第41話 六角堂の導き


 お盆が過ぎた後、野々村すず(あかねの母親)さんとの決定的な対決の時がついに訪れた。戦いの火ぶたが切られ、一刻の猶予も許されず、もはや躊躇うことはできなかった。黄昏の空に一番星を確認し、あかねを闇から救出する挑戦が始まった。


 あかねの話では、すずさんは六角堂の近くの古民家で雑貨店を営んでいるとのことだった。僕は入院中のあかねとの初デートなどで彼女に三度会ったことがあった。母親はその都度、二面性を見せ、巧みに京都弁を使い分ける女性だった。


 今夜、あかねがその小間物屋の実家にいるかもしれない。それはむしろ好都合だった。正直なところ、彼女が味方になってくれることを望んでいた。


 時刻は五時半を迎え、空に雷雲が迫っていることに気づいた。しだいに暗雲が漂う中、手紙の宛先を頼りに訪ねて行った。


 六角通りをひとり歩いていると、梵鐘の音色がまるで叱咤激励するかのように聞こえてきた。勇んでやって来たものの、あかねの実家が近づくにつれ、不安に苛まれていたのかもしれない。


 近くには古刹の鐘楼が建ち、水を打ったような石畳の通りには京都らしい町家が並んでいた。紅殻格子や虫籠窓が特徴的で、軒下には竹の犬矢来が際立っていた。


 六角堂の境内に足を一歩踏み入れると、仏さまが宿るとされる聖地でありながら、空気が急に変わり、不思議な異世界のように感じられた。


 頭上には暗澹たる雷雲が迫り、今にも天気が変わりそうな予感が漂っていた。そんな中、「縁結びの柳」と記された看板が目に留まった。僕は興味深いものに心惹かれる癖があり、自然とその脇道へと引き寄せられてしまった。


 案内板によれば、六角堂の柳に願をかけると、良縁に恵まれるそうだ。昔、この地に住んでいた女性が愛する男とやむを得ず別れる際、柳の枝を輪にして渡し再会を願ったという。やがて一年後の春を迎えた頃、ふたりは再会できたと伝えられている。


 目の前に、柳の枝が冷たい北風に揺れていた。その枝にはたくさんのおみくじが結ばれていた。二本の柳の枝をひとつにし、おみくじを結ぶと、この上ない縁結びの御利益があるらしい。


 運命的な導きかどうかはわからないが、あかねとの別れにより、今の僕の心境に深く重なっていた。他にも同じ苦しみを持つ人がいるのだろうか、神聖な木に向かい、若い女性たちが集まり、静かに手を合わせていた。


 僕も思わず彼女たちの仲間入りをしたくなった。彼女たちの真剣な眼差しに気づいて、驚いた。美しくもあり、健気に見える女性たちに敬意を表しながら通り過ぎた。


 もうひとつ、目を引くものがあった。本堂へと続く参道には、穴の開いた六角形のオブジェが設置されており、それは「へそ石」と呼ばれている。京都の中心に位置することからこの名前が付けられたようだ。


「神さまでも仏さまでも構いません。どうか、力を貸してください。今夜だけでも、お力添えをお願い致します」。そう念じながら、そっと手で触れた。


 六角堂を出たところで目に留まったのは、一軒の小間物屋だった。店先の行灯が朧げに明かりを漏らし、「風車の小町紅屋(かざぐるまのおまちべにや)」と書かれた看板が見えた。なかなかセンスのいい屋号である。


 これが母親の経営する店かもしれない。もう一度、住所を確かめてみた。中京区六角通東洞院西入堂之風祭町の241。間違いなく合っていた。


 しかし、突然の雷雨に遭遇し、古風な小間物屋の格子戸の軒下で雨宿りするしかなくなった。このままでは濡れ鼠になってしまう。


 ため息をつきながら、嵐の前夜のような気持ちで空を見上げた。こうなったら、当たって砕けろだ。町家の庇にいつまでも身を寄せてはいられない。清水の舞台から飛び降りる覚悟を決めた。


 店の扉を急いで開けると、鈴の音がしたものの、誰もいないようだった。不在なのだろうか……。期待を胸に訪れたが、不安と恐怖が湧き上がってきた。けれど、ふとした風が店内に吹き込んだのか、藍色の暖簾がゆらゆらと揺れ、まるで心の奥まで見透かされるような感覚に包まれた。


 店内を人目を避けるように見て回った。円相窓のように丸く切り抜かれた簾戸があり、見るほどに花街の待合茶屋のようなしっとりとした艶やかさが感じられた。間口は狭いけれど、奥行きがあり、京都らしい雑貨が随所に見受けられた。


 あぶらとり紙、椿油、髪飾り、櫛、かんざし、お手玉、和紙の便せん……が所狭しと並べられている。天井からは吊るし雛が飾られており、女の子なら思わず「可愛らしい」と呟いてしまうだろう。どこからともなく、京都の手まり歌の音色が聞こえてくる。



 まるたけえびすに おしおいけ

 あねさんろっかく たこにしき  

 しあやぶったかまつまんごじょう  

 せったちゃらちゃらうおのたな  

 ろくじょうひっちょうとおりすぎ  

 はっちょうこえればとうじみち

 ……………



 懐かしい音色と歌に心が高まり、同時に癒されていた。周りには他のお客様もいるようだ。ひとりの女性、色鮮やかな装いの舞妓さんが京紅を手に取り眺めていた。さらに奥へ進むと、僕を認識したかのように、見覚えのある少女が振り向いてくれた。その笑顔は間違いなく、あかねそのものだった。


 糺の森を一緒に歩いたあの少女との再会の夢が叶った。彼女は紺地に上品な綿紅梅の浴衣をまとい、月、すすき、蜻蛉の図柄が描かれた生地は秋の情緒を感じさせた。彼女が少しずつ成長していく姿を実感できた。


 あかねと視線が交わった瞬間、彼女は驚きで目を丸くし、涙があふれそうな表情になった。その儚げな姿は、かつてないほどに美しく輝いていた。


 僕の心の底では、もう二度と会えないと半ば諦めていたのかもしれない。あかねに一歩ずつ近づくごとに、ふたりの距離は少しずつ縮まっていった。彼女を抱きしめたいという衝動に駆られながらも、感情を必死に抑えた。母親のすずさんに気づかれないよう、指を唇に当ててから、カバンから写真の入った封筒を取り出し、彼女にそっと渡した。


「これ、現像できたから」


 それは、初夏の日差しが降りそそぐ中、糺の森で撮影した写真だ。どの写真も、あかねの忘れがたい素晴らしい笑顔を捉えていた。


「悠斗はん……。おおきに……」


 彼女の声には不安と期待が混ざり合った繊細さがあり、心に深く響いた。しかし、その言葉は突然途絶えてしまった。


「今夜はお母さんに用事があって。すずさんは?」


 静かで低い声で尋ねた。「あかねとは後でゆっくり話したい」と。彼女はのれんをくぐり抜け、店の奥に向かって声を掛けた。


「おかん、悠斗はんが来られてます」


 すずさんが急いで顔を見せた時、眉間にしわを寄せているのが見えた。少し間をおいてから、彼女ならではの鋭い京都弁で話し始めた。その言葉には、一瞬身を硬くするほどの威圧感があった。


「早う、入っとぉくれやす。あんたは、店番しといてや。うちは古い家やさかい」


 母親の言葉は娘に向けられているのだろうか……。いずれにせよ、まったりとした京都弁ではなく、早口で冷たい響きに聞こえていた。


 すずさんは、京都の友禅染めを彷彿させる和服をまとっていた。雅な文様の一つひとつが色鮮やかに映え、繊細さの中に豪華さと力強さが感じられた。母親の背を追いながら、細長い廊下を歩いていた。


 案内された客間の小上がりには、炎のように赤く花弁を染めた彼岸花が咲き誇り、不気味な光を放っていた。その艶やかさには危険が伴い、花の寿命が短いこともよく知られている。あかねの母親が生け花の師匠であったことを思い出した。


 一方、白い彼岸花はリコリスとも呼ばれ、その花言葉は「思うのはあなたひとり。また会える日を楽しみにしています」とされている。行灯の朧げな明かりが、赤い花と母が身につける花鳥風月の文様を幻想的に浮かび上がらせていた。


 あかねから「うちは貧しいさかい」と聞いていたが、その場の雰囲気は貧困にあえいでいるようには見えなかった。

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