第44話 愛と涙の記憶
人の心の奥底を覗くことはできない。しかし、父親の謎と家族の秘密が繋がり、曖昧だった過去が明かされることで、あかねの記憶に変化が生じたようだ。
彼女は幼い頃に見た光景を、まるで昨日のことのように鮮明に語り始めた。長い間忘れていたとはいえ、それは彼女にとってかけがえのない宝物のような思い出だったのかもしれない。
あかねの声にはどこか懐かしさが漂っていた。母親のすずさんも、昔の思い出が蘇るように目頭を熱くしながら、娘の話にじっと耳を傾けていた。ふたりの間には、母と娘ならではの言葉に尽くせないほどの深い絆が感じられた。
宵山の夜、祇園祭の賑わいの中で、提灯の柔らかな光と屋台の賑やかな声、そしてコンチキチンの心地よい音色に包まれながら、すずさんはあかねの手をしっかりと握りしめていた。鉾や山車、舞妓さんや芸妓さんの華やかな姿を横目に、ふたりは人混みを縫うようにして進んでいく。
祭りの華やかな光景に心を奪われることなく、すずさんはあかねを釣れてひたすら歩みを進めていた。その表情からは、特定の男性に会うための強い決意がひしひしと伝わってきた。
子どもたちの笑い声がわらべ歌とともに響き渡り、人々の視線が集まる中、母親は夕闇に溶け込むように赤い建物『京の赤羽堂』の前で立ち止まった。その姿は、まるで遠くから母親を見つめる鉾の先頭の男性を待ち受けているかのようだった。
あかねは淡い紫の浴衣を纏い、すずさんは純白の着物に身を包んでいた。男性は無言のまま、風車が回る鉾の前で凛とした姿勢で扇子を振っていた。あかねにとって、彼は線香花火を楽しんだあの夜に出会った特別な人だった。すずさんが彼に気づいた瞬間、ハンカチを取り出して静かに涙を拭った。
「おかん、どないしたん?」
あかねが尋ねると、母親はすぐには答えなかった。ただ、目に涙を浮かべながら、晴れやかな表情の男性を見つめていた。幼いあかねにも、その男性がとても勇ましく見えた。男性もまた、母親とあかねの姿をじっと見つめていた。母親は、あかねが寂しそうにしているのに気づき、そっと言葉を漏らした。
「あんた、しっかり覚えときや。あれ、おとんやで忘れたらあかん。もう二度と会えへんかもしれん」
幼いあかねには、まだ母親の言葉の意味がよくわからなかった。あの勇ましい男性は、若い頃のすずさんの愛しい人だったのだ。
祇園祭の日、すずさんはまるで運命に導かれるかのように、禁断の恋に落ちた。彼女が密かに愛を育んだ相手は、老舗の店を経営する若い旦那だった。若旦那からの金銭的支援を受けて以来、あかねの母親は世間の目を避けながら、小間物屋を営み、娘と共にひっそりと暮らしていた。
男性は山鉾から離れ、刹那の間だけ母親とあかねに近づいた。彼は母親に優しく声をかけ、「久しぶりだね。元気だったかい」と微笑んだ。
ふたりは昔話に花を咲かせながら、宵山の美しい風景を名残惜しそうに楽しんでいた。彼は母親に対して心からの思いを込めたように、「元気でいてくれて本当に良かった。すずのことが忘れられなかったよ」と語りかけた。
周りに大勢の人目があるというのに、彼は彼女の頬にそっとキスをした。母親は幸せそうに微笑んでいた。あかねには、自分の母親の目が艶やかで女性らしく、いつもとは違って見えた。
「うちも好きや。この娘、あんたの子どもやで。大きゅうなったやろ」と母親は言って、男の厚い胸に抱きついた。「もっと一緒にいたいねん!」と続けて、彼の手をしっかりと握った。
しかし、奥さんがいる老舗の若旦那はすぐに首を横に振り、「それは無理だよ」と口にした。「すずに会えただけでも奇跡だった」と続け、母親の髪を優しく撫でながら、「すずを忘れることはできない。でも、君を連れて行くことはできないんだ」と言い、彼女の涙をそっと拭った。
あかねの母親は涙で目を赤くしていた。その涙は、あかねが初めて目にする切なくも熱いものだった。「ほな、うちはどうしたらええの……」と母親は言い、娘がそばにいるにもかかわらず、男の腕にしがみついた。「うちはあんたしか愛せへん」と呟きながら、彼の唇にキスしようとした。だが、若旦那は母親を優しく押しとどめて、「ごめんな」と言った。
「もうそろそろ皆の待つところに戻らなくてはいけない」と言いながら、すずさんの手をそっと離した。そして「今夜、君に会えて本当に良かった」と言い残し、彼女に優しく微笑んで手を振った。
それは母親がこよなく愛した若旦那との最後の別れだった。すずさんはその後、彼からの連絡を待ち続けたが、何も届かなかった。ただ、小間物屋の改装費用とあかねの養育費が振り込まれただけだった。
けれども、すずさんは彼の名前も優しい笑顔も、その男らしい声も、決して忘れることはなかった。あかねは母親の切ない過去を思い出し、涙が頬を伝った。彼女はすずさんにしっかりと抱きついた。
「おかん、これまでほんまに辛かったやろ。わがままばっかりでかんにんえ」と謝った。そして、「もう心配せんといて。すべての謎が解けたさかい」と優しく慰めた。
あかねからすずさんの恋愛話を聞き終えた瞬間、僕の胸には切なさがさざ波のように押し寄せてきた。感無量の気持ちだった。これまであかねに抱いていた謎が解けたものの、心の中には切ない空白が広がり、遣り切れない思いが募るばかりだった。
言葉を失い、涙がこみ上げてきた。すずさんがあの若旦那と出会った祇園祭、そしてその後の別れ、それがあかねの父親だったという運命的な事実。それは僕にとっても、初めて耳にする他人事とは思えない衝撃的な話だった。
一方で、衝撃を受けながらも、心が惹かれたのは、花街の先斗町で生きる母親のしたたかさと優しさだった。それは決して彼女を揶揄するものではなかった。すずさんが娘を育てながら、どれだけ苦しみ、どれだけ悲しんでいたかに気づくと、胸が締め付けられる思いがした。
かつて、僕はあかねとの恋路を邪魔する存在として、母親のすずさんを憎んだことすらあった。しかし、今ではその嫌悪感は消え去り、あかねがどんなに苦しい経験をしても母親を憎まなかった気持ちが理解できるようになった。
すずさんに対する僕の気持ちは、彼女が自分の娘を育てる過程で見せた強さと優しさに対する深い尊敬に変わり、僕の心を満たしている。
あかねがそんな素晴らしい母親を持つことは、彼女にとって何よりの幸せだと感じる。なぜなら、すずさんはあかねに対して絶え間ない愛情を注ぎ、どんな困難も乗り越えてきたからだ。
「女ひとり食べさすのもやっとなら、綺麗ごとを言わんといておくれやす」
母親が以前にあのような強い言葉を投げかけた理由が、今になってようやく理解できた気がする。それは、僕が立ち入ることのできない、母とひとり娘の深い絆だったのだ。
しかし、どうしても身請けの話だけには納得できなかった。このままでは、突然の別れの宣告によって、あかねと永遠に離れ離れになってしまうだろう。
「でも、これから一流のプロカメラマンとして……」
あかねがいる前で母親と喧嘩別れしたあの時、彼女に投げかけた言葉を、僕は今でも決して忘れてはいなかった。それは、あかねとの現在から将来にわたる関係の話だった。
しかし、どれだけ思いを巡らせても、今の現状を打破できる具体的な手がかりは見つからなかった。僕は写真のコンクールで受賞したばかりの新人カメラマンで、まだ学生の立場だった。
この先どうすれば良いのか。本当にあかねを幸せにしてやれるのか。いくら理想を描いて考えれば考えるほど、僕は自分の無力さに打ちひしがれて、絶望の淵に立たされた。どうすれば絶望感を抜け出し、その淵から這い上がれるのだろうか……。
目の前であかねが黙ったまま僕の様子を伺い、浮かべる無邪気な笑顔が、かえって僕の心を追い詰めていたのかもしれない。
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