第二話

 あっという間に三日が経って、復学の日になった。

 ひと月ぶりに制服にそでを通すと、すこし大きかった。引きこもって太ったものと思ったら逆に痩せたらしい。あらためて鏡をのぞき込んでみたところ、顔色は悪くなく、痩せたといっても頬がこけるほどではないようだった。

 相変わらず目じりは鋭く、鏡のなかの私はいかにも気が強くわがままそうな女に見える。

 実際、弱った姿を見せるのはだし、辺境の要衝を守護するアシュテンハイン辺境伯の娘として、か弱いご令嬢とは思われたくない。ないものねだりは別として、私はきっとこれでよいのだ。


「いってらっしゃいませ」


 並んだ使用人たちに見送られて、久々にやしきを出る。青々と澄み渡った空があまりにもまぶしくて、目がくらみそうになった。

 よく晴れているが、あたりにはまだうっすらと朝の冷気がただよっている。それがなんとも清々しく、心地よかった。


「おはよう」

「クライル」


 門前に馬車が停まっていると思ったら、幼なじみが待ち構えていた。私が面会を拒み続けたので、顔を合わせるのはひと月ぶりだ。

 近衛騎士の制服に身を包んだクライルは公務のために前髪を上げている。短い水色の髪が朝の陽ざしに透けて、青空よりまぶしかった。私がアメジストだとしたら、彼はアクアマリンといったところだろう。

 クライルは切れ長の涼しげな瞳を軽く細めて、とても優しいまなざしをした。ようやく会えた、という彼の心情があらわれているようだった。

 私が気の強い顔だちであるように、クライルは容姿だけならずいぶん神経質そうに見える。そういう顔つきに加えてどちらかといえば物静かなほうだから、年ごろの令嬢たちから「氷の貴公子」などとよばれて遠巻きにもてはやされている。


「送って行こう」

「久しぶりだし、景色を見ながらゆっくり歩くわ」


 私はクライルの申し出に首を横に振った。

 クライルは「そうか」とつぶやいて御者に行くよう合図した。馬車は門前を離れて大通りへと去って行った。


「それじゃあ、行こう」

「一緒に歩いてくださるの?」

「やめてくれ、他人行儀に。君を送るためにきたんじゃないか」


 私の問いかけに、クライルはすねた顔をした。門前払いが効いているらしい。

 謹慎中、私は家庭教師のシャルノン以外との面会を一切受けつけなかった。もちろん婚約者のクライルも例外ではない。

 彼が私の様子を案じてたびたび訪問していたことは使用人たちからも聞いている。そんな優しいフィアンセに、私は顔を見せるどころか手紙のひとつも出さなかったのだ。


「俺がどれだけ心配したか、わかってるのか」

「だって、面会を許したら毎日くるでしょう」


 私の言葉にクライルはむすっとした顔で押し黙った。図星なのだろう。

 そんなクライルを横目に、私は数歩下がって私のあとに控えていた使用人のコリンを振り返った。普段ひとりで登校するときは使用人のうちでも腕の立つコリンを同道している。私はコリンに向けて、今日はクライルと行くわ、という意図を込めてうなずいた。


「お気をつけていってらっしゃいませ」


 コリンは私の意図を汲み取って頭を下げた。元傭兵なだけあって筋肉質で、コリンと比べるとクライルがずいぶんすらりとして見える。

 視線をもどすと、クライルは相変わらずむっすりしていた。

 彼は一見冷たそうなアクアマリンで、ただその内側に深い愛情と情熱を宿している。なんでもそつなくこなせるように見せて努力家で、物わかりがよさそうに見えて熱くなりやすい。

 いったいどこが氷の貴公子なのだろうとおかしくなってしまう。いまだって、すっかり大人びた顔だちで幼い表情を垣間見せているというのに。

 並んで歩き出すと、クライルの大きな手がそっと私の手を握る。「はしたないわ」とやんわり押し返すと、彼は悲しそうな目でこちらを見た。まるで捨てられた小犬のようで、がまんしきれず笑ってしまった。


「ふふ」


 私より三つ年上のクライルは、代々騎士として王家に仕えるフェレル家の嫡男ちゃくなんである。

 フェレル家には代々キャストリー侯爵の称号が受け継がれるが、このキャストリー侯爵は、かつてはその時代においてもっとも優秀な騎士に与えられる称号だった。フェレル家はこの称号を数世代にわたってたまわり、戦乱の時代が終わるころ、その武勲をたたえて称号の世襲を許された。つまるところ、フェレル家は騎士の名門なのである。

 実際に現在のキャストリー侯爵は筆頭騎士として騎士団長を務め、その子息のクライルもいまは王太子付きの近衛騎士を務めている。王太子付きの近衛騎士ということはつまり、王太子殿下の即位とともに国王陛下の側近となるわけで、出世が約束されているようなものだ。

 涼しげな容姿だけでなく家名や将来性を含めて、クライルは年ごろの令嬢たちにとってあこがれの存在なのだ。私とクライルが父親同士の約束のために婚約したというのは有名な話で、良縁を求める女性たちからすれば私の存在はあまりにも妬ましい。

 とはいえ、私とクライルの身分的なつり合いという点ではすこしも問題はないし、むしろお互いに理想的ともいえるのだ。

 私の父が治める辺境の地アシュテンハインはアズル海に面する要衝であり、国内最大規模の海軍を有している。また、アシュテンハインの海軍は王国騎士団からは独立した組織で、騎士団同様に国王陛下直属の軍隊である。つまり、海軍と騎士団は同格で、その長として海軍の指揮を執るアシュテンハイン辺境伯は、陸上における騎士の最高位アルセレニア王国騎士団長と対をなす存在なのだ。

 しかし海軍の拠点は辺境のアシュテンハインで、多くの国民にとってなじみのあるものではない。それに海軍は騎士団と比べれば規模も小さく、華やかさにも欠ける。ゆえに昨今のような平和な時勢では格下として扱われがちで、海軍への評価はまたアシュテンハイン辺境伯への評価に直結する。残念ながら「無作法な大男」というのが世間一般のアシュテンハイン辺境伯に対するイメージで、その娘の私もまた「シャチのような女」といううわさがあるらしい。

 うわさに流されやすい娘たちが「氷の貴公子」と「獰猛どうもうなシャチ」ではどう考えてもつり合わない、と考えるのも無理はないのかもしれない。


「なぜ笑うんだ」


 私はにやけた口もとを隠しながら「ひみつ」と答えた。クライルは不満そうな顔を維持しようとしたが、私につられたらしく、かすかに表情をゆるませた。

 父親同士が決めた婚約で、そこに私たちの意思はない。それでも出会ったときから、クライルは私をたったひとりのお姫様として扱ってくれた。

 フェレル家の長男である以上、クライルに挫折は許されない。彼は幼いころから常に期待という名の重圧にさらされてきた。そしてそれに応えるための努力を怠らなかった。

 あまりにもまじめなクライルを見て、彼が私に示す愛情は義務感によるものではないかと疑ったこともある。でも、義務だったら、こんな顔はしないわね。

 クライルは昔から過保護だった。私がクライルを兄弟のように感じてしまうのは、そのせいもあるかもしれない。そして私は勝手に、彼も私を妹のように、つまり家族のように愛しているのだと思い込んでしまったふしがある。

 だからお互いの成長とともに変質して行く関係に、私だけがとまどっている。でも、そのとまどいも、遠からず消えて行くのかもしれない――最近はそんな気がしている。

 

「ひどいうわさになっている」


 やわらいだ表情をすっと消してクライルがつぶやいた。


「君との婚約を解消しろと、ありがたい助言までいただいた。余計なお世話だ」


 クライルは憤りを隠さなかった。そう、意外と素直なのである。

 オーシャンブルーの瞳がまっすぐ前をにらみつけていた。


「どんなうわさかしら」

「君がハルマン伯爵令息をたぶらかし、もてあそんだあげく捨てただの……」

「まるきり嘘ではないわね」

「君は親切にしただけだ。非常識なのは相手のほうだろう。他人ひとの婚約者に言い寄って、なびかないのは当然じゃないか。それどころか君の優しさにつけ込んで同情を引こうとした。その行いが咎められずに、なぜ君だけが責められるんだ」


 どうやらずいぶんご立腹らしい。おそらくクライル自身もあれこれ言われたのだろう。私のせいで迷惑をかけてしまった、と思うと同時に私の代わりに憤ってくれるのがうれしかった。


「そうね。でも、私も……」

「君は悪くない」


 私の言葉をさえぎって、クライルは言い切った。


「俺が君でも、同じようにした。君はまちがっていない」


 クライルの青い瞳は鋭く涼しげで、けれど情熱を秘めている。こんなに暑苦しい人なのに、いったいどこが氷なのだろう。


「ありがとう」

「……すこし、痩せた」


 クライルの指先が私の頬に触れる。

 彼はそのままじっと私を見つめていた。眉をしかめて、泣き出しそうな顔にも見えた。すっかり大人びた顔だちにうっすらと少年のころの面影が重なる。

 クライルは昔からまっすぐだ。必要以上の期待と嫉妬にさらされてすこしくらいひねくれそうなものなのに、ちっとも曲がらない。


「……のに」

「なに?」


 クライルの口もとがかすかに動く。なにを言ったのか聞き返したとき、小太りの男性が何事かさけびながら道を駆けてきた。


「ちゆ、治癒師! 誰か! 女の子がはねられた!」


 あたりがにわかに騒然とする。クライルが表情を引き締めて振り返った。


「どこだ」

「となり通りだ。馬車にはねられたんだ。死んじまう、早く!」


 「行って」とクライルに声をかけようとして、はっと目をひらいた。


「……」


 のどかな春の陽ざしが差し込む部屋――私の部屋だ。

 窓の外で小鳥たちがさえずっている。目の前には『アルセレニア興国史』の九十八ページがひらかれていた。


 ――なにが起こったの。


 とまどって、ブラウスのえりに触れる。


「おはようございます」


 無機質な声にぱっと振り返ると、となりにシャルノンが座っていた。


 ――夢……?


 夢を見ていたの?

 すさまじい既視感に襲われながら周囲を見まわす。私の部屋でまちがいなかった。


「私、眠っていた……?」


 動揺を隠すように髪を耳にかけながら聞くと、シャルノンは淡々と答えた。


「そうですね。なにか夢でも見ていらっしゃったのですか」

「夢……。そうね。ごめんなさい。居眠りしたんだわ」

「謹慎はあと三日でしたね」

「ええ……そう。気が抜けているわね。しっかりしなくては」


 どうやら日常の夢を見ていたらしい。謹慎が明けるまでまだ三日ある、と思うとすこしほっとした。夢のなかでは登校するところだったものね。

 ふう、と息をつくとシャルノンがのそりと私の顔をのぞき込んだ。カタツムリのような緩慢かんまんな動作だった。


「すこし休んだほうがよいのでは? 今夜の授業はやめましょうか」

「大丈夫。ええと、精霊学の百三十二ページからね」

「いいえ。百十五ページです」

「そうだったわ。百十五ページ。寝ぼけてるわね、ごめんなさい」


 シャルノンは「いえ」と答えて頭を掻いた。


「そういえば、クライル様が門前払いを嘆いていました」


 私は椅子を立つシャルノンを振り返った。その台詞を夢のなかでも聞いた気がする。


「ええ」

「……」


 あいまいにうなずくと、シャルノンが長い前髪の奥からじっと見つめているようだった。気まずくなって自分の唇に触れる。


「手紙でも、書こうかしら」

「およろこびになるでしょうね」


 苦しまぎれに言うと、シャルノンがいぶかしげな顔をした――ような気がする。目もとまで髪に隠れているから、実際どうかはわからない。

 いつもなら言わないような台詞が深い意味もなく口をついたのは、クライルの夢を見たせいかもしれなかった。


「それでは、少々席を外します。また夜におうかがいします」


 学院での講義の時間が迫っている。シャルノンが頭を下げて部屋を出て行くと、入れちがいにアニタがお茶とお菓子を運んできた。


「お嬢様。お茶をお持ちしました」

「ありがとう。……オールド・ミストね」


 勉強机から丸テーブルに移る。

 カップのなかでゆれる紅茶からスモーキーな香りがただよっていた。さっきまで見ていた夢とまるきり一緒だ。


「お嬢様?」

「いい香りだわ」


 カップをのぞき込んでいた私は顔を上げて微笑んだ。アニタがほっとしたように表情をゆるませる。


「今日はお嬢様のお好きなアイシングケーキを」


 そう言ってアニタが机に置いたのは、彼女の得意なレモンアイシングのケーキだった。



 それからの三日間を私は奇妙な既視感とともにすごした。予知夢を見たのかもしれないと思うほどだった。

 ひと月ぶりに袖を通した制服は、夢で見たようにすこし大きい。現実でも痩せたようだ。


「いってらっしゃいませ」


 使用人たちに見送られて邸を出る。よく晴れたさわやかな朝だ。明るい陽ざしに軽く目がくらんだ。

 そうして予感した通り、門の前には馬車が停まって、幼なじみのクライルが待ち構えていた。近衛騎士の制服を着て、前髪を上げている。

 私の姿を認めると、クライルは神経質そうな顔におだやかな微笑みを浮かべた。


「おはよう」

「……おはよう」

「送って行こう」


 朝のあいさつをかわして、クライルが手を差し出す。私は目の前の馬車を見上げた。


「どうした」

「いえ……久しぶりだし、景色を見ながらゆっくり歩くわ」


 夢をなぞるか、それともちがう選択をしてみようかすこし迷って、いまの気分を優先した。クライルは「そうか」とつぶやいて御者に行くよう合図した。


「それじゃあ、行こう」

「……」


 私はとまどいがちに微笑んだ。これも夢の通りだ。

 うしろに控えているコリンを振り返ってうなずき、コリンが「いってらっしゃいませ」と頭を下げる。奇妙な感覚になりながらクライルに向き直ると、クライルは表情を消してそっと私の頬に触れた。


「すこし、痩せた」

「そうかしら」


 彼は私をじっと見つめた。夢のなかで私の頬に触れたクライルは泣き出しそうな顔をしていた。けれどいま、彼の青い瞳には情熱がひそんでいる。強い意思を宿した、いつものクライルのまなざしだった。


「まだ休んでいたほうがいいんじゃないか」

「病人じゃないのよ」

「……のに」


 夢と同じだ。クライルがなにを言ったのか聞き取れない。「なに?」と聞き返すと、彼は指先で私の頬を優しくなでた。


「君を傷つけるすべてから、守りたいのに」


 今度ははっきり聞き取れた。私は思わずきょとんとして、その言葉を胸のうちでくり返した。そうしてやっと理解すると、思わず口もとがほころんでしまった。

 クライルの声や表情がどこか子どもっぽいせいで、愛のささやきというより、子どものわがままみたいだったんだもの。


「ありがとう」


 私は頬をなでるクライルの手にそっと自分の手を重ねた。クライルがすこし前かがみになる。


「でもね。ずっと見つめ合っていたら遅刻してしまうわ」


 にこりと微笑むと、クライルがちょっとすねた顔をした。氷の貴公子が台無しだわ。そう思ったらおかしくて、笑ってしまった。


「俺がどれだけ心配したか、わかってるのか」

「もちろん。……とてもうれしいわ。ありがとう、クライル」

「……わかってるなら、いいんだ」


 クライルはふいと顔をそむけて歩き出した。照れてしまったみたい。

 大きな手がそっと私の手を握る。はしたないわ、と思いながら、その手を軽く握り返した。


 レンガ敷きの道をクライルと並んで歩きながら、かぐわしい春風を胸いっぱいに吸い込む。こんなにのどかで平和な朝なのに、不安がただよって消えない。いったいどうしたのかしら。


「おかしな夢を見たの」

「夢?」


 思い切って口にすると、クライルがまじめな声でくり返した。

 私はうなずいて、言葉を続けた。


「夢のなかでもこうしてあなたと道を歩いていたわ。手はつながなかったけど」


 私の手を握るクライルの左手にきゅっと力がこもる。

 夢の内容を語ろうとしたのに、なぜなのか躊躇ちゅうちょしてしまう。


「それでね……女の子が馬車にはねられてしまうの。どこの誰かもわからないけど……」


 ただそれだけ、夢の話なのに声がふるえてしまった。事故を目撃したわけではないし、その子の顔も名前もわからないのに、ひどくおそろしいできごとに思えた。

 ふと、わあわあと誰かがわめく声がした。小太りの男性が転げるように駆けてくる。


「ちゆ、治癒師! 誰か! 女の子がはねられた!」


 あたりがにわかに騒然として、クライルが私の顔を見る。

 さっ、と血の気が引く感覚がした。まさか、本当に予知夢だったなんて。


「どこだ」


 気をとりなおしたクライルが男性に声をかける。動転した様子の男が唾を飛ばしてさけんだ。


「となり通りだ。馬車にはねられたんだ。死んじまう、早く!」

「クライル。助けなきゃ――」


 とっさにクライルの腕に触れる。そしてハッと目をひらいた。


「――」


 のどかな春の陽ざしに、小鳥たちのさえずり。目の前には『アルセレニア興国史』の――九十八ページだ。

 「おはようございます」と、シャルノンの無機質な声がした。私は胸に手をあてて、陰気な家庭教師を振り返った。ドクドクと心臓が激しく音を立てている。


「シャルノン。私……」

「めずらしいですね。あなたが居眠りなんて」

「ごめんなさい。疲れているのかも……」


 これは夢? 現実?

 夢のなかで夢を見ているのかしら。何度も、同じ夢を。

 私は額を押さえてうつむいた。


「ときには休息も必要です。今夜の授業はやめましょう」

「いいえ……。すこし休めば大丈夫。夜は精霊学の、何ページからだった?」


 すっかりわからなくなってそう聞くと、シャルノンは真顔で答えた。


「百十五ページです」

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