第55話 悲しみの果て


 病院に到着し、ICU(集中治療室)へと案内された。すずさんは眠っている間に冷や汗と吐き気、咳と息切れに襲われ、ナースコールを押したという。診断は突発性心筋梗塞で、心電図は脈の乱れを示し、血圧も危険な低さだった。


 けれど、すずさんは入院してから何度も死の瀬戸際まで追い詰められながらも、いつも復活できた強い女性だ。僕は、このまま亡くなるとは思えなかった。必ず元気な顔をまた再び見せてくれると信じていた。


 僕たちは、窓から差し込むぼんやりとした月明かりのもと、薄暗い待合室で待ち続けていた。目の前で青白く点滅する手術室のランプが、異様に感じられた。無機質な治療室からすずさんが出てくるのを、ただひたすら待つしかなかった。まるで天国から暗黒の世界へと突き落とされたかのような、苦痛に満ちた時間が流れていた。


 あかねは一心不乱に胸に手を当て、「おかん、おかん……」と幾度も涙ながらに叫び続けていた。その声は人目も気にせず、母親に一刻も早く会いたいと切望する幼い子のように哀しく、僕の心をも深く痛めつけた。知らず知らずのうちに、僕も涙を流していた。二時間ほど辛抱強く待ち続けた後、手術室のライトが消え、医師たちが姿を現した。


「先生、おかんは?」


 あかねはすぐに医師のもとに駆けつけた。しかし、医師の顔は重苦しく、その声も言いにくそうな雰囲気を漂わせていた。


「できる限りのことはしましたが、今朝が山場になるかもしれません。他のご家族にも早急に連絡することをお勧めします」


 医師が伝える山場とは、いつ息を引き取るか分からない状態のことだ。僕はその宣告にすずさんの死が近づいていることを悟った。きっと、あかねも同じ思いだったのだろう。


「うちを置いていかんといて。もっとあたしのおかんでいてな」


 病院の廊下には、「おかん、おかん……死なんといて!」という慟哭の声が再び響き渡った。それは娘から母への最期の言葉となった。すずさんはそのまま二度と目を覚ますことはなかった。


 ベッドに横たわる彼女の寝顔は穏やかで透明感があり、月下美人の花が開いたかのような艶やかさを放っていた。僕は命の儚さを感じながら、すずさんの人生がどのようなものだったのか、幸せだったのかと思いを馳せていた。


 病室では、母親の突然の死に接したあかねが滂沱の涙を止められず、いつまでもすすり泣く声が途絶えることはなかった。


 彼女は別れを惜しむかのように、母親の手をゆっくりと握りしめ、言葉を紡ぎ始めた。その言葉には、今亡くなったばかりの母親への慈愛に満ちた感謝、尊敬、そして未来への希望が込められていた。それは、あかねが涙を拭いながら口にした、母と娘の強い絆を感じさせる瞬間だった。


「ここまで育ててくれておおきに。うち、おかんみたいに強うなるわ。笑顔を絶やさず生きて、おかんみたいに愛されるさかい。おかん、大好きやで」と、永遠の眠りにつく母親に向かって言葉をもらした。


 あかねの言葉を聞いて、彼女が母親と一緒に過ごした日々について話してくれたことを思い出した。その中には、彼女と出会ってからの僕たちの京都花街での恋物語も含まれていた。


 京都の花街、先斗町にある趣のある小間物屋で、母親のすずさんは働きながらあかねをひとりで育て上げた。彼女は強さと優しさを併せ持つ女性だった。


 幼い頃のあかねは、母親が夜遅くまで店を守り、朝早くから家事に励む姿を見て、その強さに憧れを抱いた。すずさんはいつも「人生は自分で切り開いたらええ。それができひんなら、舞妓として若旦那との縁を取り持ったるさかい」と励ました。


 祇園祭の活気に満ちた夏の夜、あかねはすずさんと一緒に家の縁側に座っていた。


「おかん、なんでこないに頑張れるん?」


 母親は微笑みながら答えた。「そらね、あかねがおるさかいやで。おかんはあんたがおるさかい、どない辛おしても頑張れんねん」


 その言葉に、あかねは胸が熱くなり、自分も母のように生きたいと意を強くした。


 歳月が経ち、あかねは成長し、すずさんと共に小間物屋を切り盛りするようになった。ふたりは支え合いながら、花街の厳しい日々を乗り越えていった。すずさんは、娘が一人前の女性として成長する姿を誇りに思い、あかねもまた、母の背中を追い続けた。


 すずさんは、娘の高校の入学式を見届けると、思い詰めた眼差しで言った。「あかね、落ち着いて聞いてな。あんたはもう立派な女性やで。昔なら花嫁になる年頃や。うちがもし病気で倒れても、ひとりで生きていけるさかい」


 すずさんは以前から心臓に持病を患い、時おり辛そうにしていた。その言葉に、あかねは涙を流しながらも、母の生きてきた強い姿勢を受け継ぐ決意を固めた。思い出せば出すほどに、昔から彼女たちは母娘ならではの太い絆で結ばれていたのだ。


 僕は今、この瞬間も、あかねのそばにいることしかできない。けれど、それが彼女を支えることだと信じている。黙って彼女の肩に腕を回し、慰める言葉が見つからないまま、涙を流すあかねの頭を優しく撫で続けた。


 僕にも、すずさんに伝えたかったことが山ほどあった。彼女は僕にとっても大切な存在だった。あかねをこんな素敵な女性に育ててくれてありがとう。そう言いたかった。


 これまで色々なことがあったが、僕を家族のように迎え入れてくれた。そして僕らの幸せを心から祈ってくれたことに、もっと感謝したかった。


 一方で、「ごめんなさい」と言うべきこともたくさんあった。すずさんが病気になってから、もっと会いに行けばよかった。彼女が苦しんでいるのに、何もしてあげられなかった。もっと早くすずさんに約束したかった。あかねを幸せにするって。彼女の夢を叶えるって。


 すずさんを忘れずに、思い出を大切にすることを誓いたかった。彼女が永遠の眠りに就く前に、もう一度話せなかったことが心残りだった。


 しかし、そうした沈黙の叫び声はもう届かない。すずさんは月の世界で永遠の眠りについている。医師から死の宣告を受け、僕たちは彼女と別れを告げ、末期の水の儀式を執り行った。


 僕はただ虚ろな眼差しで、無力感、後悔、そして悲しみに蝕まれ、あかねと一緒に涙を流すしかなかった。けれど、彼女の話でひとつだけ救われたことがあった。


 前回あかねと病院を訪れた際、母親は僕に気づかれないように、「あんたは良かったなあ。悠斗はんがそばにおってくれて。よい男を見つけたわ」と言い残していたという。それがすずさんの人生の結末として最期の言葉になっていた。その言葉は断末魔の叫びにならず、彼女は穏やかな笑顔で天国に召されていた。


 享年四十二歳。それは、京都の花街で精いっぱい生き抜いた野々村すずさんの、あまりにも早すぎる突然の死だった。


 病室の窓から空を見上げると、日の出と共に月は姿を消していた。月のうつろいに影響されたのか、潮の満ち引きと同様に、彼女は黄泉の国へと旅立っていったのだ。


 僕は、その消えゆく月にすずさんの魂が導かれていくのを感じながら、彼女の記憶が永遠に心に刻まれることを誓った。


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