第45話 初雪の出会い
時は無情にも流れ、すずさんの恋物語を聞いてから早くも三ヶ月が過ぎていた。
秋の訪れとともに、京都の街は暑かった夏と別れを告げ、艶やかで華やかな紅葉の季節を迎えた。野山から街中にかけて、色鮮やかな葉が広がり、空気は清々しく、まるで自然が何かを語りかけてくるようだった。
歴史を感じさせる京都の街が赤や黄金色に染まるこの風景は、僕の未来にとって希望の兆しなのか、新たな始まりの予兆なのか、それともただの季節のうつろいに過ぎないのだろうか……。
そのメッセージが何であれ、僕の心に強く響き、新たな一歩を踏み出す勇気を与えてくれた。プロの一流カメラマンを目指す僕には、母親との約束を果たすために、年内に大きな機会が控えていた。それは、著名なカメラメーカーが主催するフォトコンテストだった。
週末の早朝に目を覚ますと、窓の外には銀色に輝く大江山が広がっていた。丹後の海に近いこの山は、乳白色の雲と朝日が織りなす幻想的な景色で知られており、紅葉の時期に初雪を迎えるのは珍しい。
今日の空は、白銀の世界に赤インクをこぼしたかのような刹那的な色に染め上げられていた。これは天候が急変する前触れかもしれない。
ところが、そんな不安も昼時には吹き飛んだ。一刻も早くあかねに会いたかったのだ。縁結びの神さまが味方してくれたのか、僕の心模様のように重く垂れ込めていた秋雨が上がり、雲間から日輪が顔を覗かせてきた。嬉しくなって、僕はあかねに電話をかけた。
「いつもの場所で待ってるからね」
「悠斗、わかったわ。ちょい遅れるけどな。今、何してはるん?」
僕たちはもうタメ口で呼び合う仲になっていた。
「あかね、鴨川デルタで写真を撮っていたんだよ。豆大福を食べていたら、トンビに奪われちゃったんだ」
「そないないけずされたんや? けど、おもろいなぁ」
目の前の三角州には亀の甲羅や千鳥模様を模した飛び石が並び、子どもたちが犬を連れて鴨川を渡っていた。カップルだけでなく、買い物かごを手にした女性も橋を使わずに飛び石を渡り、日常生活の一部となっていた。
「うち、今日はかいらしい服を着て行くさかい、写真をぎょうさん撮ってな。踊りの稽古終わったら、すぐにそっちに向かうわぁ。楽しみにしといてや」
彼女が口にした「かいらしい」は京都弁で可愛らしいという意味だ。電話を切った後、彼女の笑顔が心に浮かんだ。あかねは母親の言いつけを守り、学校帰りに舞妓見習いとしての修行を続けていた。
ふたりのデートは数え切れないほど重ねており、母親も決して怒ることなく、温かく見守ってくれた。
しかし、母親の許容がいつまで続くかは不確かだった。僕は口に出さなかったが、徐々に焦りを感じ始めていた。時刻はもうすぐ午後四時になる。
「お待たせしてかんにんえ」
三条大橋の手前で待ち合わせをした僕は、目の前に現れた鹿の子柄の和服姿と愛嬌のある声に心を奪われた。彼女の振袖姿を見るのは初めてで、風になびく薄紫の花かんざしに胸がときめいた。
あかねは京下駄を履いた足で黒髪を振り乱しながら、小走りで僕のもとへ駆け寄ってきた。その姿は、たおやかに歩く優雅な舞妓さんとはかけ離れたおてんば娘そのもので、思わず笑ってしまった。
「ほんまにすんまへん。うちの振袖姿、初めてお目にかかるんやろか……。もっとじっくり見とぉくれやす。悠斗には、うち、可愛ぅ見えるんやろか」
和服の長い袖を振りながら得意げに一回転し、顔には満面の笑みを浮かべていた。もうすぐ、「秋の鴨川をどり」の舞踊公演で新人の舞を披露するという。
無邪気な振る舞いはすべてが自然で、鴨川を舞台にした映画のヒロインのように、活力にあふれたオーラが感じられた。
清涼感のある振袖の衿元からのぞくうなじは、高校生とは思えないほどの魅力を放っており、その姿は僕の心を激しく揺さぶった。すぐにでも、この場で彼女を抱きしめたいという衝動に駆られた。
「とても似合っているよ、本当に可愛い。まるでおきゃん娘だね」
僕はその言葉を口にしながら、あかねの無邪気さと愛らしさに心を奪われていた。大好きなあかねのことを「お転婆」とは言えず、代わりに「おきゃん」という言葉を選んだのだ。その選択には、彼女への深い愛情と敬意が込められていた。
「ちゃうちゃう、もう大人やし。まだ見習いやけど……。さっき、姐はんにメイク教えてもろたんやで。可愛なったやろ? しっかり褒めてえな」
あかねは口を少し尖らせて自分の頬を指で示した。その恥ずかし気な顔を見ると、目の周りや鼻筋にかすかなピンク色がさしているのがわかる。頬紅も新しくしたのかもしれない。
一方、空を見上げると、さまざまな形の灰色の雲が集まっており、風も冷たく感じられた。
「寒くなってきたね。今夜は雪が降るかもしれない」
そう言いながら、僕のマフラーを彼女の首に巻いた。
「うそやん。せやけど降ったかて、毎年京都の雪は年明けやんか。今朝、朝焼け見んかった?」
「ごめん、初雪は冗談だよ。朝焼けは見逃しちゃった」
「もうほんまに寝坊助なんやから」
あかねが見つめる先には、鴨川の岸辺にカップルたちの姿が広がっていた。恋人たちは一定の距離を保ちながら腰を下ろしている。この場所は京都で有名な恋人の聖地のひとつである。皆が愛情を深めているかのように見え、羨ましさを感じさせる。
しかし、彼女は目を潤ませながら立ち止まり、視線を赤褐色の地面に落とし、寂しげに呟いた。
「素敵やな。あないな風に一緒に寄り添うとったら、あったかそうやなぁ……」
「あそこ、空いてるよ。あかね、座ろう」
「やっぱし聞こえとったんやね。ほな、行こか。せやけど、うちらの繋がりって、いったい何なんやろ?」
今日のあかねはどこか違っていた。無邪気な少女の面影は薄れ、大人の女性としての魅力が漂っていた。彼女の言葉一つひとつに、情熱の息吹が込められているのが伝わってきた。
「それはもちろんカップルだよ」
「あかんわ、そないな言葉は京ことばにはあらへん。ちゃんと真剣にうちに向き合うてくれる? うちは悠斗のこと、どこまでも好きやさかい」
彼女は僕に肩を寄せて甘えるように話し始めた。彼女の丸い瞳は潤み、笑顔の裏には何か別のことを伝えたいという気配が漂っていた。
「幸せは神さまがきっと平等に分けてくれはるって信じてたんやけど…。ほんまにうちでええの?」
ここまであかねから言われると、目頭が熱くなった。土手沿いに広がる料亭から漏れる薄明かりが、僕たちを温かく包んでくれるようだった。
「当たり前だ。この間、好きだって宣言したやろう。忘れたのか?」
「おかんの前でやったやろ。好きなら、うちに直接好きって言うてな。今夜はおそなるかもしれんし、もしかしたら泊まるかもっておかんに言うてきたんよ」
彼女は踊りの修練で遅くなるから、姐さんのところに泊まると言ってきたらしい。口止めしてくれる代わりに、今度彼氏を紹介すると約束してきたそうだ。
「嘘ついて、大丈夫か?」
「かまへんよ。気にせんといておくれやす」
「実は、無理なお願いがあるんだ」
もちろんのこと、あの夜の約束は忘れていなかった。このチャンスが来るのをずっと長く待っていた。
「なんやろか……。早う言うてや」
「あとで、分かるさ」
「どないしよ、めっちゃ怖いわ」
怪訝そうな表情を浮かべるあかねに、あえて気づかないふりをした。ここで反対されたら、長く抱いてきた希望や野心が中途半端に終わってしまうからだ。少しだけ冷たく「大丈夫だよ」と言い放った後、彼女をとても狭いアパートへと案内した。
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