第四話

「エリーゼさん!」


 はずんだ声が響いて、リリーが野うさぎのように駆けてくる。

 学年のちがう私たちは、昼休みに中庭のはずれにある静かなバラ園で待ち合わせる約束をして、学院ですごすうちのわずかな時間を共有することにした。

 リリーと出会ってから、私の学院生活はいままでよりにぎやかになった。もちろん悪い意味ではなくて、リリーと一緒にいると毎日がみずみずしい。リリーのそばにいると雨あがりの晴れた庭を眺めるような、知っている景色の新しい一面を見ているような、新鮮で透き通った心地がするのだ。

 常に陰気なシャルノンとは対象に、リリーはいつでも光をまとっている。その光はアレクシス様のまばゆさとよく似ていて、それは彼女の持つ魔力のせいかもしれなかった。アレクシス様の魔力と共鳴したということは、リリーは強い光の魔力を宿しているのだろう。


 ――それもそうだわ。


 リリーが学院に編入したのは、私の謹慎が明けた、まさにあの日だった。学院に編入生があるというのは異例のできごとで、リリーのうわさはまたたく間に学院中に広がった。

 うわさを耳にしたあと本人にも確かめたが、リリーは神殿長を務めるオルバド侯爵を後見として学院に編入したのだという。そして彼女は同時にセフィーラの称号を与えられていた。

 セフィーラとは「女神」を意味する称号である。

 アルセレニア史を学んだものであれば、その称号を持つ人物があらわれたと知った瞬間、稲妻にでも撃たれたような気分になるだろう。

 リリー・ル・セフィーラ、つまりリリーは女神と名乗ることを大僧正猊下げいかに認められ、またそう名乗るよう求められたのである。

 その名を聞くだけで、誰もが、野うさぎのようなこの少女がアルセレニアに救いと繁栄をもたらす女神の化身なのだと悟るだろう。

 セフィーラの称号を持つ女性はアルセレニアの二千年あまりの歴史において、たったの数人しか存在しない。そしてその数人しかいない女神の化身たちは、窮地におちいったアルセレニアに降り立ち、災厄から人々を救い、あるいは戦を勝利に導く聖女としてあがめられてきた。


 ――こんなに平和な時代に……


 バラの香る中庭でベンチに腰かけていた私は、駆けてくるリリーを見つめて目を細めた。

 歴史上、セフィーラの称号が平時に登場したことはない。彼女たちはアルセレニアが危機的状況に置かれたときにあらわれ、まるで奇跡のように人々を救済する。

 そう、彼女たちは言葉通り「あらわれる」のだ。

 リリーが本当に女神の化身だとしたら、彼女はどこからともなくアルセレニアの地にあらわれたのだろう。

 前例として記録がないだけで、セフィーラは平和な時代にもあらわれるのかもしれない。それとも、平穏に隠れて、いままさにこの国に暗雲が迫っているのかもしれない。

 しかし、もし災厄や戦争が迫っているとしたら、リリーはそれらからアルセレニアを救うためにやってきたのだ。


「おとなり、よろしいですか!?」


 籐編とうあみのバスケットを胸の前に掲げて、頬を上気させたリリーがさけぶ。

 彼女は自分が特別な存在だとすこしも思っていないようだった。セフィーラを名乗ることがどんな意味を持つかも知らないように見える。


 ――世界というのは湖に落ちたリンゴで、湖にはあまたのリンゴが沈んでいる。これは神学者のズィーツの説です。対して魔導師ロッドは世界とは布で、重なり合って層になっているのだと唱えています。いずれにせよ我々が生きる地上のほかにも、まったく別の環境を持つ世界が存在するというわけです。通常、世界は直接的には干渉しませんが、たとえば歴史上でセフィーラとよばれる女性たちはこのアルセレニアへ異なる世界からやってくるのだと考えられています。


 シャルノンの講義を思い出しながら、私は自分のとなりを手のひらで示した。


「ええ。どうぞ」

「へへ……」


 リリーがにやにや笑って、私のとなりに腰を下ろす。

 神殿の教えではセフィーラとしてあらわれる女性たちは、神界――神々の住まう世界からやってくるのだと信じられている。

 しかし、リリーは光をまとってはいるが、こうしてにやにやと笑う姿はごく普通の、ともすれば年齢よりも幼く感じられるような純朴な少女だ。そんな大仰な場所からやってきたようには思えない。


「学級にお友だちはできた?」

「いえ……やっぱりみんな、よそよそしくて」


 私が質問すると、リリーは困り笑いをしてみせた。

 それもそうだろう。彼女は一見平民の少女だが、王族に並ぶ、いやもしかしたらそれ以上の輝きを放つセフィーラの称号を有しているのだ。

 リリーが編入してきたのはつい先日のことで、とりまく勢力関係もまだ見えてこない。おいそれとすり寄ることもはばかられるとなれば、まずは様子を見るしかない。


「でもエリーゼさんがいてくれるから、私、さびしくないんです」


 小ぶりのバスケットをあけて、リリーはサンドイッチをひとつ手に取った。


「エリーゼさんのそばにいるとほっとします。出会ったばかりのはずなのに、なつかしいような気がするんです」


 遠くを見るような目をしたリリーは、おだやかな声で言った。横顔にほんのすこしさびしさがにじんでいるように見えた。


「……ええ。私も」


 バラの甘い香りのせいか、かすかなめまいを感じながら、私はリリーの言葉にうなずいた。

 出会ってまだ数日だというのに、私も、リリーとはもっとずっと前から知り合っていたような気がする。

 リリーは「本当ですか?」とこげ茶の瞳をまん丸にして、無邪気な笑みを浮かべた。


「そっか。私たち、めぐりあう運命だったのかもしれませんね」


 ――運命。


 リリーが何気なく選んだであろうその言葉が、ドキリと胸に響く。私は動揺を隠してあいまいに微笑んだ。するとリリーはかあっと顔を赤くして、うつむいてしまった。


「すみません。なんか、恥ずかしいこと言っちゃいました」

「あなたはロマンチストなのね」

「ちょっと夢見がちなんです……」

「いいじゃない、すてきだわ」


 私が微笑むと、彼女はちらりとこちらを見てぎこちなく笑った。


「エリーゼさんのほうが、ずっと女神さまみたい」


 セフィーラの称号がなにを意味するか、リリーは全く知らなかった。しかし自分がこの国を救う女神の化身であるということは、神官たちから聞かされているようである。

 そして私がアルセレニアに迫る危機に見当がつかないように、自分がいったいなにからこの国を救うというのか、リリー自身にもわかっていないのだ。

 リリーは歴代のセフィーラと同じくどこからともなくあらわれた。彼女はアルセレニアの歴史も地理もなにも知らない。そこで神殿はリリーを警備の整った学院にかよわせて、様子を見守ることにした――ようである。というのも、リリーから聞いた話だからそれが神殿の真意なのかどうかはわからない。


「あら。悪役令嬢が女神だなんて」

「エリーゼさんはちっとも悪役なんかじゃありません」


 リリーの孤独と不安を垣間見た私は冗談めかして言った。すると彼女は真剣な顔で否定した。


「こんなところにいたんだね」

「アレクシス様」


 聞き覚えのある声に振り返ると、アレクシス様が立っていた。アレクシス様のすぐうしろにクライルとカティア様が控えているが、デニス様の姿は見あたらない。私はさっと腰を浮かせて会釈した。

 「はわ」と、リリーが妙な鳴き声を出して、サンドイッチをバスケットにもどした。


「あっ、あっ、私、すぐにどきます」

「どうして? 食べかけじゃないか」

「おふたりのお邪魔はできません」

「気にしないで。お邪魔虫は私のほうだ」


 立ちあがろうとしたリリーの肩をアレクシス様がやんわりと押しもどす。リリーは顔を真っ赤にして、訴えるように私のほうを見た。私は思わずアレクシス様に目配せして、一緒にくすりと笑った。

 そうすると、案の定クライルがわざとらしく咳払いする。それがおかしくて私とアレクシス様は顔を伏せて、お互いに肩をふるわせた。


「リリー。紹介するよ。私の護衛で、エリーゼのフィアンセのクライル・フェレル・ド・スマルト伯爵だ」

「えっ……」


 言いながら、アレクシス様がクライルを示すと、リリーはとまどった様子で私たちの顔を見比べた。


「あっ、えっ……エリーゼさんは、アレクシス様の婚約者じゃ……ないん、ですか?」

「ちがうんだ。残念ながら」

「あっ、わ、私! すみません! おふたりが並んでいるの、本当にお似合いだったから……! あっ、ちがうんです、あの、だって……お似合いだったから……」


 狼狽したリリーがくり返すと、ムスッとしていたクライルの視線がほんのすこし下に落ちる。


「おちこまないで」


 見逃さなかったカティア様がポンとクライルの肩をたたいた。

 それを横目に私はアレクシス様に本題をたずねた。


「なにかご用でしたか?」

「うん。ハルマン伯爵のご子息が復学すると耳にしてね。念のため、君に伝えようと」


 アレクシス様は微笑みを消して、私に案じるようなまなざしを向けた。

 ハルマン伯爵子息――つまり、ミモザ様の兄、ディオのことだろう。今回の謹慎騒動の要因となった人物だ。


「お元気になられたなら、よかった」

「しばらく人気ひとけのない場所はけたほうがいい。迷惑でなければ、カティアを君に付けよう。デニスはだめだ。クライルが妬くからね」


 アレクシス様はつとめて明るく言った。

 しかしその内容は、よく聞けば物騒である。妹のミモザ様によればディオは叶わぬ恋を嘆いて自死をはかった。そしてそれが失敗に終わり、心身の傷が癒えたからこそ学院へもどってくるのだと思っていたが……。

 私のとまどいを察したのか、アレクシス様は「念のためだよ」とつけ加えた。


「学院内にはクライルでは付き添えない場所もある。でもカティアなら大丈夫だ」

「お気持ちはありがたいですが……」


 そうは言ってもカティア様は近衛騎士で、アレクシス様を守るために付き従っているのだ。やんわり断ろうとするとクライルの青い瞳と目が合った。


「……」


 アレクシス様の手前、クライルは私情を口にはしなかったが、にらむような目に咎められている気分になる。どうしよう、と思いながらカティア様を見やると彼女は諭すような表情でうなずいた。

 バラ園を見渡すしぐさをしてから、アレクシス様が私とリリーに向き直った。


不躾ぶしつけだが、しばらく私もこの花園にお邪魔しても?」

「もちろんです。アレクシス様がよろしいのであれば」


 アレクシス様が私を気にかけてくれるのは、私がクライルの婚約者だからだろう。けれどそうでなくても、助けを求めたら手を差し伸べてくれる人であるように思う。

 しかし彼は救いを求める民ひとりひとりに自らの手を差し伸べることはできない。拒まねばならぬことも、見捨てなければならぬこともあるだろう。

 王太子である以上、アレクシス様の分けへだてない優しさは長所でありまた短所でもある。優しいだけでは王は務まらないのだ。

 それでも彼の優しさはクライルやリリーの存在と同じように、ときに波立つ私の心をがせてくれる。


 ――優しい人が優しいだけで生きて行ける世界があれば、どんなによいだろう。


 優しいヘーゼルグリーンの瞳を見上げながらそんなふうに思うと、チカリと目がくらんだ。


「エリーゼ」

「エリーゼさん」


 アレクシス様とリリーが同時にささやいて、私を支えるように手を伸ばした。


「ごめんなさい。すこし、めまいが」

「座って。すまない、私が立ち話をさせたから」

「最近眠りが浅くて……でもすぐに治りますから」


 アレクシス様が申し訳なさそうに言うのを聞きながら、私はベンチに腰を下ろした。


 ――心労だと思われたかしら。


 最近、ふとめまいを感じることがある。アニタいわく夜中にうなされているらしいから、満足に眠れていないのかもしれない。

 でもこんなタイミングでは、ディオに対する不安で血の気が引いてしまったと思われそうだ。


「……」


 視界に入ったクライルは、とても怖い顔をして押し黙っていた。あとでディオのせいではないと説得しておかないと、大事おおごとになるかもしれない。にわかに殺気立ったクライルを見て、そんな不安が胸をよぎった。

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