第51話 愛と祈りの夜
「ご家族さま、担当の医師がお待ちです」
静寂に包まれた病室で、僕たちはすずさんの眠りを見守っていた。看護師は、彼女の安眠を妨げないようにと優しく声をかけた。そのとき、僕の携帯電話が突然鳴り響き、静けさを破った。電話の相手は、先ほど話していた男性だった。
すずさんとの約束を思い出し、医師のもとへはあかねにひとりで行ってもらうことに決めた。僕の言葉によって不安が浮かんだあかねの顔は、僕自身の心の迷いを映し出していた。しかし、他に選択肢はなかった。
「昼間は無理だが、夜なら大丈夫です」
彼からその言葉をすずさんとあかねさんに伝えてほしいと言われた。電話が切れると、僕は安堵の息を吐き出し、眠りの中にいるすずさんにそっと囁いた。
「お母さん、あなたの願いが叶いそうです」
その言葉をかけると、急いであかねが医師と面談する部屋へと向かった。担当の医師は、すずさんの長期入院が必要だと説明した。僕はすずさんの「鞍馬の火祭」を見たいという願いを伝えた。医師は一瞬眉をひそめたが、すずさんの気持ちを理解し、車椅子を使い無理をしないことを条件に許可を与えてくれた。
その瞬間、あかねと僕の心に安堵の光が差し込んだ。医師の了承を得てからは、京都の秋の夜空を照らす伝統の祭り、京都三大奇祭のひとつである火祭りの歴史について調べた。今年は例年よりも一ヶ月遅れで開催されるという珍しい事態だった。
火祭りの起源は、平安京の御所に祀られていた神さまが鞍馬山の麓に移された際、鴨川沿いに灯された松明の行列に由来する。山麓の暗い道を照らすその行列に感動した人々が、この神事を再現するようになったのだという。
僕は、すずさんの決意がどれほど強いかを知るにつれて、心が揺さぶられた。しかし、祭りへの興味が単なるものではなく、深い想いがあるのではないかと疑問を抱いた。それは、彼女の夢に共感したいという気持ちからだった。
✽
待ち望んでいた「鞍馬の火祭」の夜が訪れた。祭りは18時頃に始まり、暗闇の中で赤い炎が揺らめく。天狗で有名な神秘の鞍馬山々に響く太鼓の音色が、心を高鳴らせる。「神事にまいらっしゃれ。サイレイヤ、サイリョウ(祭礼や、祭礼)」という勇ましい掛け声がどこからともなく飛び交う。
集落の各住居に積まれたかがり火や松明が灯され、天空に舞い上がる火の粉とともに一瞬にして幻想的な景色が広がる。その場には大勢の人々が集まり、熱気と興奮が渦巻いている。
僕たちはすずさんを車椅子に乗せて、灯りと太鼓の響きに包まれた神秘的な鞍馬の山々の中に分け入っていった。目の前に広がる壮観な光の海の中で、ひとりの男性を見つけるのは困難かもしれない。しかし、辻井さんに会うことへの期待感が僕を高揚させた。彼はどんな男なのだろうか。そう思うとなぜだかワクワクしてきた。
僕はあかねの手を握りしめて、すずさんの顔色をうかがった。とても穏やかな笑みを浮かべており、元気そうだ。僕はすずさんに尋ねた。
「お母さん、なぜこの火祭りを選んだんですか?」
彼女は一瞬呆気に取られたが、ふさわしい言葉を思い浮かべたのか、口を開いた。
「そら……初恋の相手やさかい。男からこの夜祭りで声をかけられたの。素敵な人やったさかい、しゃあないやろう」
彼女はその年齢を感じさせないほど、初々しい笑顔を浮かべた。その笑顔は、春の訪れを告げるコスモスの花のように純粋で清らかだった。彼女の少し照れくさいような笑顔からは、優しさと暖かさが伝わり、それを見るだけで心が満たされるように感じた。あかねも笑顔で母親に話しかけた。
「それ、おかんのかけがえのない思い出やろう。初めて聞いた。素敵やなあ……。もっと聞かしてえな」
「ううん。もうええやろ」
すずさんは、軽く肩をすくめて、照れくさそうに笑った。それは、娘と母親ならではのやり取りだったのかもしれない。僕は、ふたりの微笑ましい姿を見て胸が熱くなった。目の前にまた祭りの光景が飛び込んできた。
子どもたちは小松明を握りしめ、大人たちは燃えさかる大松明を高く掲げ、勇壮な掛け声と共に集落内を練り歩く。その掛け声は夜空に響き渡り、神秘的な雰囲気を醸し出す。
人々は松明の揺らめく光を頼りに山道を上り始める。その先には、森の木々や澄んだ空気に包まれた神社が待っている。道すがら、二基の神輿が石段を駆け下りる壮観な姿に出会うことになる。
神社の本殿に到着すると、「そりゃあ!」という男たちの掛け声とともに、一斉に松明が空へ投げられた。
火の粉が突然一気に高く舞い上がり、暗闇を焦がすような赤い光が空を染める。その光景は壮観で、人々は神々の存在を感じ取りながら歓声を上げる。これこそが、この村に千年以上前から伝わる「鞍馬の火祭」なのだ。
目の前で繰り広げられる火祭りは圧倒的な迫力となり、心臓が高鳴っている。炎の暖かさや明るさを肌で感じ、その熱さや彩りは、僕の感覚を刺激する。
祭りは徐々に松明から神輿へと移り変わっていく。神輿の上には勇敢な佇まいの鎧武者が立ち、後ろには綱が繋がれている。坂や石段を下る際、神輿が転がり落ちないように、集落の女性たちが一丸となって力強く綱を引く。これは安産を願う古い言い伝えに基づいており、多くの若い女性たちがこの伝統に従って綱を引いている。
あかねは、「うちもやりたいなあ」と子どものような無邪気さではしゃいだ。すずさんは、「やったらええ」と優しくけしかけた。僕は母と娘の仲睦まじさに心が温まり、微笑みながら頷いた。
祭りは夜更けまで続き、人々の歓声や笑顔が絶えることはないらしい。翌朝、神輿が神社に戻る「
しかし、この古来から続く伝統的な火祭りに参加できたこと自体が、僕に深い感動と喜びをもたらした。その一瞬一瞬が僕の心に深く刻まれ、忘れられない思い出となった。
まるで時間を超えて語り継がれる壮大な物語の一部に触れたような感覚だった。この経験は、僕の心のアルバムに深く残り、これからの人生にきっと大きな影響を与えることだろう。
時計を見上げると、約束の七時が迫っていた。僕はすずさんが待ち焦がれる辻井さんに連絡する準備を始めた。予定通りに来ているのなら、彼は祭りのどこかで待っているはずだ。その一方で、心の中にはすずさんとあかねが無邪気にたわむれる笑顔が心地よい余韻を残していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます