第57話 別れと旅立ち
天国から届いた手紙を胸に抱きしめ、僕とあかねは涙を流した。疑いもなく、その手紙は僕たちのかけがえのない宝物になるのだろう。
墓参りに持ってゆくため、家業の小間物屋で見つけた金色の満月の飾りを、純白のコスモスの花束に添えた。お月さまはまるで、すずさんそのもののようだった。彼女が最も愛したコスモスが、さらに彩り豊かに、華やかに輝いていた。
コスモスは四季を越えて咲き誇る、たおやかで珍しい花だ。強い風に煽られても折れない。春に咲き誇り、夏を挟んで別れても、また秋には会える。すずさんは、そんな強さと可愛らしさを持っていた。
空が次第に茜色に染まる中、野々村家の先祖代々に伝わる菩提寺へと足を運んだ。僕たちは水桶を手に、すずさんが眠る墓へと歩みを進めた。久しぶりに会えるかと思うと、期待とともに胸が締め付けられるような痛みを感じた。
ご無沙汰していたことに「ごめんなさい」と頭を下げ、すずさんへの想いを込めて花束を静かに置いた。その瞬間は、永遠に僕の記憶に刻まれた。
そよ風が耳元で囁く。その声はすずさんのもので、優しくて力強い言葉が僕らを励ましてくれる。彼女の温もりが心に響く。僕の心は震える。きっと、すずさんはまだここにいる。季節や世界を越えて、彼女の魂は輝き続けている。
すずさんはふたつの美しさを兼ね備えていた。それは相反するものだったが、彼女の中では見事に調和していた。僕は彼女の魅力に強く惹かれていたが、その不思議さにはただ驚くばかりだった。
彼女は母親であり、女性でもあった。娘には優しく、男性には情熱的に愛情を注いだ。僕は写真家として、母性をコスモスに、女性の美を月下美人に映し出した。
すずさんにたとえた月下美人は夜に咲く花だった。上品で甘い香りを放ち、朝にはしぼんでしまう。すずさんはそんな清らかさと儚さを持っていた。その花言葉は、彼女の愛に相応しい「強い意志と秘めた情熱」や「危険な快楽」だった。
彼女のふたつの美しさは、娘のあかねにも受け継がれていた。それは母と娘の強い絆の証だった。僕はその絆を知り、胸がいっぱいになった。
僕らはすずさんの墓に向かって手を合わせた。「これからもふたりを見守ってほしい」と心から願った。あかねは僕の腕にしがみついて、涙をハンカチで拭った。
墓参りが終わった後、僕とあかねは手を取り合って、ほっとしたように微笑み合った。すずさんに「ありがとう、さようなら」と別れを告げて、墓地を後にした。
✽
その日の夜、僕たちは一緒に夕食を楽しんだ。あかねは、すずさんから教わった湯葉料理や京うどんのレシピを紹介してくれた。
「これ、うまいやろう。他の大勢の人にも食べてほしいぐらいに。おかんの言うとおり、お店でもやろかしら」
僕はすずさんから渡された手紙を見て、カフェのことを思い出した。あかねが若女将となり、僕が調理を担当することになった。そんな世界も素敵だ。京都風のカフェなら、観光客にも店内や小間物を見せられるだろう。僕が撮影した古都の写真も飾れるだろう。考えていると、夢が広がってくる。
あかねはすずさんから教わった料理がたくさんあると言っていた。僕はすずさんの料理を忘れないようにメモを取りながら、あかねと一緒に作ってみようと約束した。
僕たちはすずさんの思い出話に盛り上がりながら、料理や生け花、踊りの話で楽しい時間を過ごした。
食事を終えると、あかねに連れられて屋根裏部屋に上がった。僕にとっては初めて見る場所だったが、彼女にとっては幼い頃に遊んだ秘密基地だったらしい。けれど、「もう忘れてもうた」と言っていた。
屋根裏に入りこむと、ホコリひとつない別世界が広がっていた。もちろん、「まっくろくろすけ」なんていない。すずさんが大切にしていたものが、きちんと整理されていた。
目についたアルバムを開いてみると、すずさんの若い頃の写真があった。舞妓姿であかねを抱いて微笑むすずさん。あかねが線香花火で遊ぶ可愛らしい笑顔。今の彼女にも似ている。見れば見るほど、目頭が熱くなる。
歴史を感じさせる桐箪笥を開けると、あかねの七五三の着物や夏に着た浴衣が、折り目をつけてたたまれていた。ひとつひとつが和紙で包まれていて、すずさんの几帳面さが伝わってきた。そのとき、あかねがビックリしたような声を上げた。
「悠斗はん、見て見て。これ、うちの花嫁衣裳やろか。真っ白な帽子もあるんやで」
あかねは目を輝かせて、引き出しの中を覗き込んでいた。彼女の視線の先には、白無垢の着物と角隠しや綿帽子が丁寧にしまわれていた。目を凝らすと、メモ書きが一枚添えてある。
そこには、「あかねちゃん……。おかんが若い頃に着られへんかった着物やけど、仕立て直しといたから、よかったら着てくれへんか。すずより。」と書かれていた。
さらに、「角隠しにするのか、綿帽子にするのかは、自分で決めたらええ。気の強うあかねには角隠しの方似合う思うけど……」という添え書きが目に入った。すずさんの優しさと京都人らしい奥ゆかしさがここにも表れていた。
女心は「秋の空」と言われる。母親の優しさに触れて涙を流したばかりなのに、あかねは僕に抱きついて、キスを求めてきた。
僕は彼女にそっと寄り添い、くちびるを重ねて「愛してる」と囁いた。あかねも優しく応えてくれた。僕たちはすずさんの写真を一枚ずつ丁寧に見ながら、自然と笑みがこぼれた。それは彼女の人生そのものが映し出されているかのようだった。
僕たちは、すずさんがふたりを見守っていることを感じながら、手を取り合って新たな未来へと一歩を踏み出した。
物事には必ずや始めと終わりがある。生あるものは必ず死に、栄えるものはいつか滅びる。それは、僕とあかねが一年を通じて育んできた『京都花街の恋物語』の終焉を告げるものだったのかもしれない。
そして、ふたりで涙を拭いながら母親に告げる別れの言葉。そのさよならの先に広がる新たな景色を見るための旅立ちの始まりでもあった。すずさんの愛と記憶がこれからの僕たちを支えてくれると信じて。彼女の温もりが、いつまでも僕たちの心に宿り続けることを胸に深く刻みながら……。
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