第38話 切なさの極み


 車を停めて、あかねの帰りを待っていた。目の前では、かつらを被り、あじさいや菖蒲の花かんざしを挿した芸妓さんたちが「綺麗やわ……」と話しながら、山鉾の槍の先を指でつついていた。


 芸妓さんたちの落ち着いた艶やかな姿は、花街で修業中のあかねの未来の姿と重なった。彼女がそのような美しい女性になることを誇りに思う一方で、その切なさに心が締め付けられた。


「男の人は皆おんなじ、えらい好かん。こらこら、怒るでぇ。そやけど、うちもあないな女性になりたいなあ……」


 気づいた時には、厄除けの粽を二本手に持って戻ってきていた。彼女は僕の悪ふざけを見つけ、優しく叱ってくれた。


「なりたいって、どういう意味?」


 彼女の言葉は意味深で、何を伝えたいのか謎に包まれていた。あかねはいつも多くの謎を秘めた女性だ。しかし、そんな余裕を楽しむ暇はなかった。気がつけば、山鉾の周りにはすでに人だかりができており、車は思うように動かせなくなっていた。


 先頭には長刀鉾(なぎなたほこ)、後ろに函谷鉾(かんこほこ)、右側に郭巨山(かっきょやま)と四条傘鉾(しじょうかさほこ)があり、左側には小さく月鉾(つきほこ)がある。そして、右隅には空に向かって高く伸びる菊水鉾(きくすいほこ)と、からくり仕掛けの蟷螂山(とうろうやま)が……。


 それぞれユニークな名前が付けられており、祭りに詳しい彼女がそれらを教えてくれた。祭りで主役を務める山鉾は、壮大で堂々としている。しかし、あかねの儚い姿が気になり、後ろ髪引かれる想いで見つめていた。


 あかね、あかね……。夜が深まるにつれ、僕の心は彼女であふれていった。あかねとふたりで過ごせる時間は、せいぜい後五分だろう。家まで送るという約束をしていたのに、もう暗闇が訪れていた。悲しいけれど、時間は待ってはくれなかったのだ。


 あかねと四度の不思議な出会いを重ねてきた。しかし、彼女の生い立ちや家の場所については何も知らされていない。僕はいったい何者なのだろうか? 寂しさを感じた瞬間、彼女が決意した様子で話し始めた。


「うち、もう半年で高校を卒業やろう。そやけど、大学へは行かん」


「えっ。どうするんや」


「もっと花街で修行始めんねん。怪我で遅れてもうたけど……」


「…………」


 僕は黙ったまま聞いていた。


「踊りと小唄、あとは三味線かいな。うち頑張るさかい。おかんに負けへんように」


「…………」


 僕は気持ちが高ぶって、もう言葉にならなかった。


「今日はほんまに楽しかった。一生の思い出になんで。おおきに……」



 あかねは心を開いて話してくれた。その言葉から彼女の生い立ちが垣間見える。母親は若い頃から花柳界で生計を立ててきた女性のようだ。父親はいないらしい。現在は母親と共に、六角堂近くの歴史ある風祭町に住んでいる。母親は生け花の教師をしながら、小さな雑貨店を営んで生活しているとのことだ。


 六角堂の灯りがぼんやりと近づきながらも、そのままで見える。もっとふたりの時間を求めてもいいのではないだろうか。少なくとも、ふたりだけの時計の針が止まることを願っている。


「その辺で車を停めとぉくれやす。最後まで、ほんまにおおきに」


 あかねは寂しげにそう呟いた。

 

 僕の中から深い悲しみがあふれ出し、その悲しみの波に彼女の言葉が静かにのみ込まれていった。彼女は僕にとって、命を救った少女以上の特別な存在だった。初めて心から愛した運命の人、そう感じていた。


「あかね、どんなに遠く離れても、君のことを忘れない。君の夢を応援し続けるよ」


 彼女は微笑みながら、涙を拭いてこう言った。


「お太子はんには悪いけど、うちにとって目ぇ直してくれたお釈迦様のお家や。ほんまは、この道も一緒に歩きたかったのに……」


 毎日、あかねは六角堂の仏さまに祈りを捧げ、庭の花を摘んで供えていた。彼女は幼少期から目の病に悩まされていた。


 どれほど遅くなっても、僕はあかねとの別れを望まなかった。車のドアを開けて彼女を下ろし、周囲の目を気にすることなく、強く抱きしめてキスを交わした。その瞬間、彼女の甘い香りが僕の鼻をくすぐった。


 突然、今では使われなくなった「四文字」の言葉が心の中をよぎった。思い出すと、彼女はまだ未成年だった。万が一、未成年者をたぶらかした罪で逃亡者になり、常軌を逸していると非難されたとしても、あかねと見ず知らずの遠くに『駆け落ち』したいという強い希望が胸に湧き上がっていた。


「家まで送るよ。お母さんにも謝らないと」


 しかし、僕にはまだその一歩を踏み出す勇気がなかった。


「本当に臆病者の奴だ! 悔しかったら、あかねを救った時のようにもう一度勇気を見せてみろ!」と、心の中で自分自身に言い聞かせながら、葛藤に悩まされていた。


「やめとぉくれやす。うち、かえってつらくなるさかい。ほんまに、おおきに」


 あかねは、僕の熱い思いに気付かないのか、切ない微笑みを送ってくれた。僕は男だけど、彼女の優しさに涙が止まらなかった。このままだと、ふたりとも帰れなくなってしまうだろう。あかねも、僕の涙だけは感じていたはずだ。


「うちな……。最初で最後のデートやと初めから分かっとった。そやけど、嬉しかった。さいならやね……。もう、会えへんのやな」


 僕は笑顔で彼女との別れを受け入れようとした。しかし、彼女の瞳にはすでに涙があふれていた。その涙は僕の力を超え、頬を伝い胸に落ちていった。その涙の冷たさが、別れの言葉を凍らせるかのようだった。


 彼女の目には涙が満ち、月明かりに照らされて煌めいていた。それは僕の心に突き刺さるような切なさを帯びた光だった。月の光を浴びて星のように輝く彼女の涙は、何度も僕の心を揺さぶった。


 古い民家が立ち並ぶ通りに、ほのかな明かりが灯り、あかねの後ろ姿が、ゆっくりと消えていく。まるで影法師のように、儚げに光るホタルのようにも見えた。その姿は、遠くの星々が夜空に瞬くように、僕の心に深く刻まれていく。彼女の浴衣姿が、徐々に遠ざかっていった。


 彼女の去り際の歩みは、僕の心に深い傷跡を残した。京下駄のカランコロンという音が僕の耳に響き続け、薄紫の花影が目の前から消えかけていた。彼女の足取りは名残惜しそうに、ゆっくりとしていた。


 あかねは振り返り、最後の笑顔を見せてくれた。その笑顔は、僕にとって比類なく愛おしく、言葉では表せないほど美しく、心を癒すものだった。僕も無意識に微笑み返した。それは彼女の幸せを願う笑顔であり、同時に別れを受け入れる笑顔だった。彼女の姿は、薄明りの中で月下美人が輝くように、再び僕の心を動かした。


 彼女は小走りになり、線香花火の如くぱっと明るく燃え上がるように動き出した。あかねの姿は、風に舞う花びらのように一瞬の輝きを放ちながら消えた。その姿は、静かでありながらもこの上なく美しかった。


「あかね……」と名を呼びつつ、胸に「悔恨」と文字を刻み、涙をこぼした。彼女の笑顔を再び見ることが叶わないかもしれないと心に決めていた。それでも、あかねの笑顔を見ることができたのは、縁結びの神さまが織り成した運命の恵みとして、心から感謝していた。


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