第52話 一夜限りの灯


「辻井一郎さんですか? 今、どちらにいらっしゃいますか?」


 僕はすずさんと心に誓った約束を果たすべく、彼女が待ち望んだ再会の瞬間を迎えていた。心から会いたがっていた男性に連絡を入れたのだ。しかし、その声は祭りの喧騒にかき消されそうになる。自分の声が彼に届いているのだろうか……。


「ああ、悠斗さんですね。ちょうどいいところに。鎧武者が目立つ場所にいますよ」


 辻井さんの返事が戻ってきた。耳を澄ませば、彼の声は明るく響いていた。


「それなら、そこから動かないでください。僕たちもすぐそちらに向かいます」


 僕は力強い声で答え、すずさんの車椅子を押しながら、人波をかき分けて、鎧武者や松明が輝く神輿の方へ進んでいた。


 とにかく、人出が凄まじく、思うように進めなかった。しかも、僕は辻井さんに会ったことがなかったので、不安が募った。そんな不安に駆られていると、すぐに助け舟が現れた。それはすずさんの声だった。


「一郎はん、一郎はん、こっちこっち。あれが、あかねのおとんや」


 すずさんは、こよなく愛する男性を見つけて、可能な限りの大声で叫んでいた。僕たちの向かいの観客たちの中から、紬の和服をお洒落に着こなした男性が現れた。彼の紺地の着物姿には、真っ白な風車の紋様が華麗に描かれていた。


 僕らに向かって、辻井さんは「ここだよ、ここだよ」と手を振ってくれた。その男性の姿は、遠目にも京都の旦那衆のような風格を漂わせていた。


 すずさんは、彼と再会できたことがよほど嬉しかったのか、目を潤ませながら満足そうな笑みを浮かべていた。その笑顔は、彼女が心から喜んでいることを物語っているように感じた。同時に、僕はすずさんとの大切な約束を果たせた喜びで、心の中で「ああ……良かった」と呟いた。


「おかん、ほんまに良かったなあ。素敵な男や。うちも泣けてくるわ」


 あかねがそう言葉にした時、彼女の繊細で深い感情が伝わり、僕は目頭が熱くなった。それはすずさんだけでなく、あかねにとっても大切な人との感動的な再会だったに違いない。彼女の手をしっかりと握りしめて、頷き合った。


 あかねの目からは涙がこぼれ落ちていた。父親との十年ぶりの再会に、疑いもなく胸に迫るものがあったのだろう。


 一郎さんは、優しい眼差しで彼女を見つめながら、何度も頭を下げていた。長い間離れていた我が娘に対して、複雑な感情が心中に渦巻いていたのかもしれない。あかねは照れくさそうに微笑みつつ、母親の後ろに身を隠し、父親の横顔をそっと見つめていた。


 どこからともなく、心地よい祭りの音楽が僕の耳に届いた。それは、京都の歴史に根ざした雅楽の音色だった。独特のメロディーとリズムが空気を揺るがし、祭りの雰囲気を一層盛り上げ、僕の心を深く揺さぶった。まるで時間を遡り、平安時代の世界に転生したかのような感覚に包まれた。


 雅楽が響き渡る中、僕とあかねはすずさんたちの再会を静かに見守っていた。彼女たちは昔話に花を咲かせているようだった。すずさんの笑顔は、まるで若い頃に戻ったかのように輝いていた。そして、辻井さんはこれまでの想いが蘇ったのか、涙で頬を濡らしていた。


「あかね、ふたりとも幸せそうだね」


 僕は彼女たちの熱い想いを感じて、あかねにそっと囁いた。彼女は僕の手を握り返し、頷いた。


「うん、そやさかいうちらも幸せにならな」


 その言葉に僕は心から同意した。僕たちは生まれ育った境遇が異なり、しかも若すぎる恋人同士だと言われてきた。だから、これから先に待つ未来はまだ見えない。きっと、これからも茨の道が続くのだろう。


 一方で、すずさんたちは不倫の関係で別れてしまった。初めて一郎さんに会ったとき、僕は彼を黙って見守るだけだった。しかし、すずさんとの再会を喜ぶ中で、彼への思いは深い敬意と共感へと変化していった。


 今夜の彼女たちの再会を見ていると、どんなに時間が経っても、どこかで赤い糸が繋がっていたと感じてくる。そんな風に思いを馳せると、不思議な愛の世界に、ますます胸が締め付けられた。


 祭りの夜が深まるにつれ、僕たちは時間の許す限りそこに留まり、すずさんと一郎さんの再会を祝福した。月明かりが強まり、祭りの灯りが揺らめく中、夜はさらに幻想的な雰囲気を帯びた。僕たちはそれぞれの心に抱く思いや願いを秘めて、揺らめく灯りの下で夜を過ごした。


 そして、僕はふたりの再会を心に深く刻んだ。出会いと別れの連続こそが人生の本質だと言われる。これから先、あかねとの未来にはどんな困難が待ち受けているかわからない。しかし、僕たちが共有する深い絆と信頼があれば、乗り越えられない試練はないだろう。互いを信じて進んでいくことで、僕たちの愛はさらに強くなるのだと確信した。


 僕の心には、まだひとつ果たすべき使命が残されていた。それは、すずさんを無事に病院へ送り届けることだった。



 ✽


 病院の看護師は、僕たち三人が遅くなることを理解し、待っていてくれた。母親の元気な顔を見て、「すずさん、本当に良かったですね」と口にした。僕とあかねは看護師に感謝の言葉を伝え、すずさんを車椅子で病室に送った。


 すずさんは自室に戻ると安堵したように、穏やかな表情でベッドに横になり、「今夜はほんまにおおきになあ……。人生で最高の時間やったわ。これで閻魔さまも喜んでくれるやろう」と満面の笑みを浮かべてくれた。


 その笑顔を見て、僕はもう涙を抑えることができなかった。すずさんにとって、今夜はこの上なく幸せな夜だったのだろう。


 あかねはすずさんの手を優しく握り、「おかん、おやすみなさい。素敵な夢を見とぉくれやす」と言った。彼女は僕の手も握りながら、「悠斗、おおきに」と目を閉じて口にした。


 すずさんはすぐに眠りについた。その穏やかな寝息が病室の静寂に溶け込み、僕の心を優しく包み込んだ。彼女の幸せそうな寝顔を見守りながら、あかねと一緒に母親のそばを音を立てず離れた。


 すずさんたちの感動的な一夜限りの再会を目の当たりにしたからだろうか。不思議なことに、病室を後にしても、先ほど耳にした祭りのメロディーが僕の心を離れず、心の琴線に深く触れ、甘美な余韻を残していた。その心地よい雰囲気に酔いしれながら、僕は自分自身の恋心にも新たな火を灯した。


 病院の出口で立ち止まり、祭りの灯りが遠ざかる中、メロディーが心に響く限り、すずさんの姿が脳裏に浮かび続けた。


 京都の「祇園祭」や「鞍馬の火祭」は、若い男女に出会いの場を提供する一方で、別れの刹那も生み出している。そんなことを思うと、僕の心は深く揺さぶられる。


 あかねも、同じように何か心に残るものがあったのだろうか……。涙をこぼし、目を赤くしていた。それは、僕とあかねがすずさんと共に祭りを楽しんだ、最後の記憶だったのかもしれない。

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