第56話 月からの手紙


「この花、おかんの忘れ形見や」


 あかねは真っ白な花に手を添え、震える声で言った。母親が亡くなってから、彼女は涙の海に沈んでいた。しかし、四十九日の法要が終わり、心地よい春風が吹き抜ける季節になると、彼女の心には再び生命の光が灯り始めた。


 すずさんは生け花の名人であり、花をこよなく愛していた。気がつけば、縁側のある中庭には、彼女が愛情を込めて育てた花々が咲き誇っている。


 あかねの話によると、毎年春になると、シャクナゲやヤマブキ、ミツマタなど、色とりどりの花が満開になったそうだ。それは、すずさんの生きざまや気品を象徴していたのだろう。


 今、その花々の中に、真っ白で可憐なコスモスが春風に揺れて咲き始めている。その花を見て、すずさんがまだ僕たちのそばにいると信じて疑わなかった。


 コスモスは一般的には秋に咲く花だが、実は春にも咲くことがある。だからこそ、すずさんが季節を越えて生き続けていると感じたのだ。僕の思いがあかねにも伝わったのか、彼女はコスモスの植わる土にそっと手を触れた。そして、指についた土をじっと見つめながら、母と過ごした忘れられないひとときを僕に話してくれた。


 真っ白なコスモスが、小春日和の柔らかな木漏れ日に包まれ、そよ風が通り抜けるたびに光の中で幸せな景色が広がった。ふたりで感涙に咽びながら、縁側で古い写真を眺め、幼い日の思い出を何度も何度も語り合うその刹那、時が止まったかのように感じられたという。



 ✽


 今年の正月は特別なものだった。すずさんが亡くなったにもかかわらず、何枚もの年賀状が届いた。それは、彼女と深い縁のあった多くの人々への訃報が遅れたためである。


 世間が華やかに新年を祝う中、あかねもこんなことが起きるとは予想だにしなかっただろう。これも、一郎さんへの禁断の恋を心の中で続けるためにひっそりと暮らしていたすずさんの人徳のなせる業だったのかもしれない。


 けれど、特別だったのはそれだけではなかった。僕が久しぶりに店先で日向ぼっこを楽しんでいると、顔見知りの郵便配達員に出くわした。「野々村さん、手紙ですよ」と、一通の封筒を手渡してくれた。


 手紙の宛先を見ると、確かに野々村あかねと書かれていた。僕は裏面も確認した。そこには、差出人として野々村すずの名前が記されていた。すずさんが亡くなってから、もう二か月が経っていたというのに。


 思いがけず届いたこの便りは、何かの間違いなのだろうか……? 封筒に押された消印は一昨日のものだったが、局名が滲んでいてはっきりとは読めなかった。


 まさか、すずさんの心霊が宿る天国から届いたものではないだろうか……。突然のことに、僕は途方に暮れて呆然と立ち止まった。手紙を握り締め、なんとか落ち着こうと努めた。しばらくして、ようやく「あかね」と名前を呼ぶことができた。


「あかね、信じられないことがあるんだ。天国のお母さんから手紙が届いたんだよ」


「えっ、ウソやん。だって、おかんはお月さまの世界に逝ったんやさかい」


 あかねは驚いて目を見開いた。


 僕たちは店内に誰もいないことを確認した後、封筒の中身を見た。そこにはすずさんの直筆の手紙が入っていた。あかねにその文字を見せると、彼女はそれが間違いなく母親の筆跡だと明言した。


 けれど、その瞬間、あかねの携帯電話が鳴り響き、再び僕たちの大切な時間を中断させた。携帯の着信音は重要な時ほど耳障りに感じられ、ふたりの恋路を邪魔するのだった。


「はい、あかねやけど。どなたやん?」


 相手は、すずさんがお世話になった病院の看護師だった。


「突然にお電話して申し訳ありません。すずさんの手紙は届きましたか?」


「今さっき受け取ったばかり。そやけど、あの手紙は……」


 看護師は、すずさんが亡くなる間際に書いた手紙のことを教えてくれた。あかねの母親は、病院の庭に咲くコスモスの花に夢をふくらませながら、愛する娘に宛てた手紙を書いたのだという。


 コスモスの花は、彼女の一番好きな花だった。すずさんは、病院の入り口にコスモスの花が咲くのを待って、手紙をポストに入れるように頼んでいたそうだ。あかねが春の季節を迎えれば、少しでも元気になってくれることを祈っていたのだろう。


 看護師は、手紙を隠していたことを申し訳なさそうな口調で謝ってくれたという。その話をあかねから聞いた僕は、胸のつかえがとれたように感じた。彼女の手をしっかりと握りながら、すずさんが書いてくれた「最期のメッセージ」を読み始めた。



 あかねちゃんへ


 こんな手紙を送ることになって、ごめんなさい。どうか許してくださいね。少しは落ち着いたかな? お母さんは花街で生きてきたけれど、本当に幸せだったよ。だから、もう泣かないでね。


 あんたみたいに

 可愛くて優しい娘を

 神さまから授かって育てられて

 それともうひとつ

 生涯にわたって愛し続ける男との

 素敵なご縁があったんだから


 あんたには色々な

 辛いことを言ってしまったこと

 本当にごめんなさい

 お茶屋の若旦那のこと

 悠斗さんとのこと

 その時はそれが

 あんたの幸せだと思っていたんだよ

 本当にごめんね


 あんたの好きな悠斗さんは

 優しくて誠実な男だよ

 だから、もう離さないであげてね


 そろそろ力が尽きそうだから

 お月さまの世界に行くけど


 どうかふたりで幸せになってください


 娘を愛するすずより


 今にも命が途絶えようとしているというのに、手紙は京都人らしい達筆な文字で記されていた。しかも筆字だった。手紙を読み終えた瞬間、涙がこみ上げてきた。すずさんはあかねの母親であり、僕にとってもこの上なく大切な人だった。彼女の死を知ったときのショックは大きく、しばらくの間、何も考えることができなかった。


 あかねは手紙を強く握りしめ、涙を流し始めた。いつしか文字が涙で滲んでいた。予期せぬ出来事に胸が張り裂けるような思いだったのだろう。


 彼女はすずさんのひとり娘であり、僕の婚約者でもある。長らく母親と仲良く暮らしていたが、病気で倒れてからは看病する日々が続いた。


 母親が亡くなった後も、あかねは志を継いで小間物屋を切り盛りしている。すずさんに似て辛抱強くて優しい人だった。僕はもうこれ以上あかねを放っておけず、彼女を抱きしめ、愛情を込めて声をかけた。


「大丈夫だよ。すずさんはお月さまの世界から、きっと僕たちを見守ってくれている。僕も、ずっとあかねのそばにいるからね」


「あんた……おおきに、悠斗……」


「ふたりで幸せになろう。すずさんが望んでいた通りに」


「うん……そうやな」


 ふたりの甘いやり取りがあったものの、僕の心にはまだひとつの疑問が渦巻いていた。人の生死の狭間というものは実に不思議だ。すずさんは人生の最終幕に、自らの死期を察知していたのだろうか……。もしかすると、亡くなる前のなんらかの兆候を嗅ぎ取っていたのかもしれない。


 彼女を見舞い、鞍馬の火祭を見たいという願いを叶えてあげたにもかかわらず、その思いを本当に理解しきれなかったことを後悔していた。それが僕の心に唯一、影を落とし、後ろ髪を引かれるような痛みとなっていた。


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