第39話 消えゆく面影
あかねと別れてから、孤独で空虚な日々があっという間に過ぎていく。京都の街は晩夏を迎え、耳に残るのはセミの切ない声と自分の深いため息だけ。どれほど美しい景色をカメラに収めても、心からの喜びは感じられない。
目を閉じると、あかねが舞妓さんの衣装をまとい、夜露に濡れて涙ぐむ姿が思い浮かんだ。彼女の残した「もう半年で高校を卒業するんや。そやけど、大学には行かへん」という言葉が、心の奥底に響きわたり、突き刺さるような痛みを感じさせた。
卒業を待たずに、彼女が舞妓さんとしての修行を諦めてしまう現実も受け入れることはできない。それは、遠い星の光が夜空を照らす前に消え去るような絶望感に似ている。この感情をどうやって誰かに伝えればいいのだろうか……
あかねが何気なく漏らした「おとんがいない」という呟きと、今なお解明されていない「うちの定め」という謎が、僕の心を揺さぶった。その言葉は、いつも可愛らしく流暢な京都の花街言葉で、現代の若者が使うものとはまったく異なっていた。疑問は次々と湧き上がる。
初めてのデートの日、去っていくあかねを止められなかった。星月夜に照らされた彼女の姿は、一夜限りで花開く月下美人のように幻想的に輝いていた。一刻も早く彼女とともに逃げ出したいと願ったが、それは叶わぬ夢であった。自分の弱さと臆病さに嫌悪感を覚え、後悔の涙を流した。
僕の心は寂しさに蝕まれ、現代の京都から離れ、平安時代の幽玄な世界へと心を馳せていた。そこでも、冷たい冬の中、悲しげに舞う風花とともに、あかねという名の少女が現れた。彼女が振り返りながら放った別れの言葉は、銀色の世界に響きわたった。彼女は僕の心に消えない傷を残し、去っていった。
下鴨神社であかねに再会した際、僕は初めて「真実の愛」を感じた。それは、おそらく世間でいう「純愛」のことだろう。彼女の笑顔、声、仕草に僕の心は完膚なきまで奪われた。彼女を失うことは、僕にとって死と同じだ。彼女が夜露へと去った後、僕の心は暗闇に沈んでいった。
震えるほどの怒りと悲しみの中で、セミの抜け殻(空蝉)のような心にポッカリ穴があいた日々を過ごす自分自身に対して虚しさも感じていた。この無為な状態を続けることは許せず、また別れを受け入れることもできなかった。彼女にもう一度だけ会いたいという切実な願いを込めた手紙を送った。
数日後、戻ってきた郵便物を見て、血の気が引いた。未開封の封筒には、冷酷な受取拒否の印が押されていた。
「なぜだ……!」
手紙と一緒に、時間を惜しまず選んだあかねのベストショットの写真も送ったというのに……。どうしても彼女にはその写真を見てもらいたかった。理由が何であれ、人の善意を無視することは許されない。涙は止めどなく溢れ出ていた。
「この怨み、晴らさなければ!」
そう心に誓った。でも、本当にそれが僕の望みなのだろうか。それは、あかねが望むことなのだろうか……。自分自身が何を欲しているのか、わからなくなっていた。
僕は自暴自棄となり、怒りに任せて手紙を破り、床に投げ捨てた。そして、涙ながらに独り言を呟いた。母親があかねとの絆を断ち切った。彼女は僕からかけがえのない幸せを奪ったのだ。悔しさと母親への憎悪で心が満たされた。
しかし、あかねへの愛情は変わらず、彼女の笑顔、声、仕草が心に残っている。逆境に立たされ、苦難が深まるほどに、彼女への愛も一層深くなる。六角堂や手紙の住所を頼りにすれば、あかねの居場所を見つけることができるだろう。夕暮れ時に星空が広がると、母親と直接話をして、決着をつけたくなる。
今日は八月十六日、お盆の最中であることに気づく。祇園囃子の賑わいが静まり、古刹の庭では蝉しぐれが過ぎゆく夏を惜しむように木々を優しく揺らしている。
京都の街では、冥界に響き渡るとされる『迎え鐘』を皮切りに、精霊を見送る伝統行事がお盆明けまで続く。寺の門前で焚かれる篝火の灯りが揺れ、五つの山で送り火が点される時、人々は悠久の地に旅立った先祖を偲び、心を寄せる。この感慨深い風景は、まさに京都ならではのものであり、心に深く刻まれるのだ。
けれど、僕の心は落ち着かず、ただあかねに会いたいという思いが強くなるばかりだった。この重要な日に個人的な感情に身を任せるのは辛いが、居ても立っても居られず、ひとりで出かけることに決めた。お盆の日に母親と衝突するのは避け、まずあかねとの思い出の地を訪れることにした。
✽
あかねの命を救ってくれた神々が宿る嵐山の渡月橋に向かった。なぜか、この地で彼女の姿を探している気がした。しかし、いつも相棒となるカメラを持っていなかった。あかねがいなければ、写真を撮る気にはなれなかったからだ。
今夜の八時頃、最初に「大文字」が点火される予定になる。先祖の精霊を見送る伝統行事である「五山の送り火」は、古都の由緒ある風情を伝えるものだ。東山には大文字が、松ケ崎には妙・法、西賀茂には船形、大北山には左大文字、そして嵯峨野には鳥居形が灯される。
四条大宮駅から路面電車に乗り、三十分ほどで嵐山に着いた。日没前、渡月橋近くの中洲公園で、悠久の時を刻む桂川の景色を眺めていた。浴衣姿の女性たちはラムネを飲みながら川べりに佇み、大文字焼きの絶好の観覧スポットを確保していた。
空が紫がかった濃い青色に変わり、黄金色の渡月橋が川面に映える一瞬、ひとり取り残された孤独が心にしみわたった。空が暗闇に覆われると、先祖を偲ぶ灯籠の光が緩やかに流れ、深い哀愁を帯びた風景が徐々に広がっていった。
僕の心は限りなく重苦しく、冷たさを帯びていた。花街の「籠の鳥」のように思われるあかねの姿が、揺れる灯籠の光に捉えられていた。木と紙でできた鳥籠は、涙のように赤く染められていた。鳥籠にあかねの面影が浮かび上がる一方で、揺れる炎は人の温かさ、思いやり、そして死後の世界の儚さを物語っていた。
手を伸ばし、鳥籠に触れようとしたが、この地の縁結びの神さまは僕の願いなど叶えてはくれなかった。
「あかねを自由にしてあげたい」という切実な願いは無下に撥ね付けられ、胸が痛んだ。鳥籠は手の届かない遠くに流れ去った。失望し、彼女がもはや手の届かないところにいると悟った。涙を流しながら、消えゆく彼女の面影に「あかね、元気でね」と呼びかけた。
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