第49話 母と娘の祈り
あかねの母親に、僕たちはすぐにでも会いたかった。母親が療養する病院は京都の大文字山の麓にあり、周囲は穏やかな雰囲気に包まれていた。空気は清々しく、まるで時間がゆっくりと流れているかのようだった。
病院の庭からは、大文字山(如意ヶ嶽)の景色を一望できた。そこでは、儚くも切ない風見草のメロディーが奏でられ、お盆に精霊を彼岸へ送る「五山送り火」の舞台が広がっていた。僕はカメラを手に取り、その荘厳な風景を何度も写真に収めた。
今日は特別なひとときだった。あかねと一緒に見上げた並木道では、紅葉がひらひらと舞い落ちる中、淡いピンク色のコスモスが美しく咲き誇っていた。あかねは、そのまるで絵画のような景色を眺めて、寂しそうに涙を浮かべていた。
「これ、秋のさくらや。ほんまに綺麗な花やなあ。来春も咲いてくれるやろか」
「あかね、急にどうしたの?」
「ううん、何でもあらへん。ただ、涙止まらへんだけや」
あかねは無邪気な娘だが、今日は違っていた。母親の病気を心配し、感覚が研ぎ澄まされているようだった。
自然の美しさを前にして、僕たちは人の世の儚さを感じていた。その景色は僕の心に深く刻まれた。あかねは、また独り言のように呟いた。
「うちはうちなりに生きていくさかい。そやけど、もう少しだけでも、おかんの娘でいさせとぉくれやす。待っとってな」
彼女の瞳には苦しそうな涙が溢れていた。母親と過ごした日々を思い出しているのかもしれない。その涙は、過ぎ去った日々への切ない想いと未来への願いが交錯する雫のようだった。僕は彼女の手を握り、優しく声をかけた。
「あかね、心配しないで大丈夫だよ。お母さんはいつも見守ってくれている。あなたは彼女の誇りだよ」
僕はそっと彼女を抱き寄せた。あかねは僕の胸に顔をうずめ、小さく頷いた。僕たちはそのまま抱き合っていた。この刹那の間を大切にし、永遠にしたかった。この瞬間を愛して忘れないと誓った。
✽
あかねの母親に会うため、病院を訪れた。ナースセンターに到着すると、看護師たちが温かい笑顔で迎えてくれた。
「ご家族の方ですか? すずさんが首を長くして待っていますよ」
「お部屋は606号室です。とても美しい女性ですね。病院内ではプリマドンナと呼ばれています」
「いつも笑顔で、全く手がかからないんですよ。本当に助かっています。私たちには飴ちゃんのお母さんと呼ばれていますけど」
病室に入ると、すずさんが懐かしいメロディーを口ずさんでいた。そのメロディーは春風のように柔らかく、心に深く響いた。その曲は、母の手元から離れていく娘を象徴する薄紅色の可憐な花を歌ったものだった。すずさんは目を細め、遠い日の思い出に浸るように、優しく話しかけてきた。
「あら、来てくれておおきに。今、昔のこと思い出しとってん。この曲が流行っとった頃、うちの初恋の人が歌うてくれたんやで。その声に心を奪われたわ」
彼女の声には、懐かしさと切なさ、そして深い愛しさが混じっていた。僕は、すずさんの心の中にある、こよなく愛する男性の姿を垣間見たような気がした。時おり咳き込むのは良くない兆候だったが、それでも彼女は気丈に振る舞っていた。
「おかん、遅くなってかんにんえ。けど、発作は大丈夫なの?」
「もうしょっちゅうのことやさかい。あんたの方こそ……」
「うちは元気や。昨夜は帰らんでほんまに許しとぉくれやす」
「ああ……気にせんでええ。あんたが大人になった証やろ」
「おかんたら……」
母と娘の間で繰り広げられる会話が静かに続いていた。しかし、母親は僕をも温かく迎え入れてくれた。その顔からは怒りの色ひとつ見えなかった。その陽気さはいったいどこから湧き出てくるのだろう……。それは、まさに母と娘ならではのやり取りで、僕が立ち入ってはいけない世界だった。
ふたりの会話を邪魔しないように、僕は病室の外で看護師の説明にも耳を傾けていた。看護師によれば、今は起きられるようになったが、母親の容態はあまり良くないらしい。またいつ発作がくるのか分からないそうだ。
まだ四十歳を過ぎたばかりのすずさんは、透き通るような肌と艶やかな黒髪が際立つ京都人らしい気品ある女性だった。きっとあかねと同様に、若い頃の舞妓姿もあでやかで綺麗だったのだろう。そんな僕の思いを察したのか、彼女は照れ隠しをするように口を開いた。
「あんたたちに話したいことがぎょうさんあるんよ。まだまだ、死ねんさかい、それまで閻魔さまも待っといてくれるやろ」
突然、母親がベッドから起き上がろうとすると、あかねは手で制止し、すぐさま返事をした。
「おかん、何言うとんねん。まだ無理やろ。そやけど、早う元気になってえな。うちもおんなじ思いさかい。うち、いつまでもおかんの娘でいたいんや」
あかねの顔を見ると、彼女は首を横に振りながら、うっすらと涙を浮かべていた。すずさんは僕の方を向き、優しい声で話し始めた。
「悠斗はん、この娘のことよろしゅうな。あんたには厳しいこと言うてかんにんえ」
「お母さん、とんでもない。元気を出してください」
僕は思わず「お母さん」と呼びかけてしまった。その言葉に母親はすぐに反応し、僕たちふたりに向けて口を開いた。
「この娘にも苦労をかけて、許してな。まだおとんにも会わしとらんし。おかんなあ……最後のお願いあるんや」
「おかん、最後なんて言わんといてや。うち娘やろう。何でも言うて」
「なら連れていって欲しいとこがあるんやけど。叶えてくれるんか? あんたやなかったら出来ひんことなんや」
彼女たちの熱の入ったやり取りを黙って聞いていると、胸が締め付けられた。すずさんは古い手帳から一枚の紙きれを渡してきた。その紙には、男の名前と連絡先が書かれていた。
すずさんが行きたいと言ったのは、京都の三大奇祭のひとつ、古都の夜空を染める「鞍馬の火祭」だった。彼女によれば、今年は流行り病の影響で、例年より一か月遅れで開催されるという。
「悠斗はん、あかねとここへ連絡してな、すずが会いたがってると伝えてくれんか」
「わかりました。必ず伝えます」
僕はその紙きれを握りしめ、真剣な気持ちで胸に収めた。母親の目には溢れんばかりの涙が溜まり、手元の紙きれも涙で滲んでいた。そこには、熱い想いと儚げな女性の苦悩が見えてきた。気丈な母親も、これまでずっと苦しんできたのだろうか……。
そのときから僕の新たな役割が始まった。それは、すずさんの最後の願いを叶えるという大切な任務だった。そしてそれが、僕とあかね、そしてすずさんの運命を大きく変えることになるとも知らずに……。僕は、彼女たちが愛する男に、どんなことをしても会わせてやりたいと思った。
「おとんにもっと早う会わしてやりたかったんや。できんと、かんにんな」
すずさんの言葉は、深遠な意味を秘めていた。母親の秘めた過去を明らかにし、あかねの未来を変える可能性を持っていた。
「あかねに会わしたい思うて、三年前に頼んだんや。そやけど、叶わへんかった。いろんなことあったんや。すべては最初のボタンの掛け違いがいけなかったのや。楽しいことも辛いこともなあ……」
僕はさらにすずさんが語る言葉に耳を傾けた。彼女がふと漏らした「ボタンの掛け違い」という言葉に、胸に熱いものがこみ上げてきた。それは、すずさんの愛する辻井一郎さんがあかねの生まれたときに口にした言葉だった。
あかねが本妻の子ではなく、すずさんという愛人の子だと知ったとき、辻井さんはそう言ったのだ。その悲しい運命が、すずさんと彼の愛を引き裂き、あかねは自分の父親を知らないまま育った。その言葉が、彼女たちの運命を狂わせたのだった。
本来なら祝福されるべき愛が許されず、認知されない娘が生まれ、三人の運命が狂い始めたのだ。そして僕は、その娘を愛してしまい、運命の過ちを少しでも償いたいと願っている。
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