真夜中のティータイム

鈴木しぐれ

第1話

 星は見えない。かろうじて、細い月があった。二日後には新月になるであろう、引き伸ばした飴細工のような細い月。


「つっかれた……」


 パンプスのヒールをコンクリートに打ち付けながら、彼女はそう零した。電車が動いていない時間だが、人の往来はけっこうある。初めは真夜中にこんなに人がいるのかと驚いたが、今は慣れてしまった。彼女と同じような仕事帰りらしい人や、飲み会で次の店を探す人、特に目的もなく歩く人。お互いに興味はなく、ただ道を歩くだけ。


「ん?」


 ふと、目の端に赤い光が見えた気がした。そちらに目をやると、おでんの屋台のようなものがあった。赤く染められた暖簾が、内側からの明かりで光っているように見えたらしい。暖簾は屋台の正面を覆うように三つに分かれている。一文字ずつ『お・で・ん』と書いてあるはずのところに、『T・E・A』と白抜きされた文字があった。


「TEA……お茶? あっ」

 彼女は、SNSで見たある噂を思い出した。


 真夜中のティータイム。そう呼ばれる紅茶店がある。店舗があるわけではなく、キッチンカーでどこに現れるかも分からない。選ばれた人しか辿り着けない。この世のものとは思えないほど美味しい紅茶が飲める。目印は赤色、または招き猫。

 そういう、嘘か本当か分からない、どちらかと言えば嘘くさい噂があった。今、目の前にあるのは、おでんっぽい怪しい雰囲気の屋台。広い意味ではキッチンカーと言えなくもない。


 現に、道を歩く人は屋台の存在を無視している。彼女もいつもならきっとそうする。だが、今日はもう、とても、疲れていて、どうにでもなれという心持ちで暖簾を手でかき分けた。


「こ、こんばんは」

「いらっしゃいませ」


 暖簾の向こうには、彼女と同い年くらいの二十代後半の男性が一人。柔らかな物腰で、にっこりと微笑まれた。片側の前髪が長く、片目を覆い隠してしまっているけれど顔が整っていることは分かった。


 屋台の中におでんはなく、見えるのはティーカップやティーポット、茶葉が入っているのであろう円柱型の缶。客の座る側のテーブルには、赤い招き猫がちょこんと座っていた。


「あの、ここって、『真夜中のティータイム』ってお店ですか?」

「はい。そう呼ばれることもありますね。僕は、ここの店主の東雲しののめといいます」

「えっと、私は、笹原ささはら千鶴ちづると申します」


 彼女――千鶴は、体に染み付いた動きで名刺を取り出した。名乗られたので反射的にそうしたが、客が店主に名刺を渡すなんて、普通はしないだろう。疲れているとはいえ、自分で恥ずかしくなってきた。


「すみません、つい癖で……」

「ご丁寧にありがとうございます。せっかくですから、名刺はいただいても?」

 恥ずかしさを誤魔化すように、下を向きながら頷いた。さっと備え付けてある椅子に腰かけた。

 店主は受け取った名刺を見てから、今度は屋台の外へと視線を向けた。


「会社、この近くなんですね。今日はお仕事帰りですか」

「はい、そうです」

「こんなに遅い時間まで、大変ですね。電車とか、お帰りは大丈夫ですか」

「大丈夫です。家は二駅先で、歩けない距離じゃないので。終電後に帰ることもしょっちゅうで慣れましたから」

「そう、ですか」


 心配そうな顔を崩さないまま、店主は頷いた。

 正直、家が会社から二駅先は間違えたと思っている。近くていいと思ったが、最悪歩いて帰れるなんて言ったら、その最悪がずっと続く状況になった。悪循環だとは分かっているものの、どうしようもない。


「お腹は空いていますか?」

「え?」

「ここは紅茶の店ですけど、ちょっとしたお菓子も置いているんです。けっこう食べられるならスコーン、少しだけならクッキーやチョコレートを。疲れた体には、甘いものがいいですよ」


「……疲れて見えますか」

「あっ、すみません。失礼なことを」

「いえいえ、違うんです、すみません」


 気を遣ってくれた店主を、謝らせてしまった。疲れがそんなに滲み出ていたのかと思うと恥ずかしかっただけなのだが、さらに気を遣わせてしまったことが申し訳なくて、千鶴は縮こまってしまう。

 黙ったままだと、もっと気を遣わせてしまう。千鶴はそっと顔を上げて小さな声で返した。


「あの、クッキーを、お願いしてもいいですか」

「かしこまりました」


 千鶴の態度を気にした様子もなく、店主は穏やかに応えてくれた。そして、紅茶のメニューです、と布張りの上品なメニュー表を手渡された。おでん屋台の外見とはイメージが違って不思議な感覚になる。

 千鶴はメニューを開いて、数秒間固まった。


「これがメニュー、ですか……?」


 そこには、『遊びたい』『遠くに行きたい』『諦めたくない』『一人になりたい』『笑顔になりたい』『歌いたい』『走りたい』『自由になりたい』など、願望のようなものが羅列されている。紅茶の種類などはどこにも書いていない。


「これが、うちのメニューなんです。お客さんの今の気持ちを選んでもらって、それに合った紅茶を出しています。深く考えず、直感で選んでみてください」

「は、はい……」


 口調は優しいが、それ以上の質問は受け付けないというような、妙な迫力があった。千鶴はメニューに並ぶ文字を見つめて、気になった一つを口にした。

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