第50話 忍ぶ女の物語


 嵐山の渡月橋で、あかねの命を間一髪で救ったのは僕だ。そのことに感謝して、すずさんは現金を渡そうとした。でも、僕は即座にその申し出を断った。お金よりも、あかねの笑顔が見たかった。それだけで、僕は十分に幸せだった。


 ところが、見方を変えれば、この運命のいたずらのおかげで僕は彼女と出会えたのかもしれない。僕は、その奇跡に感謝した。母親は最初、僕とあかねの仲を快く思わなかった。ふたりの恋路を邪魔しようとさえした。


 だが、今ならわかる。それは、すずさんが娘の幸せを何よりも大切にしていたからだ。彼女は心からあかねを愛していたのだ。そう思うと、僕の目にも涙があふれた。


 そして、すずさんは僕に、あかねのことを託し、最後の願いとして「鞍馬の火祭」に連れて行ってほしいと頼んできた。


 すずさんの願いを叶えるため、僕はあかねと共に男に会いに行くことを決意した。彼女たちの運命を変えるために、僕は全力を尽くすつもりだった。


 僕は、冷酷な運命によって引き裂かれた三人の再会を心から望んでいた。すずさんの瞳には、たとえほんの一時でも彼との再会を切望する悲しみが滲んでいた。彼女の生命の砂時計が、もう間もなく止まってしまうのだろうか……。


 そう考えると、胸が痛みで締め付けられるような感覚に襲われる。突然、暗闇がすべてを包み込み、身動きが取れなくなった。


 辻井一郎という男性と母親は、世間に認められない禁断の恋に落ちた。恋愛経験の乏しい僕には、ふたりを責めることなどできない。彼らの心の奥底にある感情は、僕には到底理解できないのだ。その恋が世間で不倫と見なされようとも、僕にとって京都の花街で育ったすずさんは、美しく、強く、そして誇り高い女性なのだ。


「僕はすずさんの友人です。彼女は末期のガンと闘っていますが、明日の『鞍馬の火祭』にあかねさんと一緒に行くことを心から楽しみにしています。ふたりにとってこの願いはとても大切なものなので、ぜひ叶えてあげたいのです」


 辻井さんに会ったこともないのに、電話で僕の気持ちを精いっぱい伝えた。騙すつもりは毛頭なかった。そばで、あかねが涙ながらに寄り添っていた。男性は「少しだけ考えさせてくれ。また連絡するから」と言って電話を切った。



 連絡を終え、僕とあかねが病室を再び訪れると、すずさんは申し訳なさそうに微笑んで迎えてくれた。


 明日をも知れないやせ細った姿を見た瞬間、「美人薄命」という言葉が胸に突き刺さった。月明かりに照らされて、夕方から咲き始め朝にはしぼんでしまうジャスミンの花のように、甘く上品な香りを放ちながらも、その儚げな美しさが心に残った。


「あかねには早う話さなあかんと思うとったんやけど……」


 彼女はそう言って、僕にも心の中を打ち明けてくれた。ベッドに横たわったまま、これまで言えなかったこと、親子だけが分かる話を隠さずに伝えてくれた。母親がただひたすらにひとりの報われない男を愛していたことを知り、僕はやるせない気持ちになり、涙をこらえた。


「おかん、なんでおとんと会わしてくれへんかったんや? 生きとるんやろ。なら会わしてくれてもええやろう」


 あかねは父親に会いたいと泣き叫んだ。彼女の気持ちはすぐに理解できた。すずさんは男性と別れた後、不倫相手の妻と交わした「二度と旦那さんに会わない」という約束を守っていた。あかねが父親に会えなかったのは、その約束が原因だった。


 ある日、あかねは母親が見知らぬ男性と密会していると誤解した。あのとき、母親が父親に会わせようとしていたと気づき、驚いて「おかん、かんにんな」と涙ながらに抱きついた。母親の言葉を聞き、真実を知った。その日は三年前の祇園祭の宵山の日で、すずさんはその男性に電話をかけ、震える声で最後の願いを伝えていた。


「ご無沙汰しとります。すずどす。ひとつだけお願いがあるんや。娘がもうすぐ高校生になる前に、あんたに会いたいんどす。奥さまに内緒で、夜八時に花火の時とおんなじ服を着て行くさかい」


 それは、大人の女性としてのすずさん、そしてあかねの母親としての深い情感が交錯する瞬間だった。彼女は長年抱えてきた想いを一気に言葉に紡ぎ出したのだろう。あの夜、こよなく愛する男との契りを思い出していたのかもしれない。それは、すずさんが母親というより、ひとりの女性としての正直な言葉だったのかもしれない。


 すずさんの愛情と苦悩、あかねの父親への憧れと不満、そしてふたりの絆と別れが交錯する瞬間だった。もうどうして良いのか分からないほど、僕は心を揺さぶられていた。


 男は黙って聞いていたそうだ。最後に低く太い声で短い言葉を返してくれた。「わかった。すず、ありがとうな」


「そやけど、あかねの父親は立派な男や。うちは後悔やらしとらん」


 すずさんが男性とのやりとりを伝え終えた後、僕たちの前でそう言い切った。僕には理解できなかった。女心は不思議なものだ。京都の花街で舞妓として働き、一途な恋に落ちながらも、彼女を裏切り子どもを捨てたその男性に対して、どうしてそんな風に言えたのか……。


 しかし、あかねの父親は京都で創業三百年を誇る老舗の若旦那だった。すずさんが自慢げに教えてくれたことは紛れもない事実だった。彼女はあかねと僕の顔を見つめながら、当時のやりとりすべてを話してくれた。


 彼女には、いくつかの辛く悲しい出来事があったという。男性の妻の名前で封筒が届き、中を開けてみると多額の札束が入っていた。ちょうど見計らったように、奥さまから連絡があり、すずさんは悲しみの涙をこらえていたのだ。


 中には、札束と共に「これが最後の養育費どす。約束を守ってくれておおきに」と記された念書が入っていた。奥さまも京都の一筋縄ではいかないしたたかな女性だ。その短く冷たい言葉に、すずさんは男との十年以上の思い出が蘇ってきた。


 忍ぶ女としてのうらみ、つらみ、やりきれなさ……。きっと彼女は複雑な想いに苛まれただろう。女手ひとつであかねを育ててきたすずさんには、数多くの苦労があったに違いない。


 たとえそれがこよなく愛した男性からの手切れ金だったとしても、すずさんは悔しさを抑えながら、感謝の言葉を口にした。「奥さま、長い間、ほんまにおおきに!」と電話で伝えたそうだ。その奥ゆかしい心意気に、僕は驚かざるを得なかった。


 今この場で真実を初めて聞き、あかねは涙を浮かべながら「うちがいけへんかったんや」と謝った。彼女の顔を見ると、胸が痛んだ。母親をどれだけ愛しているのか。ふたりの熱い想いを感じ取り、僕はあかねに何も言えなかった。ただ、そっと手を握り、優しく微笑んでみせた。


「ちゃうのや、誰が悪うわけでもあらしまへん。これが、花街で生きる女の定めやさかい。あかねなら分かってくれるやろ。そやけど、そろそろ卒業したらええ」


 すずさんは怒ることなく、「卒業」という言葉を残し、あかねの手をしっかりと握った。あかねがその言葉の意味を理解したかどうかは不明だが、すずさんは娘に花街の世界を離れるよう勧めていた。おそらく、彼女と同じ運命をたどることを望まなかったのだろう。


 すずさんに会うたびに感じるのは、彼女が四十歳を超えてもなお、大人の女性としての艶やかさと美しさを保っていることだ。これまで出会った女性の中で、彼女ほど優雅さと気品を持つ美しさは他にない。その美しさは外見だけでなく、しなやかでありながらも強さを秘めた女性という印象が強い。彼女の美しさは、人生経験の浅い僕にとっても驚くばかりだった。


 彼女はもう目を開けることはなかった。娘が何度も「おかん、おかん」と泣きながら揺さぶっても、深い眠りから覚めることはなかった。かすかに聞こえる息遣いは、とても弱々しかった。それとも、長い間背負っていた心の重荷がようやく下りて、安らかな眠りについたのだろうか……。


 すずさんが最後の希望を抱いたまま静かに眠りに落ちるのを見守りながら、母娘が歩んできた人生が鮮明に思い浮かんだ。花街での生活を乗り越えてきた彼女たちが経験した幸せと苦悩は、どれほどのものだっただろう。僕の胸は、哀しみとともに深い尊敬の念でいっぱいになった。


 母と娘というふたつの顔は、時に衝突しつつも、誰にも言えない複雑な道を歩んできた。あかねは高校生でありながら、命がけで舞妓の見習いを続けてきた。その支え合う姿には、母娘ならではの深い愛の絆が感じられた。


 僕は、京都の花街でふたりと出会えたことに心から感謝し、涙が止まらなかった。


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