第2話
翌日、Aは京都メトロに揺られながら、ある記憶に潜っていた。10年近く前、彼が大学生だったころのものだ。彼はその時に知覚した全てを、生じた一連の感情とともに頭の奥底に鮮明に残していた。
ただ、それらを自らには関係ない他人の写真や動画のようなものとして保管していた。安全に幸福を享受できるように、自分の体験を他人のそれとして再現するようにしていたためだ。
まもなく次駅に着くという車内アナウンスで、彼は現実に帰った。
昨日と同じように青い錠剤が入った小さなビニール袋をスーツの内ポケットから取ると、それを一粒飲む。たちまち過去は奥に立ち去り、彼の前には現在だけが残った。
彼は携帯を開くと、メールの受信ボックスに届いている昨日対応した事件の報告書に目を通した。火人間の処分自体は、Aのような火を操る能力を持つ防火実行士の仕事だが、その後については別の部門の管轄だった。
報告によれば、昨日の火人間案件の人的物的被害としては、火人間化した男の恋人である女一名の死亡のみとのことだ。
ホテルの窓の破壊については、火人間化する前のようで、2人が違法薬物(巷では、丸い形のハイになれる薬物ということから、「ハイボール」と呼ばれていた)を摂取し、ハイになった結果、爆発物で破壊したらしく、通常の事件のため協会案件ではなく警察案件だった。
火人間化した理由は、火の色が赤だったことから、「薬で増幅した被害者への支配欲等と観念できる」と報告書には記載されていた。
彼が報告書を読み終えたタイミングで、メトロは目的地の「今出川駅」に停車し、彼はそこで降車した。
火人間防止協会 京都本部は、京都メトロ今出川駅からすぐの、ある私立大学がかつてあった場所に位置していた。
大学で使用されていた赤煉瓦の建物をそのまま使っており、南に京都御所、北に相国寺と和の建物に挟まれているため、その存在が目立つ。
その大学は、●●年前に施行された火人間防止法により、創作物の内容への制限が法定され、価値のある多くの創作物の閲覧が禁止されたため、存在意義を失い廃校になったのだ。その後、大学が所有していた土地建物は火人間防止協会が買い受けて今に至る。
Aは、強い日差しを感じながら、協会の門をくぐった。彼がここに来るのは入会式に訪れてから初めてだった。彼は協会の職員ではあったが、一般の職員のようにどこか決まった勤務地があるわけではなかった。防火実行士は、指令があれば直接現場に出向くという働き方のため、決まった勤務地という概念はなかったからだ。
今日彼が呼ばれたのは、甲から丙まである指令クラスのうちトップクラスの甲指令を受けるためであった。乙及び丙は携帯に連絡が来るのみであったが、甲の場合は慣習的に本部で受けることになっていたのだ。
Aはかつて大学で教会として使われていた建物に行くと中に入る。
建物内は、木製の長椅子が左右にそれぞれ数列あり、その左右の列を分けるようにして扉から真っ直ぐに通路が伸びている。その突き当たりには、かつては説教壇として使用されていた壇があった。ステンドグラスから差し込む光が辺りを照らしており、見た目は教会と差はなかったが、左列の最後尾の長椅子に返り血で真っ赤な男が横たわっていることは相違していた。
「今日は20人だ」
Aの存在を感じたのか、男は彼に語りかけるように話し始めた。
「彼らは潜在的に火人間だったから殺した。私情での殺人ではない。我々には火人間だけでなく、潜在的な火人間の処分も許可されているのだから」
Aは彼の言葉に反応しないように心を無にしつつ、壇まで向かう。
壇上には、二つ折りにされた小さな紙が置かれていた。それを手に取り、出口へと向かう。
建物から出る際、ちらりと男の方を見ると、彼の体は黒い火に包まれ始めていた。
その火が燃やしているのは彼の体のみだ。
(自己破滅の欲から生じる火か)
Aはそう思考すると、建物を後にした。
Aはメトロの到着を待ちながら指令の内容を確認したとき、放棄したい気持ちと、進んで受けたい気持ちが両立しているのに気づいた。同時に、心底に赤い火が現れ始めていることを感じた。
彼が青い薬に頼ろうとしたとき、携帯が鳴った。
画面を見ると親友のKからのメッセージで、「今日、会えるか。話したいことがある」
と表示されていた。
2年ぶりの連絡だった。
Aはしばらく考えた後、薬を飲むことをやめて、胸の奥に広がり始めた好ましくない色の火をそのままに、家とは逆方向のメトロに乗ったのだった。
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