第46話 月夜の温もり


 空を見上げれば、大気は澄み渡り、冴えわたる月が顔を覗かせていた。窓から差し込む月明かりが、古びた六畳一間のアパートを柔らかく照らしている。その寒さは身を縮めるほどで、心まで凍えそうだった。


 この部屋で京都の生活を始めて以来、ずっとここで過ごしてきた。安普請のアパートはどこからともなく風が吹き込むが、それでも僕にとってかけがえのない愛着のある場所だった。


 今日は初めて、あかねを僕のアパートに招いた。彼女は笑顔を絶やさず、物珍しそうに部屋の隅々まで目を輝かせて見回していた。


「えらいさぶいなあ。風だけでも、何とかならへんかな……」


 彼女は申し訳なさそうに呟いた。ふたりはストーブの青い炎に両手をかざしたが、寒さに耐えきれず、僕が普段から使っている毛布を持ってきた。


「まだ、寒いやろ?」


 僕はそう言って、一枚の毛布をあかねと分け合った。その毛布はまるで魔法のように、僕たちの間の隙間を優しく包み込んでくれた。そのふっくらとした感触と暖かさが、ふたりで迎える初めての夜に僕の心をじんわりと温めていくのを感じた。


「おおきに、あったかいわ……。もっと、近うおくれやす」


 彼女から可愛らしい京都弁が届いてきた。僕は思わず華奢な身体をギュッと抱きしめると、小さな胸から高鳴る鼓動が感じられた。


 美しい妖精のような甘い香りがほのかに漂い、堪えきれず、目を閉じてあかねの唇にそっとキスをした。心地よい余韻にひたりながら、僕は彼女に呟いた。


「あかね、聞いてくれるか。さっきの話だけど、明日の朝は早起きや。夜明け前に出なくてはいけない。一緒について来てほしい」


「かまわへん。うちは、いつも悠斗がそばにおって欲しい。どこまでも一緒やろ。もう、離れんさかい」


 あかねの言葉に胸が熱くなった。彼女は僕のことを信じてくれている。僕はあかねの手を握りしめた。あまりの素直で健気な姿に、涙すら溢れてしまいそうだった。


 僕は気を取り直して正直に打ち明けた。それは、ずっと自分の心にわだかまりとして残っていたことだった。


「お母さんとの約束を果たしたいのか?」


「そうやな。けど、どないするんや?」


「今は何も言えないよ。ただ、黙って、ついて来てくれ」


「ええで、信じてるさかい……。けど、優斗、ひとつだけ約束してな。うちのことだけは見捨てんといてな」


 彼女が僕の胸に寄り添って、切なそうに囁いた。


「ああ、もちろんや。それだけは絶対にしないから安心していいよ」


 僕はあかねに笑顔を見せた。彼女は僕の手を握り返してくれた。


 窓ガラスに結露が降り、星や月の光が隠れた夜。それはまるで神さまの戯れのようでありながら、僕たちふたりにとっては思いがけない贈り物だった。

 部屋の照明は柔らかく、テーブルには二本のキャンドルが灯され、ロマンチックな雰囲気を醸し出していた。窓の外の世界が見えなくなることで、僕たちの世界はより親密で特別な空間へと変わった。


 あかねと過ごす初めての夜は、贅沢なものは何ひとつなかったけれど、その時は僕たちふたりだけの特別な記念日になった。天の川にきらめく星々よりも魅惑的で、決して忘れることのない時間だった。


 僕たちはオムライスを作ることにした。冷蔵庫を開けると、必要な材料がすべて揃っていた。卵を割り、チーズを散らし、ケチャップを絞る。まるで子どもの頃にタイムスリップし、ままごとをしているかのような楽しい時間が広がった。


 オムライスが出来上がると、彼女はそれを見つめて微笑んだ。その目は喜びで輝いていて、それを見て僕も嬉しくなった。そして、彼女は嬉しそうに話し始めた。


「おかんに習うたさかい、料理は得意やで。おっきなまん丸お月様みたいなのをひとつだけ作るんや」


 僕たちは毛布を分け合うように、オムライスも一緒に楽しんだ。ふたりで作ったふわとろオムライスのドレスには、いくつものハート型のケチャップマークが並んでいた。あかねはそのハートマークを見て、嬉しそうに拍手を送った。


 形は少し不格好だったけれど、一口食べると最高だった。彼女は僕の好みをよく知っていて、甘くてふわふわの玉子と、ピリ辛でトマトの香るチキンライスが絶妙にマッチしていた。彼女は自慢げに僕の顔を見て、微笑んだ。


「どないや? 美味しいやろ?」


「うん、最高だよ。ありがとう」


 僕はあかねにキスをして、感謝の気持ちを伝えた。彼女は照れながらも、嬉しそうに僕の頬にキスを返した。


 僕たちはテーブルについて、オムライスを分け合って仲良く食べた。その間も、彼女は僕と目を合わせ、あまり知られていない先斗町の花街について言葉を選びながらしんみりと話してくれた。僕は彼女の話に耳を傾けながら、愛する女性が生活する場所についてもっと知りたくなった。


 花街は、芸妓や舞妓が小唄や舞踊を披露しながら客が揚屋で食事をする場所で、遊郭とは異なり、いかがわしいものではなかった。芸妓の最高位が太夫であり、見習いが舞妓だ。太夫はお茶や和歌、俳諧、そして京料理などの教養も身につけている。そこは遊宴だけでなく、京都ならではの文芸活動も盛んだった。


 揚屋は世に知られる料亭に相当するけれど、一見さんお断りの特別な店だ。置屋は太夫や芸妓を抱えていて、宴会の時に彼女たちを派遣する。祭りの夕べには、きらびやかな太夫が芸妓や舞妓を従えて置屋から揚屋へと歩く「太夫道中」が見られると、あかねは教えてくれた。


 かつて先斗町の花街で舞妓修行を続けた母親は、京料理の腕を磨いていた。あかねは、そんな母親から数々のレシピを教わり、母の手料理の技術を受け継いでいる。人知れぬ苦労を重ねてきたあかねだが、母親のことを心から尊敬し、その教えを大切にしていた。


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