわすように次のページをめくって、そのうちに私は眠りに落ちて行った。


 ――暗闇のなかに、赤い火が燃えている。


 目覚めると、私は裸足で闇のなかに立っていた。いや、闇ではない。私は焼け焦げた大地の上に立っていた。

 空は黒い雲に覆われ、夜かと思うほどうす暗い。焦げくさいにおいが立ち込めて、地平のきわが赤く輝いていた。すべてを焼き尽くした炎が、まだ遠くで燃えているのだ。


「クライル」


 不安と恐怖に包まれながら、私は、彼を探さなければと思った。

 歩きだすと老人か若者かもわからない焼け焦げた死体が転がっていた。


 ――みんな燃えてしまった。


 誰かが黒い大地にうずくまっている。その人はだらりと手を投げ出した華奢な骸を抱いていた。

 照り返しを受けて、白銀の髪が赤く波打っている。


 ――アレクシス様。


 うずくまっているのはアレクシス様で、彼が抱えているのはリリーの死体だった。


「どうして……なにが……」


 私はアレクシス様の前に立ち尽くしてつぶやいた。アレクシス様はうなだれたまま首を横に振った。とっさに、喉が焼けてしゃべれないのだ、と思った。

 私は崩れるようにひざをついて、亜麻色の髪を張りつけたリリーの顔をのぞき込んだ。かたわらに華奢な銀の鎖が落ちている。鎖の先に赤い小さな宝石がひと粒、炎のように輝いていた。

 突然、リリーが目をひらいた。


「私、あなたのために死んだのに――」


 リリーは虚ろな瞳で私を見つめた。あっ、と悲鳴をあげて飛び起きると、自分のベッドの上だった。

 ひと晩中つけっぱなしだったランプが魔力切れを起こして弱々しく明滅している。ネグリジェは汗でびっしょり濡れていた。

 あたりはうす明るく、短い小鳥のさえずりがしている。ベッドを出てカーテンをあけると、いままさに夜が明けるところだった。

 いま見た悪夢を、はっきりとおぼえている。そして同じ夢を何度も見たような気がする。


 ――ほんとうに、夢だった?


 心臓がドクドクと脈打って、息苦しいほどだった。私はよろよろとベッドにもどって、シーツの上にうずくまった。


 ――夢じゃないわ。


 わけもわからぬまま涙があふれてくる。あの悪夢は、災厄とよぶにふさわしい悲劇だった。


「クライル」


 私はささやいて、シーツを強く握った。


 ――大丈夫だ、エリー。


 クライルの声を思い出しながら、ぎゅっと目をつむる。

 ちがう、いまのは夢よ。現実じゃない。ただの悪夢だわ。でももし、あれが現実なら……あの悲劇から私たちを救うためにリリーがやってきて、時の円環を生じたのだ。

 呼吸を整えながら、私はなぜ悲劇が起きたのかを思い出そうとして、しかしなにもおぼえていなかった。

 陽がのぼってアニタが起こしにくるまで、私はベッドを出なかった。

 そして鼻声で具合が悪いと伝えると、アニタは風邪だと信じ込んでハニーレモンのお湯割りを持ってきた。私はそれをすこし飲んで、またすぐにベッドにもぐりこんだ。

 私は天井を見つめてあの悪夢が現実なのかそうでないのかを考え続けた。アニタが昼食を食べるかと聞きにきて、私はいらないと答えた。アニタは気が向いたら食べるようにとキャロットジンジャーのケーキと、ポットに入れたハニーレモン入りの紅茶をサイドテーブルに置いてくれた。

 私は窓をすこしあけてほしいと頼んで、アニタはバルコニーの窓をわずかにあけた。かぐわしい春風がそよそよと吹き込んで、その香りに包まれながら目を閉じる。

 アニタがそっと部屋を出て行って、私はそよ風と小鳥の声を聞きながら、まどろみに身を任せた。


「できない……」


 いつもの制服姿のリリーが、絨毯に座り込んでいる。うつむいて泣いているようだった。彼女は両手で短剣を握っていた。


「できないよ」


 リリーは背中を丸めて泣いていた。その姿があまりにも悲しくて、可哀そうで、私はリリーの目の前にひざまずくと、短剣を握った彼女の手を両手で包み込んだ。


「大丈夫」


 私がささやくと、リリーはゆっくりと顔を上げて、泣きはらした目で私を見つめた。


「私がやってあげる」


 そうささやいて、目をあけると自分の部屋の天井だった。夢を見ていたのだ。


 ――いまだって、夢を見ているようだわ。


 同じ日を何回もくり返しているなんて、それこそ夢のなかにいるようだ。どこからが夢でどこからが現実なのかどんどんあいまいになってくる。本当は夢だったのではないかしら。いまもまだ夢を見ているのではないかしら。

 ふわふわとした頭で、たぶん夢だわ、と思って、私は緩慢な動作でベッドから起き上がった。裸足でバルコニーに出ると、強い陽ざしにめまいがした。


 ――私が死んだらどうなるだろう。


 私はバルコニーの手すりに手をかけて、見慣れた庭を見下ろした。ここから飛び降りたら目が覚めるかもしれない。そんな気がした。


「エリーゼ!」


 突然うしろから誰かが、私を強く引き寄せた。

 ふわりとジャスミンのような甘い香りがする。広い胸も力強い腕も男性のものだが、クライルではなかった。


「なにを、やっているんだ……君は……」

「……アレクシス様?」


 背中を伝って響いてきたのは、クライルよりもすこし高くて柔らかいアレクシス様の声だった。どうして彼がこんなところに、と考えて、そうか夢だと思いあたる。

 アレクシス様の荒い呼吸と、はねるような鼓動が伝わってくる。夢にしてはずいぶん鮮明だった。


「庭を見下ろしていました」

「飛び降りるつもりかと思った」


 アレクシス様はそう言ってうなだれて、ため息をついた。アレクシス様の腕はたしかに力強くて、でもクライルよりも華奢だった。


「殿下。なかへ」


 クライルの無感情な声がして、アレクシス様が私を解放する。私はアレクシス様に肩を抱かれながら部屋のなかにもどった。ひらいたままのドアの前にアニタが茫然と立ち尽くしている。


「君の調子が悪いと聞いて、無理を言ってついてきたんだ」


 言いながら、アレクシス様は私の肩から手を離した。


 ――夢では、ないのかしら。


 ぼうっとしていた私は、その瞬間、血の気が引くように覚醒した。ネグリジェの胸もとをあわてて搔き合わせる。


「も、申し訳ありません。こんな見苦しい格好で……アニタ、上着を、きゃっ!」


 アニタのほうへ駆けだそうとして、足がもつれる。いやだ、裸足だわ。みっともない。

 クライルがさっと腕を伸ばして、転びかけた私を抱きとめてくれる。彼はそのまま私を抱き上げて、ベッドにもどした。アニタがストールを持ってきて私の背中にかけてくれた。

 ベッドに半身を起こした私は、ストールをぎゅっと搔き寄せてうつむいた。


「思ったよりも元気そうでよかった」

「わざわざお見舞いにいらしていただいて……恐れ入ります」

「いや。私こそ、突然押しかけてしまって。どうか楽に」


 恥ずかしいやら情けないやらで、顔を上げられなかった。いままでとまったくちがうことをしてみようとは思っていたけれど、こんな状況は想定外だ。


「クライルから君の様子を聞いて、さすがに心配になってね」

「お心遣い痛み入ります」

「思いつめてはいけないよ。君はなにも悪くない」

「……」


 アレクシス様の優しいお言葉に、私はだまって頭を下げた。

 よく考えたら、いまの私は謹慎中なのだ。クライルもアレクシス様も私がディオとミモザ様の一件でふさぎ込んでいると思っているはずだった。


「私は君の味方だと伝えたかったんだ。すこしでも不安がやわらぐかもしれないし……」


 アレクシス様はとても優しい声で言った。何度くり返してもクライルがクライルであるように、アレクシス様もいつも変わらずにお優しい。


「ありがとうございます。その……最近、ひどく夢見が悪くて。それですこし気分が落ち込んでいるだけなんです。ご心配をおかけして申し訳ありません」

「それはつらいね。私もこのところうなされているらしくて、どんな夢かおぼえてはいないのだが、ひどくいやな気分で目が覚めるんだ」


 そう言って、アレクシス様はなにを思ったのかベッドに歩み寄って、おもむろに絨毯にひざをついた。


「手を貸してごらん」

「アレクシス様」

「殿下」


 いくらお優しいとはいえ、たかが辺境伯令嬢のために王太子がひざをつくなど言語道断だ。驚いた私の声と咎めるようなクライルの声が同時に重なった。


「いいんだ。ちょっとしたおまじないをかけよう」


 アレクシス様はひざまずいて私と目線を合わせながら、ストールを握っていた私の手をとって、自分のほうへ引き寄せる。彼は私の左手に組み合わせるように自分の右手を絡めて、ぎゅっと握った。そして祈るように額を近づけて目を閉じた。


「さあ、これで今夜は怖い夢を見ない」


 私の手を握ったまま、アレクシス様はヘーゼルグリーンの瞳で私を見つめた。そして優しく微笑んで私の手をベッドに伏せると、ゆっくりと立ちあがった。


「そろそろもどらないと。せっかくのクライルとの時間を邪魔して悪かったね」


 そう言って、アレクシス様がいたずらっぽく笑う。アニタがドアをあけて、アレクシス様を送り出す準備をした。


「お見送りを……」

「いいんだ。ゆっくり休んで。私でよければいつでも相談にのるから、遠慮せずに頼ってほしい」

「ありがとうございます」


 私はベッドの上で深々と頭を下げた。アレクシス様が「うん」と小さくうなずいて部屋を出て行く。そのあとを追ったクライルが、振り返ってなにか言いたげな顔をした。けれどなにも言わずに、アレクシス様に続いて私の部屋を出て行った。

 アニタも出て行って部屋にひとりになると、私はふうとため息をついた。


 ――驚いた。


 まさかアレクシス様がいらっしゃるなんて。さっきまで虚ろだった意識もいまははっきりしている。

 まだ驚いているのに、頭が冷静に状況の分析をはじめていた。何度もくり返して手を尽くしたと思っていたけど、まだまだやれることがあるのだという気がしてくる。


 ――気分転換してみるものね。


 シャルノンの言う通りだったのに、やつあたりで怒鳴ったりして悪いことをしてしまった。明日会ったら謝ろう、と思いながら私はまたため息をついて、すっかり冷めたポットの紅茶をスミレ柄のカップに注いだ。

 ハニーレモン入りのすっきりと甘い紅茶を飲み干して、それで胸につかえるようなひとつの予感を流し込んでしまったらよかったのだが……そうはいかなかった。


 ――私はアレクシス様がリリーに惹かれていると、思い込もうとしていたかもしれない。


 私がリリーに惹かれるように、彼もまた可愛らしい野うさぎを愛してやまないのだと、自分が見たいように景色をねじ曲げていたのではないか。そんな予感がもやもやと胸のあたりにわだかまっている。

 アレクシス様は私が飛び降りようとしていると勘違いして、とっさに私を抱きしめた。クライルがいるのに、それを忘れてしまったようだった。

 学院パーティーでも、リリーがいるのに彼は必ず私をダンスに誘う。

 リリーは私がアレクシス様の婚約者だと誤解していた。学院の令嬢たちも、私にクライルという婚約者がいることを知りながら、私とアレクシス様のあいだにまるで特別な感情があるようにうわさする。

 私とデニス様がずっと一緒にいたとしても、そんなうわさにはならないだろう。くり返すなかで実際に護衛をデニス様に頼んだこともあったが、私たちの関係を勘繰るようなうわさは耳に入ってこなかった。シャルノンもそうだ。古いつきあいだが、そんなうわさを立てられたことは一度もない。

 私とリリーとアレクシス様、いつも三人で一緒にいるのに、うわさになるのはなぜか私とアレクシス様だ。

 アレクシス様のまなざしはいつでも、誰にでも優しい。けれど私は、彼が特別優しい瞳でリリーを見つめているように感じていた。でも、彼が見つめていたのがリリーではなかったら?

 アレクシス様が見つめているのがリリーではなく私だったら、うわさの謎に説明がつくのでは……。

 思いあがりもはなはだしい、と一笑にせたらどんなによいだろう。私を抱きしめたアレクシス様の腕を思い出しながら、私はストールをぎゅっと握った。

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エリーゼは運命に縋らない 霧嶌十四郎 @kirishima14

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