第43話 母の暗夜行路
母親のすずさんは目を伏せ、今まで誰にも話したことのない過去を静かに語り始めた。その声には重みがあり、傷ついた心の痕跡が感じられた。僕は言葉を失い、ひたすら彼女の話に耳を傾けた。
「夏祭りなんて、えらい好かん」
京都の夏の風物詩といえば、多くの人々にとってのハイライトであり、一年を象徴する祇園祭が挙げられる。彼女の言葉に心を動かされた僕は、周囲が一瞬静まり返るのを感じた。彼女は数年にわたり祇園祭を訪れていなかった。彼女は涙をこらえながら、着物の襟元から白いハンカチを取り出した。
京都の街は七月になると、祭り一色の熱気に包まれ、「宵山」と「山鉾巡行」は見逃せないイベントとして知られている。しかし、すずさんにとって、これらは特別な意味を持っていた。
彼女は祇園祭の華やかさの裏にある苦しみを、決意を新たにして語り始めた。彼女と夫の出会いや別れは、祇園祭を背景にした切なくも美しい恋の物語だった。その物語は、祭りの賑わいの中で響く静寂な旋律のように、僕の心に深く刻まれた。
「あかね、あんたがおっきなったら、いっぺん話したろうと、ずっと思うてきたことあるんや。よお聞くんやで」
「何の話かいな、おとんのこと?」
母親の話を聞いて、あかねは驚きと興味を隠せない様子を見せた。彼女が父親のことをほとんど知らないためかもしれない。真剣な眼差しで母親を見つめて尋ねた。あかねは、僕と同じように父親のことを心配しているのだろう。
すずさんが遠い過去に置いてきた恋物語にも興味を惹かれた。すずさんは深く息を吸ってから、落ち着いた声で口を開いた。
「そうや。あんたのおとんのことや。もう会えんとさっき言うたやろう」
「ほんまか。どこ、どないな場所に生きとるん? 知っとるなら、教えてくれてもええやろ? うちは、おとうが生きてるなら会いたいんや」
祇園祭での出会い、そして別離。母親は目を潤ませながら、あかねが幼かった頃のことを思い出し、言葉にしてきた。
「あかね、七五三のお祝いを覚えとる?」
「忘れてへん。うちが初めて着物の帯を締めたときやろ?」
「ああ……そうや。あの着物はあんたのおとんが買うてくれたものなんや。三条大路沿いの老舗の店『京の赤羽堂』のこと、知っとるやろ」
「ああ……そうや。あの着物、あんたのおとんが買うてくれたんや。三条大路沿いの老舗の店『京の赤羽堂』、知ってるやろ?」
「うん。おかん、その着物で花火したん覚えてるわ」
母親は今でもその着物を大切にしまっているという。月明かりの中、六角堂での七五三の参拝が終わった夜、見知らぬ男を含めた親子三人で、季節外れの線香花火を楽しんだらしい。彼はあかねにとって、初めて会った人だったそうだ。彼女は、母親の話を聞いてから、自分の記憶を少しずつ辿っているようだった。
それから、あかねは自分の幼少期の思い出をゆっくりと話し始めた。それはまるで心を動かされる映画の一場面を見ているようで、僕の心を深く揺さぶった。彼女がその日家に帰ったとき……
あかねは、疲れ果ててまどろんだ。我が家の縁側で、母親の背中が優しく、そして切なく映った。彼女はひとりの男性とそっと囁き合いながら、スズランのような愛らしい馬酔木の花に見とれていた。その花は、まるで母親の心の中に咲く恋の花のように、輝いていたのかもしれない。
「あかね、そろそろ起きてもええ時間やで」と母親が優しく声をかけ、あかねは目を覚ました。どうやら彼女は、わがままを言ってばかりいたようだ。
「おかん、線香花火、縁側でやりたい」
すずさんは、あかねのわがままに応じて、線香花火、水桶、そして生け花用の陶器の皿を持ってきた。不思議なことに、彼女は紫の菊の柄があしらわれた和服に着替えていた。顔には笑みを浮かべていたが、目元には涙が滲んでいた。
「うちの大事な花を燃やさんといてな。じっと花火の華が咲くまで、辛抱強う待っとくれやす」
あかねは母親の言葉を素直に受け入れ、じっと線香花火を見つめていた。彼女の手にはしっかりと線香花火が握られていて、その隣には見知らぬ男性が微笑みながら寄り添っていた。あかねにとって、その花火は母親が客間に活けている彼岸花に似ているように見えた。
最初、夜の静けさを破り、小さな手の中の線香花火がひっそりと命を灯す。初めは控えめな光が、徐々に強まり、鮮やかに輝き始める。その光は、暗闇の中で際立つ彼岸花の赤い花びらのように広がる。青白い光が放たれ、空中で儚く舞うその刹那の美しさは、満開の彼岸花の姿と重なる。
やがて白い和紙で覆われた線香花火の命が尽きると、花びらは最後の輝きを放ちながら静かに消えていく。その瞬間、残り火の花びらが一枚一枚落ちていく様子が思い浮かぶ。蜻蛉が夜空に飛び交うように、儚くも美しい終焉を迎える。
「終わってしもうたわ。おかん、もう一本だけさせてくれへん?」
そう言うと、母親は首を振って、あかねに語りかけた。
「華麗な花が咲くのは一度きりや。花には散り際があるんやで。一度だけ華やかに咲くんや。先に部屋へ戻っとき。おかん、火を消して行くさかい。」
あかねは、柱の陰からそっと覗いていた。母親は懐から写真のような紙をたくさん取り出し、一枚ずつ手に取って眺めていた。見知らぬ男は「すずさんは月下美人のような女性だ。娘も可愛らしい瓜二つや」と言い残し、いつの間にか姿を消していた。彼はあかねに笑顔で手を振って別れを告げたという。
母親は別れを惜しむように、一枚ずつ写真に火をつけていた。それぞれの写真が炎に包まれるたびに、彼女の涙が陶器の皿の上に落ちていった。そして、最後の一枚を手に取った時、彼女は長い間ただその写真を見つめていた。
彼女が火をつけようとしたその瞬間、慌てて手を止め、袖口からハンカチを取り出し、写真のススを優しく拭き取った。母の目には涙があふれていた。その光景はあかねの目にしっかりと焼き付けられていた。それは、母が男性との別れを告げる儀式だったのだろうか。
今となってそう思うと、あかねは娘として心が痛んだ。彼女が目を閉じると、忘却の彼方にあった祇園祭の色鮮やかな光景が心に蘇り、彼女はその情景をしみじみと語り始めた。
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