第47話 甘く切ない夜
あかねはさらに辛い話を続けた。彼女が高校一年生の時、突然母親のすずさんは心臓の発作で倒れた。昔から心臓が弱く、いつ何が起こるかわからない危険な状態だった。あかねはショックを受けて、高校をやめたいと考えていた。
けれど、すずさんはあかねにどれだけ辛くても高校生活を続けるように励ましてくれた。その切なる思いと自分の希望を叶えるために、あかねは家事や店番、そして舞妓の見習いをしながら、母親の看病を続けた。
一方で、あかねには別の大きな悩みがあった。母親から聞かされたお茶屋の若旦那との身請け話に、彼女の心は強い悲しみを感じた。あかねは、母親がなぜそのような話を持ちかけたのか、理解できなかった。そのことを涙ながらに告白した。
切ない言葉が耳に届くと、僕は冬の桂川に身を投げたあかねの姿を思い出し、激しい憤りを感じた。僕は彼女の背中をそっと撫でながら、優しく慰めた。彼女は僕の胸に顔をうずめ、涙を流していた。しばらくすると、あかねは静かに涙を拭い、僕に謝ってきた。
「かんにんやで、こないな話して……」
「ありがとう。辛い話を教えてくれて」
「うん。悠斗には、なんでも話したい。悠斗は、うちのこと分かってくれるさかい」
僕はあかねの手を握りながら、自分が恵まれた家庭で育ったことに感謝した。しかし同時に、自分の甘さや幼さに恥ずかしさを覚えた。
彼女の優しい微笑みと艶やかな瞳に僕は心を奪われ、唇を重ねた。あかねは僕の胸に抱きつき、彼女の手からは安らぎが伝わってきた。過去も未来も忘れ、僕はふたりで今この刹那を大切にしたいと強く意識した。
僕の気持ちを察したのか、あかねは愛おしそうに微笑んでくれた。彼女と視線を交わした後、ふたりの唇が触れ合った。甘い香りが広がるこの刹那が永遠に続けばよいと願った。
食事を終えると、初めての夜という特別な時間に心地よい緊張感が広がり、新鮮で甘くて刺激的なひとときを過ごした。
「あかね、すぐに結婚しよう」と、僕は彼女に申し入れ、小指を絡めて誓いを交わした。これは、僕にとって秘めやかな殉情の証だったのかもしれない。僕の心は揺さぶられ、彼女への愛情をさらに深めてくれた。
「あかね、そろそろ寝ようか……」
そう言葉を残すと、明日のことに不安と期待を抱きながら、僕は彼女をそっと抱きしめたまま、まどろみに落ちていった。その夜は長く感じられ、ふたりで過ごす時間は永遠に続くようだった。そしてその夜、僕はあかねと一緒に眠りについた。
翌日、僕はあかねの手を引いて、京都の撮影の旅として、北白川の近くにある蹴上のインクラインへと向かった。ここは僕が忘れられない写真を撮ったところだった。
北白川は、情緒溢れる水路が織りなす風景と、古き良き時代を感じさせる水車小屋が点在し、その美しさは四季折々の風情を映し出している。一方、蹴上の里もまた、その静けさと素朴な風情が魅力的だ。
桜の花が咲き誇る春には、多くの人々がこれらの街の美しさに惹かれて訪れる。だが、秋が深まり冬がくると、人々の足音は少なくなり、静けさが広がる。その寂しげな風景の中にも、冬ならではの美しさがある。そんな季節に、蹴上の街の魅力を探しに来る人は少ないかもしれないが、その美しさは一見の価値がある。
昨冬にひとりで訪れた蹴上のインクラインは、僕の心に深く刻まれた思い出の場所だ。今回はあかねをモデルにして写真を撮りたかった。それは、まさに「リメンバーインクライン」 となる新たなチャレンジだった。
今回のコンテストは、前回の新人コンクールよりもずっとレベルが高い。全国のプロカメラマンが参加しているから、優秀作品に選ばれるのは大変だろう。アルバイト先の社長や結衣からは、常に励ましとアドバイスを受けていた。
特に、社長の大和田からは、「おまえならやれる。このチャンスを絶対に逃すな!」という力強い後押しを受けていた。昨年訪れた時のことを思い起こす。
僕は雪で白く染まった線路の景色に目を奪われ、写真の構図すら忘れ、誰もいない静寂な場所でぽつんと立ち尽くしていた。その美しさは、言葉では表現できないほどだった。
雪に覆われた大地からは静けさと清らかさが感じられ、寒さに耐える生き物たちの姿は勇気と希望を与えてくれた。人々は冬景色の銀世界において、小さな存在に過ぎず、まるで季節外れの蛍のようだったかもしれない。
しかし、僕はここに存在している。自分の生命の鼓動を感じ、自由に羽ばたける瞬間を愛し、その感動を静止画に切り取っている。それは、僕自身の存在を確認する一種の証明だ。
あの時、凍りつくような世界で、一歩ずつ冬から春への道筋を描いていたのだろうか。真っ白に昇華する風紋の舞を目の前に、「何と美しいだろう……」と思わず呟いていたのだろうか。
冬の訪れは、恋する若者たちにとって特別な季節だった。なぜか心が温かくなり、感情が深まる時期だった。しかし、僕はひとりで風紋の舞を見つめながら、自分の感情を写真に収めようとしていた。
雪の結晶は六角形の天使たちに昇華していく。彼らは輝かしいフラッシュの光に照らされて、静かに見つめ合い、ささやき合う。雪が放置された線路に白い絨毯を敷いて、淡雪の花がひっそりと咲く。清らかで凛とする空気はキラキラと輝き、風花は永遠の時間を刻むように、空へと舞い上がる。
空を見上げると、しんしんと降る雪の音色が耳に届いた。凍えるような寒さでも、耳を澄ますだけで、感動の渦に包まれて心は暖かくなった。我を忘れて、カメラを向けたまま立ち尽くした。
やがて、空から降り注ぐ光が雪の結晶を包み込み、音をシャラシャラと響かせた。それはまるで天使たちが鳴らす鈴のようだった。心にそこはかとなく響き渡る音だった。その音色に耳を傾け、大自然の中で自分の儚さと小さな存在に気づいた。
僕は、雪景色のインクラインに心を奪われた。その美しさ、静寂さ、そして純粋さが、僕の心に深く響き、感動を呼び起こす。それとは対照的に、草木が実を結ぶ瞬間にも、目を見張るような美しさがある。
季節が深まり、空気が冷え込むと、京都に初冬を告げる「いろはもみじ」の葉色が、鮮やかな深紅に染まる。小ぶりな葉が空に舞う姿は、まるで一枚の絵画のようだ。今日は、その美しい紅葉をモチーフに、新たな作品を創り出すつもりだった。
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