三話

 自分の部屋で、私服に着替える。髪を整えて玄関に向かうと、後ろから真一が声をかけてきた。

「どこに行かれるのですか?」

「ちょっと散歩でも。天気いいし」

「では、秀二しゅうじを呼んできます」

 秀二は、真一の弟だ。十八歳で、真一と同じく紳士で真面目。綾音が廊下で待っていると、スーツ姿で駆け寄ってきた。

「お散歩に行かれるのですね。お供します」

お辞儀をして、綾音の横に並んだ。

 とても背が高く、がっしりとしている。綾音のことも軽々と持ち上げられそうだ。ちらりと横顔を見ると、真一と同じく端正な顔立ち。十八歳なので、きちんと高校に通っている。平日は、椎名家にいない。二人で出かけられるのは土日だけ。

 綾音の部屋の前が秀二の部屋なので、朝、ドアを開けると始めに会うのが秀二だ。

「おはよう。秀二くん」

「おはようございます。綾音様」

 その時、秀二は私服を着ているため、スーツ姿以外の彼も知っている。

「秀二くん。私のこと、綾音様なんて呼ばないでよ」

 歩きながら言った。

「え? なぜですか?」

「礼儀正しくなんてしないで。お供もいらないし。真一さんにも、そう言っておいてね」

「いえ。でも」

「敬語も使わないで。私たち、友だちでしょ?」

「ですが、お嬢様なのですから」

「そんな、堅苦しいこと……。綾音って呼び捨てしてほしい」

「さすがにできませんよ」

  首を横に振る秀二に、はあ、とため息を吐く。

 家が大金持ちと言っても、綾音は周りの子たちと何も変わらない高校生だ。すごいのは父であって、綾音はすごいことはしていない。秀二は歳も近いし、本当に友だちという関係。だが向こうからは特別な人というイメージを持たれている。

小学生の時、父に聞いたことがある。

「パパ。どうして私って、綾音様って呼ばれてるの?」

「だって、それは……。パパが大金持ちだからだよ」

「けど、私はお金稼いだことないよ? 綾音様なんて呼ばれるの、おかしくない?」

「まあな。だけど、別に嫌な気分はしないだろう」

「するよ。お嬢様扱いされたくない。普通の子に見られたいの」

「仕方ないだろう。そういう決まりなんだ」

「決まりって言っても……」

綾音は嫌だった。お嬢様なのだから、お行儀よくしなさい。みんなから憧れる存在になりなさい。なぜ面倒なことを守らなくてはいけないのか。しかも、家の中にいる時も。 

  綾音の、おてんばな性格で屋敷の中が大騒ぎになってしまったことがあった。七歳の誕生日パーティーで、いつものように走り回ったり、踊ったりしたのだ。しかも、ドレスを着た状態で。ケーキは倒れ、プレゼントもべちょべちょ。雪音は怒らなかったが、徹也はとても怒った。

「もう少し気をつけろ。周りに、大勢の人がいるんだぞ」

「ごめんなさい」

「せっかく用意したケーキもドレスもプレゼントも台なしだ。集まってもらった方たちに、どれほど迷惑をかけたか、わかってるのか」

「それくらいにしてあげて。綾音、泣いてるじゃない」

  ポロポロと涙を流す綾音に、これ以上は可哀想だと感じたらしい。徹也も黙って、とりあえずは許してくれた。綾音も反省したが、やはり楽しいと興奮してしまう。大人しくなどできないのだ。

 もう一つ失敗したのは、木登りをしたことだ。十一歳の時、秀二と公園に遊びに行き、スカートで登った。

「綾音様。降りてください」

「え? 大丈夫だよ」

「落っこちちゃいます。スカートだから危ないですよ」

「秀ちゃんも来たら? すごく気持ちいい……」

だが、グラリと体が動き、まっさかさまに落ちた。

「きゃああっ」

「綾音様っ」

  慌てて秀二が駆け寄る。地面が柔らかい芝生だったのでアザだけで済んだが、綾音も秀二も怒られた。秀二は、綾音を助けられなかったのを真一に責められていた。

「綾音様が大怪我をしたら、どうするんだっ」

「ごめんなさい」

「ま、待って。秀ちゃんは悪くないよ。私が木に登ったからで」

「いいや。そばにいたのに護れなかった。お前が綾音様を抱いて降りればよかっただろう。この、役立たずっ」

  真一は激怒していた。秀二はがっくりと項垂れ、「ごめんなさい」と小声で謝り続けた。

  その夜、綾音は秀二の部屋にこっそりと入った。秀二は広いベッドにうつ伏せになり、震えながら泣いていた。まだ十二歳の秀二に、綾音を護ることなど無理なのだ。真一は厳しすぎる。いくら仕事だといっても、あそこまでキツく怒鳴るのはあまりにも酷い。

「秀ちゃん」

 声をかけると、ハッと顔を上げた。涙をごしごしと拭く。だが目は真っ赤だ。

「あ、綾音様」

「ごめんね。私が全部悪いのに……」

「いえ。兄さんの言う通りです。綾音様を抱いて降りられなくて……。怪我させてしまい、申し訳ございません」

 土下座をする。綾音もポロポロと泣いた。

「もう、あんなことしない。絶対にしない。私、秀ちゃんが泣いてるの見たくないもん。笑顔の秀ちゃんが大好きなんだよ」

「ありがとうございます……。僕も、綾音様の笑顔が大好きです……」

 しばらく「うわあああんっ」と二人で泣き、部屋に戻った。

 その翌日から、秀二が急に男らしくなった。真一と同じく、キリッとした口調。目つき。命をかけても綾音を護り抜くという信念が、表情に表れていた。かっこいい秀二。たくましい秀二に、うっとりと見惚れる。どきどきしてしまう。そして、今日まで一緒に暮らしてきた。

 


 真一は、常にスーツを着て、屋敷の中にいるわけではない。秀二と同じように私服を着て、出かけたりもする。

 家の中のどこにもいないので雪音に聞いてみると、「買い物に行った」と返事が戻ってきた。

「買い物? どこのお店?」

「さあ……。知らないけど」

 慌てて外に飛び出した。真一を探しに走って行く。意外にも早く見つかった。

「綾音様。どうしたのですか」

 清涼感のあるワイシャツに、濃紺のジーンズ。普段とは違う姿に、どきっと心臓が跳ねた。とても男らしく、さらにかっこいい。

「私服の真一さんが見たくて。すごく似合ってますよ」

「そうですか。ありがとうございます。綾音様に褒めていただき、嬉しいです」

 お辞儀をする。綾音に気を遣わなくていいのに。

「家でも、スーツじゃなくて私服で過ごしてもらいたいです」

「それはいけません。お仕事なのですから、きちんとした格好をしなくては」

 そうだ、と空しくなった。一緒に暮らしているのではなく、あくまで仕事。だから真一には帰る家が他にあるし、結婚したら、この仕事もやめるだろう。早く恋人をと願ってはいるものの、実際に彼女が現れたら仲良くするのも無理だという意味だ。いつかは別れる日がやってくるのだ。綾音だって、結婚した夫が真一と会うなと怒ったら、離れるしかない。真一と浮気でもしているのかと疑われる可能性だってある。ただの執事だと答えても、わかってくれないかもしれない。離婚を突き付けられたら最悪だ。

 もちろん、まだ出会っていないので不安になっても時間の無駄だ。大事な人と愛し合う夢は叶えたい。

「綾音様? ぼうっとしていますよ。大丈夫ですか?」

 はっと我に返った。

 私服の真一と並んで歩き、二人で買い物をした。帰りに喫茶店でお茶を飲んだ。これほどかっこいいのに、喫茶店の中の若い女の子たちはおしゃべりに夢中になっていて、真一の方を一度も見なかった。真一も「モテないんです」と苦笑していた。

「イケメンなのに。みんな、目が節穴なのかな?」

「昔から、透明人間みたいなんですよ。節穴だなんて言ってはいけません」

「もったいない。すぐそばにいるのに、気づかないんですね」

 だが綾音は嬉しかった。ライバルがいない。つまり、争ったりせず真一を独り占めできる。優越感に浸る。

「綾音様は、学校で告白されたりしないのですか?」

「はい。私もモテないんです」

 ふと、想像してみた。好きだと言われた時、綾音はどう答えるだろう。驚いてテンパってしまいそうだ。返事をしないで逃げてしまうかもしれない。告白してきた相手とはギクシャクして、学校に行くのも辛くなりそうだ。かといって、独りぼっちでいるのは寂しいという気持ちもある。とても複雑だ。

 真一は、綾音がいてくれれば幸せだと話していた。その意味が、なんとなくわかった。

 喫茶店から出ると、すっかり空が夕方に変わっていた。また並んで歩き、屋敷に帰った。部屋に行き、真一はスーツに素早く着替えた。

 これは仕事なんだ。自分に言い聞かせる。徹也が呼んだからここへ来ただけで、普通に生活していたら赤の他人だった。秀二だって同じ。向こうから望んできたのではない。ということは、二人は運命の王子様ではないのか。たまたま出会った人間で、恋人同士になるわけではない。一気に胸の中が冷たくなっていく。先ほどの優越感も消えていた。

 綾音は、思いが表情に出るタイプなため、真一に向ける笑顔がぎこちなくなった。それに、すぐに気づかれてしまった。

「具合が悪いのですか?」

「え? 悪くないですよ」

「顔色が暗かったので。無理は絶対にいけません」

「無理なんてしていません」

 自分では笑っているつもりでも、真一には作り笑いと感じるのだろう。真一がいなくなると、ほっと安心した。



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