第40話 哀愁の送り火
あかねが本当に渡月橋で自らの命を断とうとしたのかは定かではない。彼女が救われたのは、もしかすると神さまの思し召しだったのかもしれない。
あかねの父は、もう戻ることのない永遠の国へ旅立ったのだろうか。そんな思いが心を巡ると、謎はより深くなり、涙は止まることなく溢れ出てくる。
目の前には漆黒の川面が広がり、灯籠の炎が揺らめき、遠く山間に鳥居の送り火が静かに消えていった。その情景は、京都ならではの晩夏の哀愁を帯びた風情が漂わせていた。
五山の送り火を後にし、野宮大黒天様へと足を運ぶと、門前にたたずむ白狐が「悠斗はん、まだ諦めたらあかん!」と寂しげに囁くのを感じた。その声は心の奥深くに響き、あかねへの思いを再び燃え立たせた。
それは、切なさと希望が交錯する、甘くて苦い感情であった。この感情は自分でも理解しがたいものであったが、あかねを思い続ける決意は揺るがなかった。それは心の底から湧き上がる、真実の感情だった。
✽
翌朝、目が覚めた時、セミの鳴き声が夏の名残を惜しむように心に響いた。カナカナという微かな音が静けさを切り裂き、遠くまで響き渡った。その音色は刻々と変化し、ヒグラシのような儚さと切なさを帯びていた。セミの声に耳を澄ますと、言葉にできない感情が溢れ出し、僕は部屋を飛び出して階段を駆け下りた。
胸騒ぎがして、階下の郵便受けに手を伸ばすと、一通の手紙が寂しげに置かれていた。驚きと戸惑いで心がざわつきながら、封筒を手に取り裏返した。突然、「あかね」という名前が木漏れ日に照らされ、明るく浮かび上がった。それは、遠く離れたあかねからの無言の叫びであり、僕に対する切なる思いの証だったのかもしれない。
「あっ、あかねから手紙だ」
まるで夢を見ているかのような、信じられない光景に出くわし、思わず声を上げてしまった。その瞬間、心が激しく揺さぶられた。それは、夏の終わりを告げる遠雷が静けさを切り裂くような衝撃であった。
部屋に急いで戻って手紙を開けると、あかねの丁寧な言葉が綴られていた。その一言一句が心を打ち、目頭が熱くなった。彼女特有の深い思いや切なさが、文字を通じて伝わってくるようだった。
あかねが僕の思いを察して、母親に内緒で手紙を送ってくれたのだろうか……。その複雑な思いが胸を締め付け、僕の無力さと不安が混ざり合って息苦しさを感じた。
しかし、未成年者とは思えないほどの舞妓さんらしいはんなりとした言葉が、夜空に輝く星のように心に響き、癒してくれた。
悠斗はんへ
悠斗はん、よう聞いとぉくれやす。
もう、運命の糸が切れてしもうたかのようどす。残念ながら、二度とお会いすることは許されんと、お手紙を書くのもこれが最後となってしまうかもしれへん。それがうちの舞妓としての悲しい運命の定めなら、しゃあないと諦めるしかあらへん。そやけど、うちは正直な気持ちを伝えたいのや。偽りを言うのんは嫌なんどす。
あの寒い朝、うちはいっぺん死のうとしたんや。そやから、あれは事故やないんどす。うちの意思で、桂川の冷たい水に……。なんでそないなことしたのか、ほんまのとこ、うち自身にも分からへん。
そやけど、前の日に叔父のとこに祖母の十三回忌の法要で行っとったんや。夜おそう、おかんと叔父がこっそり話す内容、偶然にも枕元の耳に入ってきた。幼い頃から「おとんが病気で亡くなった」て聞かされとった。そやけど、ほんまはおとんの分からへん「ててなしご」やったことを知ったんどす。
若い頃のおかんは、祇園の舞妓をしてました。十八歳の時、ご贔屓の旦那衆のひとりに恋をして、うちが生まれたんどす。やけど、もしかしたら、おとんは別な人かもしれまへん。そやから、戸籍上のおとんの欄には、今でも名前は書かれていまへん。
厳しいおかんやけど、責めるつもりは毛頭あらへん。たったひとりの肉親なんどすさかい……。幼い頃から気丈なおかんの背中を見ながら育った気ぃする。一人前の舞妓としてのしつけは、おかんからすべてを習うてきたんや。それが花街で生きるうちらの定めなんどす。
うちは目の病ちゅう厳しい戦いもしてました。いつ左目、ほんでいつ両目が見えへんくなるのかちゅう不安な日々が続き、そないな心配が重なり、うち自身を見失うとったのかもしれしまへん。
そやけど、驚くべきことに、おかんが今出川にある清明神社の陰陽師はんにお百度参りまでして、うちが全快するよう祈ってくれとったことを知ったんや。
悠斗はん、おかしいやろ。そないなことで死のうとするなんて……。世の中にはもっと苦労してる人が大勢いるちゅうのに。「あほんだら」って、遠慮せずにきびしゅう叱っとぉくれやす。いま、うちは生きてます。運命の神さまが暗い世界から引き上げてくれたさかい。
色鉛筆で花の絵を描いて渡したら、傷だらけのうちでも、悠斗はんは「一緒に歩きたい」って言うてくれた。うち、ほんまに嬉しかったんどす。
ふたりで歩いた初夏の「糺の森」は眩しおして綺麗どした。悠斗はんとの最初で最後のデート。短いひとときやったけど、うちにはえらい楽しかったんや。
最初、悠斗はんには、うちが可哀そうに見えたかもしれまへん。ふと、不安な気持ちが浮かんでました。そやけど、優しい笑顔に救われ、いつのまにかその不安も消えてのうなった。
うちのこと可愛いとも、言うてくれはったなぁ。もう胸の中で激しく鐘鳴って、熱うなって。それが悠斗はんに聞こえてしもうたのが、えらい恥ずかしかった。
「女心と秋の空」ってよう言うやろう。そやけど、うちの心は嵐山を流れる桂川の清流のように、どこまでも透き通った水ごころ。その鏡にはひとりの人がずっと映ってます。眩しいくらいの笑顔や思いやり、こないに辛おしてしんどい気持ち、初めて知ったんどす。
悠斗はんに代わるお人なんていまへん。きっともう現れへんやろう。だって運命の神さまなんどすさかい……。悠斗はんのお邪魔にならんように、その思い出をこよなく大切にしてうちは生きていくさかい、心配せんといとぉくれやす。
もう、死んだりしまへんさかい。安心しとぉくれやす。早う一人前のプロのカメラマンになってや。
ほんまになっておくれやす。ファイト! 色々とおおきにな。
悠斗はんへ。最後に心からの思いを詩に託してお届けするさかい。拙い文章でかんにんえ。この詩を、どうかいつまでも胸の奥底にそっと留めておいておくれやす。
悠久の都にひっそりと
たたずむ祇園の花街
耳をすませば
祇園精舎の鐘の音
諸行無常の響あり
うちはそこで生まれ育った
移ろいやすい影の中の花
舞台は華やかでありつつ
下駄の音も軽やかに響く
そこには人々を惹きつける
おもてなしの花が咲く
けれど、一歩でも
花の心を覗き込めば
風花の舞う雪景色のように
どこまでも透き通っており
冷たく、静かだ
花を舞う蝶に成り代わる
うら若き舞妓のひとり
恋をせずにはいられない
恋をすれば美しき花は散る
それが花街のさだめ
けど、ただひとりの人を
心から愛し、彼を想う
それが禁断の恋と知りつつも
花柳界で生きるうちは
その運命を受け入れながら
人知れず愛する人へと
切ない想いを馳せている
はかなくも美しい蝶として
祇園の花街で生きてゆく
それがうちの運命と定めて
長々とかんにんえ。ほな、さいなら。
(あかねより)
文章の中には、ところどころにあかね特有の幼さが感じられる言葉が散りばめられていた。本音で伝えたかったのか、手紙の中に話し言葉が混じっていた。
しかし、涙なくしては読めないその手紙を前にして、どこまでも澄み切った水の流れに映る儚い少女、あかねの姿を思い描いた。このままでは彼女と再び会うことは叶わないだろう。読むたびに、男としての自分の未熟さを悔やんでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます