第七話
謹慎が明けると、私はクライルと一緒に馬車に乗り、無事学院へとたどり着いた。そして正門でアレクシス様にあいさつして一緒に教室へ向かった。一度たどった未来とまるきり同じだ。私はアレクシス様のうしろに控えたカティア様の姿を見て、泣きたいくらいに安堵した。
そうして学内で迷子になったリリーと出会った。クライルもアレクシス様もそしてリリーも、誰ひとり「くり返している」とは言い出さないし、とまどう様子もなかった。だからといって私から問いかければ、アニタのときのようにまた過去にもどされてしまうかもしれない。
たった三日とはいえ、同じ日をくり返すというのは容易なようでひどくもどかしいものだ。そう思うと気安く口にする気にはなれなかった。
それから平和な日常をくり返して、私はまたバラ園のベンチにリリーと並んで腰かけている。いつかの悲劇がまるで嘘のようだ。
空は青く、バラは香り、リリーの亜麻色の髪が風にゆれる。リリーのこげ茶色の瞳は春の光を映して生き生きと輝いていた。
「エリーゼさんのそばにいるとほっとします。出会ったばかりのはずなのに、なつかしいような気がするんです」
リリーは両手でサンドイッチを持って、遠くを見るような目をした。どこかさびしそうな横顔だった。
――なにか夢を見ていたくらいのうっすらとした感覚があるだけで、記憶としてはっきり残ってはいないようでした。
時空転移を引き起こしたのはリリーで、本来ならば時間をくり返して未来を変えるのは彼女のはずだった。しかしリリーはその機会を失っているのだろうと、シャルノンはそう言っていた。
「ええ、私も……」
私はリリーの横顔を見つめながらつぶやいた。リリーは「本当ですか?」と私を振り返って、無邪気に笑った。
「そっか。私たち、めぐりあう運命だったのかもしれませんね」
「そうかもしれないわ」
そう答えながら、本当に運命かもしれない、という気持ちになった。私がリリーを守らなければならないし、そのために私は彼女と出会ったのだというような、そんな使命感が湧き上がってくる。
はじめて会ったときから、なぜか、私は彼女がひどく愛おしいのだ。
「こんなところにいたんだね」
アレクシス様の声がして振り返る。そろそろだろうと思っていた。
――ディオが帰ってくるのね。
今日も、記憶にある今日とまるきり同じだった。
アレクシス様はディオの復学を耳にして、そのためにわざわざバラ園をたずねてくださった。そして私に護衛を付ける提案をしてくれる……
「迷惑でなければ、カティアを君に付けよう。デニスはだめだ。クライルが妬くからね」
深刻にならないようにとアレクシス様が織り交ぜた軽口を、私は微笑みながら受けとめた。
「まあ。それならぜひデニス様にお願いしたいところですが」
「おやおや」
私が口もとを隠して笑ってみせると、アレクシス様が口もとをほころばせた。
――実物を見ていないのでなんとも言えませんが、おそらく冷地龍種の幼体だと思います。成体と比べて熱に弱いので、そのために周囲を凍らせたのでしょうね。それなりの魔力を環境維持に
これからおとずれるであろう危機について相談すると、シャルノンはそう答えた。
私が馬車に乗ればリリーが馬車にはねられることがないように、私の選択によって今日の結末も変えることができるはずだ。
まずは復学後のディオを探してドラゴンの召喚自体をとめるという手段を考えているが、うまく行くかどうかわからないから、保険をかけておくべきだった。リリーもカティア様も誰も失わない未来を手に入れるために、打てる手は打っておきたい。
「……」
私は瞳を伏せて、胸もとに手を置いた。
「大丈夫?」
「ええ……すみません、すこし気分が……」
アレクシス様が案じるように優しい声をかけてくれる。不安になった女のふりをするつもりが、本当に血の気が引いてきてしまった。
――らしくないわ。
気丈が取り柄なのに、動かないカティア様と、ぐったりと倒れたリリーの姿が
私が選択を変えれば、未来はきっと変わる。けれど万事が好転する保証はない。
私はアレクシス様に、護衛をカティア様ではなくクライルにしてほしいと頼むつもりでいた。そしてこの期に及んで、別の未来を予想して足がすくんでしまった。
――クライルはきっとなにがあっても私を守ってくれる。カティア様のように。
唇を引き結んでクライルを見やると、クライルは身体の横に下げたこぶしをきつく握って私を見つめていた。その瞳のなかで、責務と私心とがせめぎ合っているようだった。
――でも、同じ失敗は繰り返せない。
私ひとりで戦って、それで解決できるならどんなによかっただろう。しかし、現実的に考えて誰の手も借りずに乗り切るのは不可能だ。
私は意を決して口をひらいた。その瞬間に、私よりも早くクライルがアレクシス様に顔を向けた。
「殿下。身勝手を承知で申し上げます。この任を、カティアに代わって私におまかせいただけないでしょうか」
クライルの気性なら私が不安をさらけだせばそう言うだろうと思っていたから、狙い通りだった。
アレクシス様がカティア様を私の護衛にと言ってくださったのは、カティア様が女性で、学院内のどんな場所でも私のそばに付き添えるからだ。男性の護衛では着替えや手洗いにまでぴったりとくっついているわけにいかない。
そもそもディオがあんな強硬手段を取って私の命を狙ってくるとは誰も予想しておらず、アレクシス様の提案も、あくまでもディオからの接触やつきまといを警戒してのものである。
――私は、ずるい人間だ。
自ら手を引く死神にはなりたくなくて、弱ったふりをして彼を誘い込んだ。思い通りになったのに、自分の狡猾さに嫌気がさしてくる。
「私はかまわないよ。そのほうが彼女が安心できるなら」
「クライルが同行できない場合だけ、必要であれば私が代わります」
「うん。それがいい」
カティア様の提案にアレクシス様が温厚にうなずく。クライルが深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「しかし、くれぐれもやりすぎないようにね。さすがに命をうばうようなことは……」
アレクシス様が言うと、カティア様が噴き出しかけたのだろう、口もとにこぶしをあててうつむいた。のどかな庭園に「えっ」という、リリーの怯えた声が響く。
「私にも
困ったような顔で言って、クライルがリリーにちらりと視線を送ると、リリーの肩がビクッとすくんだ。にらまれたと思ったのだろう。
クライルの困り顔は神経質そうな顔だちのせいなのか、見慣れていないとひどく不機嫌そうに見える。
「君は彼女のことになると目の色が変わるからね」
「……そうでしょうか」
「自覚がないのかい……?」
アレクシス様とクライルのやりとりに、カティア様がうつむいて肩をふるわせている。笑っているのだ。
「クライル様は、エリーゼさんのことが大好きなんですね」
なごやかな空気を感じ取ったのかリリーがほっと肩の力を抜いて、クライルたちに見えないよう口もとを隠しながら私にささやいた。
――その気持ちを利用している。
そんな負い目を感じながら、私はあいまいに微笑んだ。
*
「ありがとう、クライル」
終業の時刻を迎えて、クライルに付き添われながら下校する。学院の正門前は送迎の馬車が列をなして混雑していた。
私は馬車を選ばずに、大通りをはずれた静かな通りをクライルと並んで歩いた。以前の今日はカティア様が付き添ってくださったから、新しい展開だ。
町は明るく、
私のささやきに振り返ったクライルが、なんのことだ、という顔をしている。
「あなたの仕事はアレクシス様の警護なのに」
「それは……」
クライルは言いよどんで視線をそらした。
「俺は、顔に出るらしい」
仏頂面でつぶやいて、クライルがうしろ首を押さえた。おおげさに表情を変える
けれど、つきあいが長くなると、彼が思いのほか感情的な人間であることに気づく。こんな暑苦しい人が氷と形容されているなんて、と、おかしくなってしまうほどだ。
「そうね」
私は口もとを隠して笑った。クライルは照れ隠しにか、むすっと口を引き結んだ。
「殿下が配慮してくださったんだ。カティアのほうが適任なのはわかっているが……」
「でも、あなたがそばにいてくれることになって、ほっとしたの。だから、ありがとう」
私がそんなしおらしい発言をするとは思っていなかったのだろう。クライルは驚いたような顔をして、それから照れくさそうに微笑んだ。
クライルの笑顔は思いのほか無邪気で子どもっぽい。その表情があまりにも素直で、うしろめたさがふつふつと湧き上がってくる。
「私……あなたを利用してる」
私は足をとめてささやいた。
「いくらでも利用したらいい」
クライルは振り返って、いつものまっすぐな目をして言った。
「君のためなら、剣にでも盾にでもなる」
クライルのまなざしに迷いはなかった。海を思わせる涼しげな瞳の奥に、青い炎が燃えている。伝えたい言葉を恥ずかしげもなく口にする、そういう人だ。いつもまっすぐで、自分を飾ろうとすることもごまかそうとすることもない。
私は小さな声で「どうして」と聞いた。
――あなたが強いひとだからです。
そう言って微笑んだカティア様が思い出された。彼女のような気高い人にそんなふうに言ってもらうほど、私は強くないし、立派でもない。
あの日、私はなにもできなかった。カティア様とリリーを犠牲にしただけで、なにもできなかった。
クライルはすこし考えてから、私の目を見た。
「君が、君だからだ」
そう言って彼は、すこし大人びた顔で微笑んだ。
*
学院内で復学後のディオを探す計画は、結局うまく行かなかった。クライル然りカティア様然り、私がディオと接触しないように付き添っているわけで、そんな状況で自らディオのもとへ向かうのは無理がある。
それとなくクライルにディオがどうしているかたずねると、彼は不機嫌を隠さずにディオの近況を教えてくれた。
復学したにも関わらず、ディオは多くの授業を欠席しているようだった。ミモザ様が起こした騒ぎのせいですっかりうわさになってしまったから学院に居づらいのかもしれないし、身体の傷は治っても気持ちはまだ塞ぎ込んでいるのかもしれない。そう考えればなにもおかしくはなく、むしろ平然と通学するより自然だった。
しかし学院内でディオの姿を見かけたという生徒が複数おり、授業には出ないが登校はしているようである。学院の、高塀に囲まれた広大な敷地には、中央学舎のほかにホールや宿舎などを有する別棟がいくつかある。よく手入れされた庭園だけでなく、植物の自生をうながすために必要最低限しか手を入れない
ディオに接触できないのはもちろん、彼がどこでなにをしているのかも残念ながら不明のままだった。
そして数日が平穏に過ぎて、今日――私は重い足どりで回廊をバラ園へと向かっている。あの日、悲劇が起こった場所が近づいてくる。あの日とはちがって、一緒にいるのはカティア様ではなくクライルだ。この選択がどう影響するのだろう。
でも、きっと今日、ここで。足がすくんで立ち止まると、パタパタと弾むような足音が近づいてきた。
「エリーゼさん!」
「リリー……廊下を走っては、だめよ」
私はリリーを振り返って、ぎこちなく微笑んだ。うまく笑えたかしら。
「だって、昨日のお昼からずっと楽しみで」
リリーは明るい声で言った。
だまって微笑みを浮かべていると、リリーの顔から笑顔が消える。
「大丈夫ですか?」
「どうして?」
「元気がないみたい」
いつフィリア様の声がするかと身がまえていると、「おや」と聞きおぼえのある声がした。その人はバラ園のほうから、とぼとぼとひとりで回廊をやってきたらしい。
「シャルノン」
どうして彼がここにいるのだろう。干渉しないのではなかった?
シャルノンは足をとめて、猫背を丸めるように会釈した。
「どうしてここに?」
「昨日、伝承学のディール教授がバラ園で拾ったそうです」
いつもの色褪せたローブをまとったシャルノンが
なにかしらの魔術陣ではあるようだが、書き添えられた記号は古代文字でも精霊文字でもないようだった。
「死霊文字です。不完全なのでこれでなにができるというわけではありません」
「しりょうもじ……?」
リリーが単語をくり返すと、シャルノンは紙を折りたたんで懐にもどした。
「かつて死霊術というものがあって、死者をあやつる呪術だとして流行しました。実態はほとんど机上の空論でしたが、ひとりの学者が独自の魔法文字をつくりあげ、恋人の蘇生に成功したと言われています。そしてその魔法文字は死霊文字とよばれるようになったのだとか。同時期に疫病が流行すると死霊術は禁忌とされて、あらゆる資料が
すらすらといつもの調子で知識を披露するシャルノンをリリーが興味深そうに見つめている。シャルノンの講義は第二学年からだから面識がないのかも、と思いかけたが、リリーがこの国にあらわれた日に神殿で会っているはずだった。
「そんなものが、なぜこんなところに?」
「さあ。手帳の端切れのようにも見えますし、メモ書きでしょうか。誰かが落としたのかもしれませんね」
クライルがたずねて、シャルノンが答える。背すじの伸びたクライルと並ぶと、シャルノンの猫背がひどく目立った。
「そういうわけで、念のため見まわってほしいと頼まれました。ひとまわりしてきましたが、ほかにおかしなものは落ちていないし、儀式などの痕跡もありませんでした」
シャルノンは私たちの顔を見比べながら言った。
フィリア様はやってこないし、以前はなかったものが見つかるし、シャルノンと遭遇するし……未来が大きく変わったのかもしれない。そんな予感がした。
「そうそう、バラ園でアレクシス様がお待ちでしたよ」
淡々としたシャルノンの声を聞いて、私は緊張がほどけるのを感じた。このあとはバラ園でリリーが楽しみにしていたランチをして、誰も欠けることなく明日がやってくる。そう思ったら、泣きたいくらいうれしかった。
私が口もとを押さえて安堵したのをシャルノンが前髪の隙間からのぞいたらしく、ちらりと緑色の瞳が見えた。そして彼はふっと顔を横向けて、回廊に面した緑の庭を見つめた。
――小鳥の声が
風以外の音がしない。そう気づいて、私は息をとめた。安堵が一瞬で吹き飛んでしまった。
「……なにか」
クライルが庭を振り返りながら剣の柄に手をかける。シャルノンが「さて」とつぶやいた。あの日のように、回廊は異様な静けさに包まれている。
「
ぽつりとシャルノンがつぶやくと、茂みから黒い影があらわれた。ドラゴンよりもずっと小ぶりで、私やリリーと同じくらいの大きさだった。狼のようにも
両目のほかに、額にもうひとつ金色の瞳が
クライルが無言で剣を抜いた。
「あれは……」
「
ふるえそうになる声で聞くと、シャルノンがいつもの調子で答えた。
「魔狼なら群れをつくるはずですが」
「お詳しいですね」
「辺境で一度囲まれたことがあります」
「ご無事に帰還されてなによりです」
隙なく構えをとったまま言うクライルに、まったく緊張感のないシャルノンが応じる。
「魔獣は利口です。勝てるかどうか、迷っているようですね。ぼくはこれでもまともな魔導師ですから」
得意げに言いながら、シャルノンが一歩前へ出た。獣がぴくりと耳を動かして、一歩あとずさる。そうしてもう一歩シャルノンが歩み出たとき、回廊のすぐそばの茂みが音を立てて、別の影が躍り出た。
「きゃ……」
リリーの悲鳴と一緒にクライルが踏み込んで剣を振るった。ギャッと短い悲鳴がして、影はシャルノンを飛び越えて回廊の床にドッと倒れた。次の瞬間に、距離をとっていたもう一頭が風のように迫り、クライルに飛びかかった。
「クライル!」
私の悲鳴とシャルノンがすっと手をかざすのと、ほぼ同時だった。地面から伸びた
「二頭ですね」
そう言って、シャルノンはゆっくりと手を下ろした。するすると蔦が地面にもどって行く。倒れた獣をじっと見つめていたクライルが血振りをして剣を鞘に収めた。
「なぜこんな場所に」
クライルがつぶやくと、回廊に倒れた一頭を検分しながらシャルノンが紙切れをとりだす。魔狼はどちらとも息絶えたようだった。
「これの落とし主が
獣の前にかがんでいたシャルノンが立ちあがると、奇妙な現象が起きた。黒い魔獣がどろりと溶けて、次の瞬間には黒い霧になって消えてしまった。
「陽を浴びすぎましたね。闇の生き物の特徴です。ここまで生粋の魔獣は地上ではとうに死滅しましたから、異界から喚び出したと考えるのが妥当でしょう」
「心あたりは? 悪ふざけでは済みません」
「学院長を通して進言しておきます。証拠が消えてしまった以上、どこまで信用してもらえるかはわかりませんが……どのみち犯人はしばらくなにもできません。召喚は膨大な魔力を消費します」
言いながら振り向いたシャルノンがきょとんと立ち止まる。その視線を追うようにして私を見たクライルが驚いた顔をした。
「エリーゼさん」
リリーが私の背を支えるようにそっと手を置く。
誰も傷つかなくてよかった。カティア様が犠牲にならずに済んでよかった。リリーが無事でよかった。クライルが――クライルが、死んでしまわなくて、よかった。
悲しいわけではないのに、ぽろぽろと涙がこぼれてとまらない。よかった、と思いながら私はにじんだ瞳でクライルを見つめた。
「大丈夫だ、エリー」
リリーの手がそっと背中を離れる。幼いころの愛称をよびながら、クライルが私を抱きしめた。私は嗚咽をこらえて無言でうなずいた。
クライルの背中にぎゅっと腕をまわす。あたたかな胸に耳を押し当てると、クライルの鼓動が聞こえた。
「誰にも言わないで」
私が泣いたなんて。
ゆがんだ声で言うと、「はい」とリリーの優しい声がした。
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