第五話

 その翌日から通学と帰宅にはクライルかカティア様が、学院内ではカティア様が常に私に付き添ってくれることになった。

 ディオの復学によって、私を悪女とささやくうわさの声はふたたび大きくなったが、ディオ自身と顔を合わせることはなかった。ミモザ様とは何度か廊下ですれちがって、そのたびに彼女は剥き出しの敵意を私に向けた。けれど以前のように詰め寄ったり大声をあげたりすることはなく、私をにらんでからひそひそと友人たちに悪口をささやく程度である。


「毎日つきあわせて申し訳ないわ」

「滅相もない。エリーゼ様のお供ができて光栄です」


 春の陽ざしが差し込む回廊をバラ園に向かって歩きながら、私はカティア様に声をかけた。いま気づいたことだが、カティア様の赤い髪は光に透けるとカーネリアンのようなややオレンジがかった色味に見える。

 アルセレニアにおける女性騎士の歴史はまだ浅く、王国騎士として女性が登用されるようになったのは半世紀ほど前のことだ。そもそも希望者がそれほど多くないというのもあるが、王国騎士団における男女の比率はかなりかたよっていて、現役の女性騎士は数えるほどしかいない。

 それは私の故郷アシュテンハインの海軍にも言えることで、女性の積極的な登用がさけばれた時期もあったが、体格や膂力りょりょくの差はどうしても埋めきれないから、結局は男女どうこうではなく適材適所という結論に落ち着いた。

 そんな騎士事情のなかで、カティア様は王太子付きの近衛騎士に抜擢されて、将来を有望視されるクライルと肩を並べて職務にあたっている。

 だからなのかもしれないが、カティア様に対する口さがないうわさを何度か耳にしたことがある。彼女もまた多くの妬みや嫉みにさらされて生きているのかもしれなかった。


「この数日、あなたと一緒にすごしてクライルの気持ちがすこしわかるような気がしました」

「それって、どんな気持ちなのかしら……」


 カティア様に聞くと、彼女はぱっちりとした美しい瞳をうれしそうに細めた。


「守りたい、という気持ちですね」


 ――君を傷つけるすべてから、守りたいのに。


 夢かうつつか定かではないが、そんな言葉をクライルから聞いたことがある気がする。

 私は足をとめてカティア様に向き直った。


「私は頼りないのかしら」


 歩みをとめたカティア様は「いえ」と答えた。

 カティア様はティターニア子爵家の一人娘である。もともと武芸に明るい家系ではないし、身長は私よりすこし高いが、筋骨隆々としているわけでもなくクライルやデニス様と比べたらずいぶん華奢だ。顔だちはとても優しいが、いつも背すじを伸ばし毅然とした表情をしている。

 もし彼女が髪をほどいてドレスをまとい、ほんのすこし肩の力を抜いたなら、それこそ守ってやりたくなるような優しげな印象の令嬢に早変わりするだろう。


「あなたが強いひとだからです」


 カティア様はそう言って微笑んだ。


 ――やわではないけれど、


 強いのかと聞かれたら、自信はない。何事にも動じないわけではないし、ささいなことにうんざりしてしまうときもある。ディオとミモザ様の件もそうだ。なにも感じずに受け流したわけではない。それなりに悩んだし、胸もいくぶんささくれだった。


「エリーゼさん!」


 カティア様と見つめ合っていると、パタパタと弾むような足音をさせてリリーが駆け寄ってきた。


「廊下を走ってはだめよ」

「うっ。ごめんなさい」


 やんわりと注意すると、リリーはちょっと口をとがらせて、しまったという顔でうつむく。まったく無邪気な女神さまだこと。


「今日はいちだんと楽しそうね」

「だって、王子様のお弁当なんて、すっごく豪華なんじゃないかなって」


 そう言って、リリーはまんまるの瞳をキラキラと輝かせた。

 今日のランチはいつものバラ園で、アレクシス様が用意してくださることになっている。いつも自分で用意してくるというリリーのために気を利かせてくださったのだ。

 リリーは現在は後見のオルバド侯爵の邸に起居ききょして、学院の正門まで神殿兵の護衛をともなって通学している。侯爵邸にも料理人はいるはずだが、なにからなにまで面倒を見てもらっては悪いからと昼食だけは自分でつくることにしているのだという。

 セフィーラは女神を意味する称号であって、その存在は人間社会の価値で測れるものではない――という理由から、セフィーラの地位は明確にされていない。しかし女神の化身である以上、実質、王族とそう変わらない威光を放つ存在である。

 つまりリリーは遠慮など必要としない立場にあるのだが、本人はいまひとつわかっていないようだ。彼女が望めば王宮の料理人が毎日つきっきりで腕を振るうというのに。


「あの、騎士様」


 私たちがバラ園へ向かって歩き出そうとすると、早足でやってきた女生徒が控えめにカティア様に声をかけた。大人しくまじめそうな顔に見覚えがある。中央階段での私とミモザ様のもめごとに居合わせたフィリア様だ。

 私たちが振り返ると、フィリア様は私とリリーに一礼してからカティア様に向き直った。


「アレクシス様がお探しだそうです。中庭でお待ちになっていらっしゃるようです」

「殿下があなたに言伝を?」

「いいえ。リラ様……オルヴァ子爵令嬢からお聞きしました。見かけたらお声をおかけするようにと」


 カティア様の問いかけにフィリア様が答えると、カティア様がすっと表情を消した。


「えっ。どうしたんだろう」


 リリーの声を聞きながら、私は不穏な気配を感じ取った。さっきまで柔和だったカティア様の横顔に、警戒の色が浮かんでいる。


「カティア様。フィリア様は信用のあるかたです」


 私がそっと言葉を添えると、カティア様はこちらを向いてうなずいた。


「フィリア様。私はエリーゼ様のおそばを離れぬよう殿下から命じられております。ですからまいれませんと殿下にお伝えいただけませんか」

「まあ……それは。また聞きでしたから、なにか行きちがいがあったかもしれませんわね。アレクシス様にお会いして確かめてまいります。エリーゼ様は、これからどちらへ?」

「バラ園へ行くところです。アレクシス様とお約束していたはずなのですけれど……」


 フィリア様はふたたび「まあ」とつぶやいて、不可思議だと言いたげな顔をした。

 フィリア様の瞳は磨き上げられたエメラルドのように澄んで、聡明な輝きを放っている。彼女は私とカティア様を見比べて、かすかに表情を強張らせた。


「あの。わたくしがバラ園にアレクシス様がいらっしゃるか見てまいります。ここはあまり人気ひとけもないし、エリーゼ様は学舎へおもどりになったほうがよろしいわ。アレクシス様にお会いしたら、わけを伝えておきますから」

「ありがとう。でも、あなたにもしものことがあってはいけないわ」


 気づかうフィリア様に、私は微笑んで見せた。

 フィリア様が案じるような瞳でじっと私を見つめる。彼女が口をひらきかけたとき、リリーが突然「えっ」と驚いたような声を出した。

 私がリリーを振り返って視線の先をたどるのと同時に、カティア様がはっとした顔をして腰に帯びた剣に手をかけ、庭を振り返った。


「いま、なにか、大きな影みたいなのが……」

「人影では?」

「いえ、もっと大きかったと思う……」


 フィリア様がリリーに聞くと、リリーは茂みを見つめながら不安そうに答える。私も回廊に面した緑豊かな庭をなるべく視野を広くするようにして眺めた。

 あたたかな春風がそよそよと草木をゆらす、のどかな真昼どきだ。

 厩舎きゅうしゃがあるほかは、学院内で大型動物を飼育している場所はない。猫が何匹か住み着いてはいるようだが、人間ほど大きくなる生き物ではないし、ましてや高塀たかべいに囲まれた学院内に大型の野生動物が入り込むのは容易ではない。

 そして緑の多い学院の敷地内にはもちろん多くの小鳥たちがいこっているが、王都周辺に生息する猛禽といえば鳶や鷹くらいで、それより大きな鳥類を見かけることはない――


「小鳥の声がしないわ」


 気づいて、私はそうささやいた。春の陽ざしに満ちた緑の庭は一見とてもあたたかく、しかし、不自然な沈黙に包まれていた。


 ――寒い……


 そっと自分の肩をなでて、はっとした。どうしてこんなに寒いのかしら。

 吐いた息が白くなっている。こんなにあたたかな春の真昼なのに。


「校舎へもどりましょう」


 カティア様が剣を抜いて、私たちを背に負うようにしてゆっくりとあとずさる。学院内での帯剣は警護の任に就いている騎士に限って許可されている。しかし非常時以外の抜剣は禁じられていて、剣を抜いた場合は必要性が審議される。正当な理由がないと判断された場合は罰則が科されることもあった。

 カティア様は安易に剣を抜いたのではない。そうせざるを得ない状況だと判断したのだ。


「エリーゼ様……」


 自らの腕を抱いたフィリア様がカチカチと歯を鳴らしながら、私をよんだ。振り返ると彼女は茫然と庭を見つめていた。長い睫毛まつげが白く凍っている。


「凍っちゃった……」


 リリーがふるえた声でささやく。春の庭に霜が絨毯のように広がって、どんどん凍りついて行く。

 私の故郷のアシュテンハインは王都よりも北方に位置し、降雪量も多い。冬はこごえるような寒さだが、そのアシュテンハインでさえ見たことのない光景だった。

 ある場所では霜が柱をつくって伸びあがり、ある場所では霜がダリアのように刺々しく咲いた。緑の庭はあっという間に、まるでおとぎ話にでも出てくるような氷の世界に変わってしまった。

 そして凍りついた茂みがゆれて、ワニに似た灰色の生き物がのそりと這い出してきた。人間の大人の二、三倍はありそうな大きさだ。


「ドラゴン?」


 ワニに似たそれは、頸部けいぶが妙に長く、背中に小ぶりの翼を持っていた。もともとは空を飛ぶ生き物だったのかもしれないが、どっしりとした身体に対して翼が小さすぎるから、退化したのだろう。その姿は教科書や図鑑で見た古代の生き物を彷彿ほうふつとさせた。

 いくつかの竜種はいまも秘境に生息しているが、ほとんどが小型でトカゲのような姿をしていて、有翼種は絶滅したとされている。そのトカゲのような竜でさえ、研究者や命知らずの冒険者でもない限り生きた個体を目にすることはない。

 そんな生き物が、しかも限りなく本来の竜に近い姿の個体が、なぜこんな場所に――


「きゃあ!」


 のそりと這い出してきたドラゴンの口もとが青白く光ったと思うと、すさまじい冷気が放たれた。まるで吹雪を浴びたようだった。リリーの悲鳴が風のうなる音に掻き消される。

 私はとっさに風の魔力で防御壁をんだ。それでもすさまじい衝撃だった。

 竜と同じように、古い時代と比べると現代の魔法は脆弱になった。魔法力ともよばれる魔力を編むことで、私たちは魔法を行使することができるが、昔はたとえば炎そのものを発現させるとか、水を湧き出させるとか、魔力を使って現象を具象化できた。

 しかし自然界に満ちる魔力は年々減少し、いまでは元来魔法とよばれてきた現象の具象は高位魔導師でさえできなくなった。現代の私たちが魔法とよぶのは、魔力を編むことで自然の一部を操ったり、魔力属性に応じたごく限られた特性を活用したりする程度のものだ。

 激しい冷気をなんとかしのぎきると、フィリア様も両手を前に突き出していた。彼女もとっさに自分にできる防御のすべを用いたのだろう。フィリア様はひきつった顔で私を見つめて、小さくうなずいた。血の気を失ったフィリア様の頬に細かい切り傷がいくつも走っていた。

 私たちを背にして正面に立つカティア様も左手を正面にかざしている。すくなくとも三人の力を合わせたから、いまの魔法をなんとか防げたのだ。私ひとりでは無理だっただろう。

 全身に激しい疲労感が押し寄せてくる。同じ攻撃をもう一度は防げない。


「走ってください」


 そう言って、カティア様は剣を構えた。足が強張ってよろけると、リリーが私を支えるようにしがみついた。


「でも」

「早く!」


 リリーが躊躇すると、カティア様がさけぶ。

 のそりとドラゴンが前進した。魔法の威力はすさまじいが、動きはにぶいのだ。


「リリー、行きましょう。フィリア様も……」


 ひどく重い体でなんとか歩み出そうとすると、視界の端でドラゴンが動いた。私たちが愚鈍だと思い込んだ古代の生き物は、どっしりとした体躯たいくにそぐわない俊敏さで距離を詰めてきた。

 それに気づいて振り返った瞬間、ヒュッ、と風を切る音がした。尾だ。トカゲの尾に似た、しかし丸太のように太い尻尾が私たちめがけて繰り出される。

 激しい衝撃を覚悟して、私はとっさにリリーをかばうように抱きしめた。悲鳴ひとつあげるひまもなく、凍りついたように立ち尽くすフィリア様が視界のすみに入った。

 衝撃はなかった。その代わりにギャアッという耳をつんざくような悲鳴があがった。リリーを抱きしめたまま視線を走らせると、私たちをかばうように立ちはだかるカティア様の背中が目に入った。カティア様は青白く透き通った剣を右手に提げていた。

 凍りついた回廊の床に血が飛び散っている。もちろんそれもすでに凍っていた。

 カティア様の剣が白く濁って、鋼色にもどる。

 私がとっさに風の魔力を編んだのは、それがもっとも自分に適した属性だからだ。いちばんうまく扱えて、いちばん強い効果が期待できる。カティア様が得意なのはたしか氷だったと思う。氷一面の世界はもしかしたら彼女に好都合かもしれない。けれど同時に、相手にとっても有利なはずだ。

 生物学では寒冷地に生息する竜を総称してアイスドラゴンとよぶ。目の前にいる生き物はそのアイスドラゴンの一種と考えてよさそうだった。


 ――人が竜と戦うなんて、歴史書かおとぎ話のなかにしかない。


 まず、こんな生き物が目の前にいること自体がありえない。けれど寒さもヒリヒリと痛む頬や指先もあまりにも鮮明で夢には思えなかった。

 断ち切られた尾を引っ込めて、ドラゴンが蛇のように鎌首をもたげた。

 いったいどうしたらよいというのだろう。どうすればこの場を切り抜けられるのだろう。

 カティア様は私たちを背にかばったまま、ギリギリの間合いでドラゴンと対峙たいじしている。彼女ほど勇敢な騎士が果たしていまのアルセレニアに存在するだろうか。

 戦もなく、歴史上もっとも平和と言っても過言ではない現代では、騎士たちの仕事は警備や警護がほとんどである。そなえの時代ともよばれる現代の騎士たちは、もちろん武芸の訓練には励んでいるものの、実戦の経験にとぼしい。


 ――たったひとりでドラゴンに立ち向かう騎士も、それこそおとぎ話のなかにしかいない。


 カティア様の背中にはゆるぎない意志が満ちていた。それは騎士としての矜持きょうじかもしれないし、彼女自身の信念であるかもしれない。それが頼もしいと同時に、ひどく悲壮に見えた。だって、こんな、まるで勝機の見えない勝負……


「やめて……」


 次になにが起こるか、未来が見えるようだった。

 ドラゴンは小さな翼を広げて耳を裂くようなさけび声をあげると、牙を剥き出してカティア様に襲いかかった。あまりにも堂々としたカティア様の背中と赤い髪が鮮烈に目に焼きつく。

 カティア様は剣を構えて竜を迎え撃った。彼女は鋭い牙に自ら飛び込んで、自分を食い殺そうとしたドラゴンの喉を固く握った剣で貫いた。ドラゴンが悲鳴をあげて、カティア様を牙にかけたままのたうちまわる。

 私も、おそらくリリーもフィリア様も、その光景を茫然と見つめていた。


「あっ……ああ……」


 血をまき散らしたドラゴンがついによろめいて凍った土の上に倒れると、フィリア様がふるえた息を吐いて倒れるようにへたり込む。そのままぐったりとして、気を失ってしまったようだった。


「カティア様……」


 ささやいて、私はよろよろと庭へ踏み出した。自分を気丈だと思っていたけれど、いまはひどく動揺している。霜が溶けだして、地面がぬかるんでいた。

 回廊を包んでいた冷気が引いて、春の気温がもどってくる。それなのに、ひどく寒気がしていた。血の気がすっかり引いているのだろう。

 カティア様の手から離れた剣はドラゴンの喉を貫いて、刃先がうしろ首から突き出していた。そしてカティア様のわき腹からはドラゴンの牙が飛び出している。

 彼女は倒れたドラゴンの牙にかかったまま、微動だにしなかった。近衛騎士の制服がぐっしょりと血を吸って赤黒く変色している。

 倒れた竜のかたわらまでたどり着いた私は、ぬかるんだ地面にふらふらと座り込んだ。私についてきたリリーがふるえる手で、だらりと垂れたカティア様の手を握る。


「……じゃ……だめ……」


 リリーが力の抜けた声で何事かささやいたが、聞き取れなかった。私は動かないカティア様と彼女に寄り添うようにひざまずくリリーを茫然と眺めていた。悪夢を見ているようだ。


 ――悪い夢を見ているんだわ、きっと。


 きっとそうだ。学院の回廊でドラゴンに襲われるなんて、そんな荒唐無稽な話、現実に起こるはずがない。


「これでゆっくり君と話せる」


 背後で、低く優しい声がそう言った。

 振り返ると、よみがえった春の陽ざしのなかにディオが立っていた。青白い顔をした彼はまるで亡霊のように陰気で、レッドアンバーの瞳だけが恍惚こうこつと輝いていた。

 彼はぬかるみの上に座り込んだ私を見てうれしそうに微笑んだ。私が最後にディオを見たのは彼が自殺未遂を起こす前だから、顔を合わせるのは数ヶ月ぶりだった。もともと痩せ型だったディオだが、以前に増して頬の肉がげ、ひどいくまのせいで目もとが落ちくぼんでいるように見える。


「……」


 なにも言葉が浮かばなくて、私は茫然とディオを見上げた。

 ディオは内向的で大人しいが、座学の成績は飛び抜けていた。特に魔法分野での台頭を期待され、率先して個人での研究に取り組んでいた。


 ――いま……を研究しているんだ。


 いつか聞いたディオの言葉が思い出されて、ドッ、と胸を強く殴られたような衝撃を感じた。

 ディオが熱中していたのは召喚術とよばれる失われた技術だ。陣と魔力を用いて異界とつながる門をひらき、あらゆるものをよび寄せる魔法の一種で、アルセレニア興国黎明期の資料にドラゴンや神獣をんで使役したという記述が残っている。しかしそれ以降、召喚に関する記述は歴史書から失われ、その技術を継承するものも存在しないと考えられていた。


「本当にばかなことをしたと思っているんだ」


 動揺する私に、ディオは物悲しそうな表情を浮かべて言った。


「ぼくは君を愛しているのに、君を残して死のうとした」


 ディオはローブの内ポケットから精巧な細工を施した短剣をとりだした。彼がなにをしようとしているか予感して、それでも足に力が入らなかった。

 私を守りたいと言ってくれたカティア様の笑顔と赤い髪がまぶたに焼きついて離れない。


「君がかごの鳥だということを忘れていたんだ。そうだ、君の一存でなにもかも自由になるわけじゃない。君は優しいからぼくを愛していると言わなかったんだ。言えなかったんだね。でももう大丈夫、ぼくたちは自由になれる」


 ディオは微笑して、恋人に愛をささやくような優しい声で言った。

 大人しくて気の弱い、聡明な青年だった。彼をこんなふうに変えてしまったのは私なのだろうか。彼の人生を背負う覚悟もなしに声をかけた私のせいなのだろうか。


 ――俺が君でも、同じようにした。君はまちがっていない。


 そう言ってくれたクライルの声と、まっすぐな瞳が思い出されて、はっと我に返る。

 カティア様が命をかけて守ってくれたのに、私自身が捨ててしまっては意味がない。背すじに力を込めて、私はディオのレッドアンバーの瞳を見つめた。

 いくら痩せ型とはいえ、力比べになったらかなわない。それに吹雪を防ぐためにかなりの魔力を消耗したし、魔力比べに持ち込んだとしても勝機は見えない。

 私はディオを刺激しないよう、なるべくおだやかに言った。


「ディオ。私、あなたを大切な友だちだと思ってた。でも、あなたが私の好きな人や私を傷つけるのなら、とても悲しいけれど、もう友だちとも思えない」


 学舎からすこし離れているとはいえ、物音やドラゴンの悲鳴を耳にした人もいるはずだ。バラ園までそう遠くないし、もしかしたらなかなかやってこない私たちを心配してクライルやアレクシス様が様子を見にくるかもしれない。バラ園と学舎を結ぶのはこの回廊だけだから、茂みを突っ切りでもしないかぎり、行きちがいもないはずだ。


「エリーゼ!」


 予想した通り、回廊をクライルが駆けてくる。すこし遅れてデニス様とアレクシス様の姿も見えた。

 クライルは回廊から見渡せる限りの異様な光景を目にして驚いたような顔をしたが、すこしもひるまなかった。彼は躊躇なく回廊からぬかるんだ庭に飛び出した。

 ディオが短剣の柄を握る。私が飛びかかろうとするより早く、私のうしろにいたリリーがディオに飛びついた。


「リリー!」

「きゃっ……!」


 リリーはディオから短剣をうばおうとしたが、振り払われてしりもちをついた。あとすこし、もうすぐそこまでクライルが迫っている。

 泣きそうな顔をしたディオが短剣のさやを払う。ひざ立ちになった私の首を狙ったのか、伸びてくる切っ先がはっきりと目に映った。

 その瞬間にリリーが横から飛び出して、私の前に立ちはだかった。私はとっさに息を吸っただけで、悲鳴もなにもあげられなかった。

 よろめいたリリーを抱きとめる私の目の前で、クライルがディオを取り押さえる。

 リリーは力なくひざを折って、私に寄りかかるようにしてずるずるとその場に倒れた。


「うっ……」

「あなた、なんてこと……!」


 リリーの華奢なわき腹に短剣が深々と突き立っている。とっさに抜かなければと手をのばすと、アレクシス様の鋭い声がした。


「動かさないで。そのままだ。デニス、手当てができるものをすぐに」

「はい」


 デニス様が短く応答して、すぐに駆けて行く。アレクシス様は私たちのもとに駆け寄ると、ぬかるんだ土にひざをついて、リリーに優しくはっきりとした声でよびかけた。


「大丈夫、たいした傷じゃない。すぐに助けがくるからね」


 リリーは歯を食いしばって小さくうなずいた。


「いやだ。エリーゼ。君だけなんだ。ぼくには君しか――」


 そうわめくディオの顔をクライルが力任せに殴りつける。なおも騒ぎ立てようとするディオをクライルは更に数発殴り、気絶したのかディオは大人しくなった。


「殺してはいません」


 クライルがそう言ってアレクシス様を振り返る。そして仰向けに私のひざに頭をあずけたリリーを見てむずかしい顔をした。

 剣がふたになって、出血は抑えられているようだった。それでもリリーの制服には赤い染みが広がって、彼女はただ荒く浅い呼吸をくり返すだけで精いっぱいのようだった。

 アレクシス様がリリーの手をとってしっかりと握った。


「君は勇敢だ、リリー。あともうすこしの辛抱だからね」

「……」


 リリーが虚ろな目でアレクシス様を見上げる。さっきよりも呼吸が落ち着いたように感じた。


「まほう、ですか……?」


 リリーが消え入りそうな声でささやく。

 脂汗あぶらあせで亜麻色の髪が白い額にべったりとくっついている。私は彼女の額をなでるようにして、その髪をよけてやった。


「なんだか、すこし、楽に……」


 深いため息をついて、リリーは虚ろな瞳をゆっくりと閉じた。


「リリー?」


 胸が詰まりそうになりながら、私は小柄な少女の名前をよんだ。ふるえる手でやわらかい頬に触れる。リリーはうすく唇をひらいて、私のひざにぐったりと頭をあずけていた。

 クライルがリリーの腹に突き立った短剣の柄をつかむ。彼は剣をすこしかたむけると、青い瞳を悲しげに伏せて小さく首を横に振った。


「毒だ」


 リリーはぐったりと動かなかったが、身体はまだあたたかかった。胸が詰まって息ができない。

 私は浅くあえいで、頬に涙が伝うのを感じながら目を見ひらいた。


「どうして――」


 目の前に、光にあふれた窓があった。そして手もとには『アルセレニア興国史』がひらかれている。九十八ページだ。


「悲しい夢でも見ましたか」


 となりから、シャルノンの無機質な声がした。ぼたぼたと涙を流したまま、私はシャルノンに目を向けた。

 長い前髪の向こうに、ペリドット色の瞳が透けて見えた。


「夢……?」


 涙がとまらない。私は自分の頬を押さえつけながらつぶやいた。

 ここはまちがいなく私の部屋で、いまはシャルノンの個人授業の最中だ。スカートのひざにもすそにも泥はついていなかった。


「私、眠っていたの……?」


 私は誰に問うでもなく、茫然とささやいた。

 興国史のテキストは百六十二ページまで進んだはずだ。でも目の前にひらかれているのは九十八ページだった。おぼえている限り三回、同じページを前に目を覚ました。


「そうですね。お疲れなのではありませんか。今夜の授業はやめて、すこし休まれたほうがよろしいのでは」


 私の問いかけに、シャルノンは何度か聞いたような言葉で答えた。私は「そうかもしれない」とつぶやきながらうつむいた。


「おかしいの。同じ夢を何度もくり返しているみたい。ここで目覚めるのはもう四回目よ。いいえ、本当に夢なの……?」


 リリーの頬のぬくもりが手のひらに残っている。でもドラゴンに襲われるなんて、夢と言われたほうがしっくりくる。ひどい悪夢だった。ああ、夢なら……そう……夢でよかった。


「夢をおぼえていらっしゃるんです?」

「ええ……同じような日を何回もすごしたの。いえ、でも、夢でよかったの。よかったのよ」


 あれは夢だった、そう思うとようやく気持ちが落ち着いて、涙がやっと引いてきた。シャルノンの問いかけに答えながら、私は両手で自分の口もとを覆って安堵の息をついた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る