第42話 母親との対決
「悠斗はん、よう聞いとぉくれやす」
流暢なすずさんの京都弁を聞きながら、僕は肩の力を抜いていった。彼女と一対一で向き合うとは思ってもみなかった。時刻は六時を過ぎていた。
雷雨のざわめきが収まり、部屋は月明かりでほんのりと照らされており、壁には古い写真や絵が飾られているのに気づいた。すずさんの目は厳しさと優しさを併せ持っていた。それは花街で長い人生を送ってきた女性の証かもしれない。
すずさんは扇子を脇に置き、襟を正した。今夜、僕は藪から棒に彼女と喧嘩をしに来たわけではなかった。ただ、あかねとの関係を彼女にじっくり話したかったのだ。僕も心を開き、すずさんの話に真剣に耳を傾けた。
「はい。何でも言ってください」
「あかねもおっきなったさかい、もうええやろう。一緒にここで聞いてな。今夜はもう店じまいや。客も来いひんやろう。ここは、昔から舞妓の住まいや。置き屋からイノベーションして雑貨屋にしとるさかい、分からん人もおるけどなあ」
僕の気持ちを察したのか、母親も気が変わったようだ。
「おかん、それ、リノベーションやわ」
あかねが戻ってきて、冗談を交えながら話し始めた。彼女の言葉で一瞬にして緊張感が解け、不思議と自然な笑顔が広がった。そして、僕は正直な気持ちを包み隠さず話し始めた。
「どことなく、奥ゆかしい京町家風の造りだと思いました」
「そうやろう。もともとここらへんは花街なんや。前の女将はんの祖母から引き継いだんや。悠斗はん、ゆっくりでええのやろう」
「はい。すずさんがよろしければ」
突然、彼女から「お腹減ったやろう。ぶぶ漬けでも食べたらええやろ」と勧められた。これは京都風のお茶漬けのことで、早く帰ってくださいという意味も含まれていると聞いていた。
僕はまだ来たばかりだが、すぐに帰るようにせかされているのだろうか……。すずさんはそんなことに無関心を装いつつ、勝手口でお茶漬けの準備を進めていた。
「悠斗はん、遠慮せんでぜひ食べてみて。うちのぶぶ漬けはうまいさかい」
あかねが笑顔で口を挟んだ。
「えっ、いいのかい」
僕の心は揺さぶられていた。
「気にせんで、食べていっとぉくれやす」
あかねはそんな僕の複雑な気持ちを察してくれたようだった。
「おかん。そないな話知っとったで。そやけど、花街何や。関係あらへんやろう。うちにはおとんの写真もあらへんし」
あかねが続けて、不満そうに口を挟んできた。母親は黙っておられず、彼女をたしなめた。
「あんたも彼とおんなじようにきちんと聞く方がええ。おとんは生きてるのや。嘘は言わん。覚えとらん思うけど、幼い頃に会わしたことあるでぇ……」
最初は七五三の日、次は同じ年の祇園祭の夜だったという。
「おかん、ほんまか。おとうはどこ、どないに生きとるんや。知っとるなら、教えてくれてもええやろ! うちは、会いたいんや」
あかねの手紙を読むことで、彼女の心情が手に取るようにわかった。彼女は父親が亡くなっていると思い込んで育てられた。まるで死んだと思っていた人が突然目の前に現れたかのような衝撃を受けたのだろう。
さらに、あかねは父親が分からない「手てなし子」と勝手に思い込んでいた。目を輝かせて母親に質問を投げかけた。僕は母親の手前で何も聞かなかったふりをして黙っていたが、彼女の叫び声を聞いて胸が痛んだ。
「ほんでも、会うことは許されへん。どれほど愛しとったかて、よめさん生きてる限り、それ認めるわけにはいかへん。愛する娘のあかねであってもおんなじや。これ昔から花街で生きる舞妓の哀しい運命や。あんたには不憫どすけど……」
「今でも、そんなこと、あるのですか?」
母親の涙を感じながら、尋ねてみた。
「そらあ、分からん。伝統と格式があるとこなら、人知れず続いとるかも知れん」
そこには明らかにできない何か特別な事情があるようだった。けれど、母親は少し躊躇しながらも、さらに詳しく教えてくれた。
「花街は京都の幽玄の世界、舞妓と旦那の恋物語は続いてるはずや。あくまでも、大人同士の契りが前提やけどな。そやさかい、世間さまからは闇多いと、陰口を叩かれる。そやけど、ここは『悠久に語り継がれる、儚うも美しい愛の巣』なんや!」
その言葉は切なく悲しいものだった。僕はなおさらそれに納得がいかなかった。すずさんが語る花街の愛は、僕とあかねの恋とは全く異なるものだった。僕はただ黙っているわけにはいかなかった。
「それなら、僕とあかねが付き合うことを認めてもらえませんか? 愛し合う男女が一緒になれないなんて、まさに悲劇です」
すずさんは僕の言葉に思案に暮れたのか、黙って目を閉じていた。しばらくして、何かを決心したかのようにゆっくりと目を開き、口を開いた。
「悠斗はん、よう聞いとぉくれやす。あかねもしっかりとな。あんさんに娘を幸せにできる甲斐性はありまへんやろ。まだ、青二才のひよっこや。女ひとり食べさすのもやっとなら、綺麗ごとを言わへんどぉくれやす」
母親の手元にあった白い封筒がちらりと見えた。それはまるで、僕があかねの命を救ったことに対するお礼のように見えた。中には現金がぎっしりと詰まっており、紙幣が束になっていた。すずさんは黙ったまま、その封筒を僕の前に差し出した。
しかし、僕にはそれを受け取るつもりはさらさらなかった。なぜなら、あかねを助けたのは報酬を期待してのことではなかったからだ。
お金が重要なのは確かだ。これまでの僕は優しさはあったけれど、物事を成し遂げる力や頼りがいは不足していたかもしれない。けれど、あかねと一緒にいれば、どんなことでも乗り越えられるという希望を抱いていた。
「でも、これから一流のプロとして……」
「そないな戯言は言わんでええ。悔しいんやったら、一人前の男になってから言うたら聞くで。愛だけでは、ご飯食べられるほど世界は甘ない」
「…………」
あまりの厳しい剣幕に言葉も出なかった。
「自信がのうて、出来ひんなら、東京にとっとと帰りなされ」
「いや、帰れません」
男として、黙ってはいられなかった。
「いつまでも待てへんさかい。あかねはもうすぐ18歳になる。昔やったら、すでに嫁に行っとる年齢どす。成人になったら、身請けを望む若い旦那がぎょうさんおるやろう。すでにひとりあてもあるのや」
母親の言葉は氷山の先端のように冷たく、鋭かった。それは、あかねを見捨てるという意味を含んでいた。その言葉が僕の心に深く突き刺さり、怒りがこみ上げてきた。
あかねも涙を浮かべながら心配そうに僕を見つめていた。これは僕にとっての試練の時だ。男として、決断を下さなければならなかった。後退せず、自分の意志を言葉にする決意を固めた。
「お母さん、愛する女性が身請けされるなんて、許せないです」
「あんたに母親呼ばりされるなんて百年早いわ。男がいっぺん言うたことは、撤回することは許されへんのやで。やれるもんなら、結果で勝負しとぉくれやす」
このままでは、僕は立ち行かなくなるだろう。彼女をこれ以上泣かせるわけにはいかない。一流のプロカメラマンになるという決意を固め、母親の厳しい言葉を胸に刻み、揺るぎない信念と覚悟を新たにした。
「すずさん、あかねを幸せにする自信があります。そして、一流のプロカメラマンになります。それが僕の夢であり、目標です。だからこそ、僕はあかねと一緒に京都で生活したいんです」
母親はしばらく黙って考え込んだ後、深々と頷いた。
「そうか……。せやったら、あんたらの道を邪魔するつもりはあらへん。ただし、約束やで。あんたが一流のプロカメラマンになったら、許すさかい」
すずさんの言葉はきわめて厳しかったが、期限は示されず、不明瞭さが残った。僕たちがこれからも関係を続けても良いのか、確信はないものの、許可されたように感じた。その僅かな希望に、僕は願いを込め、心で祈った。それは、僕たちの愛が認められ、一緒に未来を歩むことを願うものだった。
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